6-1. 浮かぶ梅の実
学校から帰宅すると、玄関の中は外と同様に、どんよりとした空気に満ちていた。
六月に入り、朝のニュースでは大型の台風が近づいていると予報が出ている。俺の住む石森市がある宮城県は太平洋側とはいえ、沖縄や九州地方と比べれば台風が直撃することはひどく稀だ。でも梅雨特有の、ジメジメとした湿気を含んだ空気が辺りを覆っていた。
今日は雨が降りそうで、結局降らなかった。朝、出掛けに母から「持って行きなさい」と持たされた折り畳み傘は一度も開くことがなかった。カバンから引っ張り出し、玄関の下駄箱の上に置く。薄い水色の折り畳み傘は、母のものだった。
「あ、惟、おかえり。ちょうど良かった、貰い物のゼリーがあるから、手を洗ったら居間においで」
奥から母の声が響く。靴を脱ぎ、言われた通りに洗面所で手を洗ってから、制服のまま居間へと向かった。
居間には母と祖母がいた。五月中にこたつ布団が片付けられ、どこか広々として寂しさを感じさせるローテーブルの上には、上品な化粧箱に入ったゼリーが置かれていた。
「誰から?」
「ほら、こないだ引っ越した方がね、お礼にと持ってきてくださったのよ」
祖母が目を細めて教えてくれる。
祖母は昔からこの近辺にいくらかの土地と、いくつかのアパートを所有していた。祖母と母はその管理人を務めている。不動産業というほど大層なものではないけれど、いわゆる大家さんをして、収入を得ている。
「ふーん」
適当に相槌を打ちながら、俺はテーブルの上の箱を覗き込んだ。
八個ほど並んだゼリーは、半透明なオレンジや赤色っぽいものと、同じく半透明な薄緑色をしている。どちらも中に丸い果実が透けて見えていた。
さくらんぼか、ぶどうか……。なんとなく赤色っぽい方のカップを手に取ってみる。しかし、ラベルの文字に目を走らせた瞬間、それは梅のゼリーだと分かった。よく見たら、薄緑色の方も梅のゼリーだ。
……梅かぁ。内心で、小さくがっかりした。
あの独特の甘酸っぱさがあまり得意ではない。梅を食べるなら、普通に梅干しとして白米と一緒に食べたい。
そんな落胆を顔や態度に出したつもりはなかったが、そっとゼリーを箱に戻した手元を、母に見咎められてしまった。
「あら、いらないの? 惟、梅のゼリーって好きじゃなかったっけ?」
「うん、あんまり」
食べられないわけではないけれど、好んで選ぶ味ではない。
祖母と母はたいして気にした様子もなく、「じゃあお母さんたちで食べちゃうからね」と言って、手を伸ばした。
手持ち無沙汰になった俺は、二人がスプーンを動かすのを眺めながら、その梅のゼリーに、ふと古い記憶を呼び起こされていた。
――初めて梅のゼリーを食べたのは、シロさんに出会ったときだった。
ちょうど今くらいの季節で、今日みたいにジメジメとして、雨が降りそうで降らない曇りの日。
シロさんが初めてうちを訪れたとき、お土産にと持ってきたのが梅のゼリーだった。
*
シロさんに初めて会ったのは、俺が小学生になったばかりの年だった。
大きなランドセルを背負って学校から帰ってくると、玄関に見慣れない男物の革靴が綺麗に並んでいた。
その頃には、我が家はもう祖母と母、そして俺の三人暮らしだったから、客人が来ているのだと子供ながらにすぐ理解した。
居間のほうから「おかえり」と母の声が聞こえ、廊下をパタパタと歩いてくる音が響く。
ランドセルを床に置き、俺がゆっくりと玄関で靴を脱いでいると、母がやってきて優しく微笑んだ。
「惟、今ね、お母さんとお父さんのお友達が来てくれているの。惟も中に入って、ご挨拶しようね」
母はとてもにこにこしていて、どこか嬉しそうだった。
言われた通りに手を洗い、少しだけ緊張しながら居間の扉を開けると、そこには男の人が一人座っていた。
強烈に目を引くような印象も、派手な個性も特にない。けれど存在感がないわけではない。嫌悪感もまったく感じさせない、その場に水のように違和感なく溶け込んでいるような、なんだかさっぱりとした人だ、というのが最初の印象だった。
「やぁ。会うのは初めてだな」
その人が、穏やかに声をかけてきた。
「白椛祐介だ」
男の人――『シラカバさん』は、そう言って大きな右手を前に差し出してきた。
それが握手を求める手だということは分かったけれど、当時の俺は一瞬だけ戸惑ってしまった。小学生の日常生活において、大人と握手をするなんて機会は滅多にないからだ。
けれど、シラカバさんは差し出した手を引っこめようとはせず、「ん?」という感じで、優しく促してくる。
恐る恐る手を伸ばし、その手を握った。俺の手よりも一回り以上大きな掌は、温かくも冷たくもなかった。
「梅のゼリーがあるよ。シロさんがお土産にって買ってきてくれたから、惟も食べよう」
母がテーブルの上を示した。そこには、化粧箱に入れられたゼリーが並んでいて、小さなスプーンも用意してあった。
それまで俺は、梅のゼリーなんていうものを食べたことがなかった。薄い黄緑色の半透明なゼリーの中心に、丸ごとの梅の実が一つ、ぽつんと浮いている。
母の隣に腰掛けた俺は、小さなスプーンでゼリーをすくい、口へと運んだ。
あ……。
期待していた、お菓子やフルーツのような素直な甘さはなかった。甘いのか酸っぱいのかよく分からない、初めての味……あんまり好きじゃないな、と子供ながらに思った。けれど、食べられないほどではない。
母とシラカバさんは、昔の話や、シラカバさんの仕事の話をしていた。
これまで東京の方で仕事をしていたというシラカバさんは、今後はこの石森市に帰ってきて拠点を構え、仕事をするらしい。「何でも屋みたいなものだから、何か困ったことがあったら何でも相談してくれ」と、母に頼もしげに話していた。
二人の会話を黙って聞きながら、俺はちびちびとゼリーを食べ進める。子供心に「残すのは失礼だ」という意識があったため、頑張って全部を口に押し込んだ。
ただ、「美味しかったです」と言うのはすっかり忘れていた。というより、そんな発想自体が出てこなかった。お世辞にも美味しくはなかったから。
「惟、もう一個食べる?」と母に訊かれたけれど、俺は首を振って断った。もう十分だった。箱の中には、まだゼリーが五個くらい残っていた。
……そろそろ、自分の部屋に戻ってもいいかな……。
そんなことを思い始め、座りなおした瞬間、ふわりと不思議な匂いが鼻腔をくすぐった。
――海の匂いだ。それも、生々しい潮の香り。
気のせいかと思い目を凝らすと、テーブルを挟んで向かい側に座るシラカバさんの衣服のあたりから、その匂いが漂ってきているようだった。
「……海に、行ってきたの?」
気づけば、小さな疑問が口から零れ落ちていた。
「え?」
シラカバさんが、丸くした目を俺に向けた。
その一瞬の表情に、俺は言わなきゃよかったと激しく後悔した。隣に座る母からも「どうしたの?」と不思議そうな視線を向けられ、俺はきまり悪くなって、すぐに下を向いた。
ドクドクと、心臓が少しだけ早く脈打ち始める。
息を潜めても、もうあの匂いはしない気がした。ただの気のせいだったのかもしれない。それか、もしかしたら――。
「ああ、ここへ来る前にね、三波浜町のあたりを歩いて、慰霊碑を見に行っていたんだ。ついでに葦切海岸から海も眺めてきたから、その匂いが残っていたのかな」
慌てて顔を上げると、シラカバさんと真っ直ぐに目が合った。シラカバさんは優しく微笑んでいる。
「海のそばは、風も少し強かったからね」
本当に海に行っていたんだ。――変なことを口にして怒られたわけじゃないと分かり、俺は深くホッとした。
さっき一瞬だけ心臓がドキドキしたのは、もしかして目の前のシラカバさんの匂いではなく、シラカバさんについてきてしまった何かの匂いだったらどうしよう、と思ったからだった。シラカバさんからした海の匂いも、彼の周囲に漂う変なものの気配――いや、そんなものは見えなかったし、感じられなかったけど――かもしれないと身構えてしまった。
けれど、どうやら本当に、ちゃんとシラカバさん自身の匂いだったみたいで良かった。
俺はテーブルの下で硬くしていた足を、楽に投げ出した。
その後も母とシラカバさんはしばらく言葉を交わしていたが、やがてシラカバさんは「それじゃあ」と立ち上がり、帰っていった。
――その日を境に、シロさんはたまに、我が家へふらりと顔を出すようになった。




