6-3. 浮かぶ梅の実
シラカバさんは、もしかして人間ではないんじゃないか。
そんな突拍子もないことに思い至ったのは、彼の姿かたちが、あの最初の日から何一つ変わらないからだった。
髪形や服装が多少変わっていても、月に一回程度しか会わない――毎日顔を合わせていないからこそ、彼が変わらずにあり続けていることは、俺の目にはあまりにも異質に映った。
幽霊や妖怪と言っても、その姿かたちは千差万別だ。
見えるからと言って、必ずしも一目で人間と区別がつくというわけでもない。特に人間の形をした幽霊(それが幽霊なのか妖怪なのかは知らないが)は、生きている人間と変わらない姿に見えるときだってあった。
たとえば、あの震災のとき、東京や外国にいたという時期――シラカバさんは、実は死んでしまっていて……。
そこまで考えて、俺は激しく頭を振ってその突飛な想像を打ち消した。
――いや、シラカバさんはどう見ても、ちゃんとした人間の男の人に見える。
初めて会った日、俺は彼と握手をした。手のひらから伝わってきた確かな質量は、絶対に本物の人間のものであったはずだと、幼いながらに記憶している。
……ただ若く見えるだけで、俺の考えすぎなのか。
その後、俺は地元の市立中学校へと進学した。
学区が決まっている田舎の中学だから、基本的には同じ小学校の生徒がそのまま持ち上がり、隣の小学校が合併するだけのような、狭い世界だった。
当然、周囲からの俺への評価が変わるはずもなく、相変わらず「変な奴」「関わらないほうがいい」というレッテルを貼られたままだった。けれど、俺自身もう一人でいることにはすっかり慣れっこになっていて、むしろその方が気楽でいいとすら思っていた。
日常的に見えてしまうものに関しても、状況は変わっていなかった。相変わらず怖いとは思うけれど、年齢を重ねるごとに『見えないふり』の技術だけは確実に上達していった。
家に時々現れるような、手のひらサイズのよく分からない小さな異形たちには害がないことも分かってきたし、家の外で出会う少し大きめの怪異であっても、目を合わさず、周囲の人間と全く同じように平然と振る舞ってさえいれば、あちら側も気づかない。その法則を身体で理解してからは、日々の生活はだいぶ楽になった。
それでも、うっかり目が合ってしまったりして、結局住宅街を必死に走って逃げ帰るような日が、完全にゼロになったわけではなかったけれど。
その日は、朝から雨が降っていた。
朝は傘を差して登校したが、下校時刻になる頃には幸いにも小雨程度にまで落ち着いていた。ぽつぽつ、と傘の布地を叩く音が耳元で小さく鳴り響く。空を覆う薄明るい雨雲のせいで、世界全体が白っぽくボーッと明るいだけで、視界はあまり良くなかった。
学校の敷地を出て、車通りの少ない道路脇の細いアスファルトを進む。天気が悪いせいか、いつもよりは車がちらほらと通り過ぎていく。
そのまま歩いていると、少し前方を、ランドセルを背負った三人の小学生が歩いているのが視界に入った。
傘の丸いシルエットにすっぽりと覆われている小さな背中。ランドセルには黄色いカバーがついているのが見えたから、きっと一年生だろう。
道幅がそれほど広くないため、前方に並んで二人が歩き、その後ろを追いかけるようにして、少し離れた位置にもう一人がついている。
……そういえば、中学生にもなると長靴を履いて登校する奴っていなくなるな。
小学生たちの足元の長靴を見て思う。俺は今、中学入学時に買ってもらったローファーを履いている。校則では確か運動靴か革靴と指定されていたはずだが、雨の日の長靴は認められているのだろうか。
他愛のない思考を巡らせながら、歩く。小学生の間にぐっと背が伸びた俺の歩幅は、前を歩く三人のそれよりも大きいため、歩いているうちに徐々に彼らとの距離が縮まっていった。
そしてふと、前方を歩く三人の小学生の様子がおかしいことに気がついた。
前を歩く二人が、身体は前に向けたまま、ちらちらと視線だけを後ろに巡らせて、もう一人の様子を窺っている。そしてすぐに前へ視線を戻し、二人は肩を寄せ合って、時折ひそひそと話をしているのが分かった。
……一人は、仲間外れにでもされているのか?
一瞬そう思ったが、直後、それにしてはなんだか二人の漂わせる空気が不自然だった。まるで、後ろからくるものに緊張しているような……後ろをついていく一人の姿に、俺はよく目を凝らしてみた。
――全身が、薄汚れていた。
差している傘も、ランドセルの黄色いカバーも、着ている服も長靴も、まるで乾いた泥がそのまま固まったような、不自然な茶色がところどころに。何十年も前に使っていたもののような古臭さ。傘の柄を持つ小さな手がチラリと見えたのだが、その肌はやけに青白い。
天気のせいで、視界が悪いせいだけじゃない。あれは……後ろからついていっているあの子は、人間じゃない。
幽霊、妖怪、何なのか明確には分からないけれど、生きている人間ではなかった。
雨のせいでシルエット自体はぼんやりと煙っているが、前を行く二人の小学生が道路の水たまりを早歩きでパチャパチャと水を跳ねさせて進むのに対し、後ろのやつは同じような速度で追いかけながら小さな手を前に伸ばし、二人を捕まえようとしているようだった。
暑くもないのに、ひやりとした冷たい寒気で、鳥肌が立つ。
あの小学生の二人も、たぶん、何か感じていて、だからこそ気にしながら急いで帰ろうとしているのか。もしくは、なんとかして撒こうとしているのか。どちらにしても、必死で逃げようとしていることだけは確かだった。
――どうする?
いつも通り、見えないふりをしてそのままやり過ごすか? あの小学生二人のことは全く知らないし、俺が行って助けられるとは限らない。いや、そもそも怪異から人間を助ける方法なんて、知らない。
もし不用意に近づいて、あれが振り返って俺の存在に気づいたら。
今度は俺についてくるようになるかもしれない。小学生くらいの比較的小さなサイズに見えるけど、ずっとその姿のままでいる保証なんてどこにもない。
気づかなかったことにして、今すぐ帰宅のルートを変えるべきか――。
けれど、ここで急に立ち止まったりすれば、それはそれで気づかれそうな気がして、俺は同じ一定のペースで歩き続けながら、必死に思考を巡らせた。
じっとりとした冷や汗が、こめかみを静かにつたった、そのときだった。
「――惟!」
不意に、名前を呼ばれた。
驚いて顔を上げると、道路の向こう側に、シラカバさんが立っていた。透明なビニール傘を差し、こちらに向かって大きく手を振っている。
「今帰りか?」
思わず立ち止まっていると、シラカバさんは車が途切れた隙に、道路を小走りでこちら側へ横断してきた。
「あ、はい。帰りです。シラカバさんは、どうしてここに……」
「いや、最初は君の姿には気づいていなくてね、あっちに目が留まってな」
シラカバさんはそう言って、小学生たちが歩いていった前方の方を指さした。
ハッとして視線を戻すと、前方を歩いていた背中はもう二人しかいなかった。後ろからついていっていたものは、どこにもいない。小学生たちは何かがいなくなったことにはまだ気づいていないようで、早歩きのまま、先の角を曲がってその姿を完全に消した。
「俺はちょうど、反対側の車線を車で走ってきていたんだよ。子供たちが何かに追いかけられているのが見えたから、ちょっと可哀想になってな。追い払ってやろうと思って、そこの駐車場に車を停めて降りてきたんだ」
シラカバさんは、向かい側の病院の駐車場を手で示した。
「……さっきのやつは『雨降り小僧』か、あるいは『唐傘小僧』の類だ。基本的に人を驚かすのが好きなだけの無害な連中だから、放っておいてもそんなに危なくはないんだな」
淡々とそう語るシラカバさんと真っ直ぐに目が合い、俺は硬直した。
――この人、俺が見えること前提で話をしている。
そして、俺がそう気づいたことにも、ちゃんと気づいている。
「今日はこのあと特に予定もなくて、ドライブでもしようかと思って車を走らせていたんだ」
シラカバさんは、手に持っていた車のキーを俺の目の前でチャラと揺らしてみせた。
「良かったら乗っていかないか? 家まで送る」
「……はい。お願いします」
俺はごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと頷いた。




