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5-9. 垢を舐める

 

 昨夜と同様に、俺とシロさんは夜の岩之湯(いわのゆ)を訪れていた。

 シロさんが事前に無理を言って、今日の営業終了時間を少しだけ早めてもらっている。

 ひっそりと静まり返った待合室には、現在、俺とシロさん、岩渕(いわぶち)さん、そして不可解そうに眉を顰める近藤(こんどう)の姿があった。


「何なんですか、一体。夜遅くに呼び出して」


 暗い赤紫色のジャケットを羽織り、髪をきっちりと整髪料で固めた近藤が不機嫌そうに口を開く。石森(いしもり)市のような田舎ではあまり見かけない都会風のファッションだが、今はそれがひたすら胡散臭いものにしか見えなかった。

 岩渕さんがちょっと困ったようにシロさんを見つめると、シロさんは「すみません、私が無理を言って呼んでもらったんです」とにこやかに応じた。


「これでも仕事が忙しいんですがね」


 文句を並べる近藤を気にする風もなく、シロさんは「立ち話もなんですから」と言ってベンチに腰掛けた。俺もその隣に続く。

 岩渕さんが一つ離れたベンチに座るのを見て、近藤も渋々といった様子で同じベンチに腰を下ろした。

 ……営業を終えた銭湯の空気は、驚くほど静かだった。

 その静寂を破るように、シロさんがストレートに切り出した。


「近藤さん。最近の岩之湯のネットでの評判について、どう思っていますか?」


 岩渕さんが「えっ」と不審そうな顔をして二人を見比べる。一方の近藤は、深く眉間に皺を寄せたまま押し黙った。

 ……やっぱり、SNSであんなひどい状態になっているのを知っているんだな。

 冷静に考えれば、コンサルタント――プロが適切にアカウントを運用していれば、あんな炎上状態になるはずがない。風呂場へのスマホ持ち込みを無条件で許可するようなルール自体がおかしいし、炎上を岩渕さんに何の報告もせず放置しているなんて……よく考えれば、仕事ができていないことくらい高校生の俺にだって分かった。

 黙り続ける近藤に対し、シロさんは容赦なく言葉を重ねる。


「ひどい状態ですよね。……岩渕さん、『炎上』と言っても分かりにくいでしょうからはっきり言います」


 シロさんは岩渕さんへと視線を向けた。


「現在の岩之湯は評判がすこぶる悪いです。最悪と言ってもいい。今ここに来ている若い客のほとんどは、銭湯を楽しみに来ているのではありません。……ただの冷やかし、バカにするため、この場所を笑い物にするために集まっているんです」


 あまりにも遠慮のないシロさんの物言いに、傍らで聞いている俺もドキッと心臓が脈打った。

 当然、岩渕さんは大きな衝撃を受けた様子だった。


「いやいや、何言ってんだよ……。なぁ、近藤さん……?」


 信じられない。そう思ってることが顔に出ているような、問いかけだった。

 しかし、隣の近藤がなおも黙秘を貫くのを見て、岩渕さんは戸惑っている。何かがおかしいと察し始めたようだった。

 シロさんは近藤をじっと見つめ続ける。カチ、カチと壁掛け時計の秒針だけが虚しく響いた。

 少しの沈黙ののち、近藤は眉間の皺をさらに深くしながら口を開いた。


「……そういうこともありますよ。今の世の中、SNSで目立とうとすれば炎上なんて当たり前、つきものですから。それはうちのやり方が悪いのではなく、客のマナーが悪いだけです」


 近藤はそうはっきりと言い切った。その態度に動揺の様子は一切ない。

 自信満々に言い返した近藤の姿を見て、岩渕さんがほんの少しだけホッとしたように肩の力を抜く。

 俺はその光景を見て、なんだか無性に悲しくなった。


「当たり前、とはずいぶんな物言いですね。……そもそも、必要なものやスマホの持ち込みを全面許可するというルールはどなたの発案ですか?」


 シロさんの問いに、岩渕さんは黙っている近藤をちらりと盗み見て、「近藤さんが……」と小さな声で答えた。


「今の世の中、と仰るなら、スマホを無防備に風呂場へ持ち込ませて何もトラブルが起きないはずがない。それこそSNSを多少なりともかじっている人間なら、容易に想像がつくことだ。撮影の時間制限や人数制限を設けるなど、せめてもっと厳格なルールが必要だったんじゃないですか? スマホだけじゃない。他の私物の持ち込みもそうだ。すべてを客個人の判断に委ねるには、あまりにもリスクが高すぎる」


 それまでの飄々とした態度から一転し、シロさんの口調がだんだんと毅然としたものへ変わっていく。

 近藤はシロさんを睨みつけるように目つきを鋭くしたが、シロさんは構わず続ける。


「百歩譲って炎上しているならしているで、それを岩之湯の責任者である岩渕さんへ報告する義務が、あなたにはあるでしょう。その場しのぎで短期間だけ荒稼ぎして逃げるのが目的なら、これ以上何も言いませんがね。長い目で見て商売繁盛を目指すのであれば、これほどひどい悪評を放置しておく理由がどこにもない気がしますが」


 そう言うと、シロさんはちょっとだけ口角を上げる。


「……それとも、私が知らないだけで、ここから一気に巻き返す素晴らしい方法でもあるのですか?」


 ないだろうが、とでも言うような、少しだけバカにした思惑が透けて見える。

 そんなシロさんの態度に、近藤が口調を荒らげた。


「あんたにそんなことを言われる筋合いはない! 素人のくせに、失礼極まりない……!」

「では教えてください。ここまで地に落ちた店の評判を、一体どうするつもりですか?」

「っ……!」


 近藤は一瞬言葉に詰まり、すぐに「……フン、そんなこと、あんたに言う必要はない!」と怒鳴り散らした。

 静かな待合室に怒鳴り声が響き渡る。

 岩渕さんは、二人の激しいやり取りに「えっ…」と小さく困惑の声を漏らしながら、ただ聞いていることしかできない。完全に状況が飲み込めず、おろおろと額に汗をかいている様子だった。

 シロさんはわざとらしく深いため息をつくと、「そうですか。まぁいいでしょう」と冷ややかに言った。その挑発的な態度に、近藤はさらに苛立ちを募らせ、貧乏ゆすりのように片足を小刻みに動かし始める。


「では近藤さん、これについて何かご存じないですか?」


 シロさんがそう言って、俺に視線を向けた。

 合図を受けた俺は、あらかじめ持ってきていた自分のバッグの中から、透明なチャック付きビニール袋を取り出した。袋の口を指でつまみ、岩渕さんと近藤の前にすっと差し出す。岩渕さんが不思議そうな顔をして、見ようと目を細める。近藤は袋の中の黒い塊を見た瞬間、一瞬だけハッとしたように目を見開いた気がした。

 だがすぐに、「……知るわけないだろう」と吐き捨てるように言った。


「これは昨日、こちらの女湯で見つけました」


 シロさんはそう言うと、「すぐに報告せず、黙って持ち帰ってしまいすみません」と岩渕さんに向かって小さく頭を下げた。

 困惑しきった岩渕さんは、「い、いやぁ……。つうか、それは、一体何なんだ?」と声を震わせる。

 その疑問を遮るように、近藤が勢いよく立ち上がり、シロさんを厳しく指さした。


「おい! 勝手に店の物を持ち帰るなんて、あんたのほうがずいぶんな対応じゃないか! 霊感商法だか何だか知らないが、普通そんな不審なもの、勝手に持って帰るか? あんたが自分で仕掛けたんじゃないのか!」


 近藤はここぞとばかりに、饒舌にシロさんを責め立てようとまくしたてる。


「盗撮のカメラなんて、まともな人間なら見つけた時点で持って帰らない! すぐに警察を呼ぶだろ、普通はな!」


 まくしたてる近藤の言葉の終わりに被せるように、岩渕さんがガタッと身を乗り出した。


「と、盗撮……!?」


 岩渕さんが大きく目を見開く。

 シロさんは落ち着き払った声で言った。


「ええ、この小さい部品は、実は盗撮用の隠しカメラなんです。盗撮というか、普通は防犯に使われる小型のものですがね。……もっとも、近藤さんは最初からこれが何なのかよくご存じだったようですが」


 岩渕さんは少し距離があった上に相手が小さな部品だったためか、よく見えていなかったのだろう。高齢だから、視力もよくないのかもしれない。

 近藤はぐっと言葉を詰まらせ、いつの間にかその額やこめかみには玉のような汗が浮かんでいた。


「そ、そんな小さいカメラ、ここで見つけたって言われたら誰だって盗撮用だと思うだろ! ここは銭湯なんだから、当たり前だ……!」


 必死になって言い訳を重ねている。

 だが、声の勢いはそのままに、けれど焦りからか早口で、しゃべるたび唾が飛んでいた。


「そうですか? (ゆい)――彼は間近で見せても『何ですか、これ?』と首を傾げていましたがねぇ」


 俺を片手で示して、シロさんはわざとらしくすっとぼけたような言い方をする。


「さっきから何なんだ、まさか俺が犯人だとでも言いたいのか!?」

「いえいえ、そんなことは一言も言っていませんが……」

「証拠もないのに、名誉毀損だぞ!?」

「ええ、その通り。証拠もないのに、犯人を名指しするような真似はしませんよ」

「……っ、話を逸らすな! ……大体、女湯にそんなものがあったら、普通は盗撮用だとピンとくるだろ!」


 必死さのあまり口を滑らせた近藤に、シロさんは口角をわずかに上げた。


「――近藤さん。俺は一言も、これが『女湯にあった』なんて言っていませんよ」

「っ!」


 近藤の顔から、完全に血の気が引いた。


「そ、それは……そう思っただけだ! 勘違いだ!」


 なおも苦しい言い訳を怒鳴り散らす近藤。そのみっともない姿を見て、俺はやっぱりこいつが犯人なんだと確信を得ていた。シロさんと梨奈(りな)さんが正しかった——その事実に思わず息を飲む。

 けれど同時に、呆然と立ち尽くしている岩渕さんが視界に入る。


「……まぁ、あなたが仕掛けたという決定的な証拠はここにはありません。ここには防犯カメラもないし、指紋もきっと残っていないのでしょう。あなたがやったと今すぐ証明することはできない。もちろん、警察にこのカメラを届けて、購入ルートや接続履歴を徹底的に調べてもらうことはできますが……」


 シロさんは一度言葉を切り、岩渕さんへ向き直った。


「しかし、そうなれば当然時間はかかります。その上、盗撮カメラが仕掛けられていたなんて事実が世間に知れ渡れば、営業を続けることは極めて難しくなるでしょう。ただでさえ現在ネット上で地に落ちている評判が、そこから回復できるかどうか……」


 岩渕さんは絶望のあまり金魚のように口をパクパクと動かすだけで、言葉にならない様子だった。

 シロさんは諭すような穏やかな声で続ける。


「本来なら警察へ届けるべき案件です。……ただ、先ほども言った通り、それによって岩之湯そのものが立ち直れなくなる可能性もある。だからこそ警察に届けるかどうかを判断するのは、店主であるあなたです」


 シロさんは岩渕さんを見つめ、岩渕さんもまたぼんやりとシロさんの目を見ていた。


「幸い、このカメラは正常に電波が届く環境になく、角度もズレていたため、実際に盗撮が行われた可能性はゼロと言っていい。……もし、この銭湯をこれからも守り、続けていきたいと願うのであれば、今回は警察沙汰にせず、内々に処理することも視野に入れていいのかもしれません」


 そして、シロさんは再び射抜くような厳しい視線を近藤へと向けた。


「ただし、あなたのことはそうはいかない。コンサルタントとして、これ以上この銭湯に関わらせ続けることは到底おすすめできませんね」

「っ……!」

「例えば現在管理させているSNSの運用アカウントのパスワードや関連情報は、今すぐすべて岩渕さんへ引き渡す。そして、今後二度とこの店に近づかず、大人しく手を引く。……その代わり、このカメラの件に関しては警察には報告しない、とかね」


 シロさんの提案は、岩渕さんと近藤の両方へ問いかけているようだった。

 壁掛け時計の秒針の音に、近藤の荒い鼻息だけ混ざる。

 岩渕さんは判断に迷っている……というよりは、いまだ状況をすべて飲み込めていないようだった。

 口を開いたのは近藤だった。


「……フン、こんな時代遅れの潰れかけの銭湯、こっちから降りてやるよ!」


 顔を真っ赤にしてフンと鼻を鳴らすと、負け惜しみのような捨て台詞を吐いた。


 シロさんに促され、近藤はスマホにログインIDやパスワードといったSNSのアカウント情報を表示し、それをシロさんがスマホのカメラで記録した。近藤は歯を食いしばりながら、自身のスマホから岩之湯に関する情報を削除させられ、すべて終わると逃げるようにして待合室を飛び出していった。

 その乱暴な足音が遠ざかり、聞こえなくなる。

 緊張の糸が切れたように、岩渕さんがその場にガタガタと崩れ落ちた。


「岩渕さん! 大丈夫ですか!?」


 俺は慌てて床にへたり込んだ岩渕さんの元へ駆け寄る。

 その様子を冷静に見つめていたシロさんが、静かに口を開いた。


「岩渕さん。あの男を盲信し、言われるがままだったあなたにも、全く責任がないとは言えません。……今までも、あなたに苦言を呈してくれた人はいたんじゃないですか?」


 ハッとしたように、岩渕さんが呆然としながらも顔を上げた。


「! ……ああ。だけど、てっきり、うちが急に儲かり始めたのが面白くねぇから言ってるんだと思って……」


 岩渕さんは力なく項垂れた。

 俺は胸の奥がキュッと痛むのを感じた。……誰も何も言わなかったわけじゃ、なかったんだ……。きっと近所の人や常連さんたちが、この店を心配して声をかけてくれていたのだ。それを、耳を貸さずに跳ね除けてしまっていた。


「自分がよく知らない分野のことなら特に、専門家を名乗る人間の助言を信じてしまう気持ちも分かります。ですが、ここは他の誰でもない、あなたの銭湯です」


 シロさんの言葉は厳しいけれど、どこか優しい重みがあった。

 岩渕さんはシワだらけの顔を歪め、泣きそうになりながら「ああ……」とか「うん……」と、消え入りそうな声を漏らしている。

 少しずつ現実の状況を飲み込めてきたのだろう。


「……本当に、そんなに、うちの評判は悪いのか?」


 俺を見上げる岩渕さんの顔は、無理に作ったような、歪んだ泣き笑いの表情に見えた。


「ええ、最悪です」


 何というか困っていた俺ではなく、シロさんが即答する。その容赦のない言葉に、俺はぎょっとして息を呑んだ。


「シ、シロさん、それは本当だとしても、ちょっと言い過ぎっていうか……!」


 慌ててフォローしようとする俺を、シロさんは片手をすっと上げて制した。


「言った通り、ネット上ではルールのない無法地帯のような扱いをされています。若者の悪ふざけは時に残酷ですし、それを画面越しに見ている世間の目もまた厳しく、冷たい」


 現実を突きつけられ、岩渕さんはただただ震えていた。

 シロさんはしゃがみ込み、岩渕さんの目線に合わせて、優しく微笑みかけた。


「――だから、これからどうしていくか、俺たちと一緒に考えませんか?」


 岩渕さんが、瞳を大きく見開く。


「うちにはSNS特化コンサルタントはいませんが、調べ物をすることに関しては優秀な調査員がいます。壊れてしまった信用をすぐに取り戻すことは正直難しいでしょう。ですが、ここから一歩ずつ信用を回復していく方法や、もっと地域の人々に根付いたサービスなど、試行錯誤していくことはいくらでもできますよ」


 俺に言われているわけではないのに……シロさんの言葉には、絶対に揺るがない信頼が込められているように感じた。


「ぜひ、改めて俺たちに依頼してください」


 岩渕さんの肩にそっと手を置く。


「うちは『なんでも相談所』ですから。文字通り、何でもするんですよ」


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