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5-8. 垢を舐める

 

 垢嘗(あかな)めは、文字通り『垢を舐める』妖怪。

 けれど昨夜、あの場所で必死にしがみついていたのは床の汚れなどではなかった。


「垢嘗めって……垢以外のものも舐めるんですか?」


 思わず尋ねると、シロさんは「いや、基本的には舐めないはずだ」と静かに首を振った。


「垢嘗めはただひたすら垢を舐めるだけの存在だ。汚れた場所を好んで、そこにひっそりと存在している。……綺麗に整備されすぎた今の世の中じゃ、もうなかなかお目にかかれない絶滅危惧種かもしれないな」

「はぁ……?」


 絶滅危惧種、という単語に戸惑う俺を置いて、シロさんは続ける。


「俺も詳しいと言えるほど何度も遭遇したことはないが……こちらが近づこうとすると、驚いてすぐに逃げ出してしまう。人間を攻撃してくるようなことはまずない。非常に臆病で、あまり頭も良くないんだよ」


 シロさんの言おうとしている意図はまだ完全には掴めなかったが、とにかくあの妖怪にこちらを脅かすような悪意や攻撃性はないということだけは分かった。見た目の不潔さに目をつぶれば、人間に害を及ぼすような怪異ではなさそうだ。

 ……けれど、だとしたら一体なぜ。


「じゃあ何であんなことを……?」

「これは、俺の憶測の域を出ないが」


 シロさんは一度言葉を区切ると、俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「――あいつは、酷く具合が悪いんだろうな」

「具合が悪い……」


 思わず、シロさんの言葉をそのまま反芻する。


「菖蒲は厄を払うものだ。本来なら、あのような妖怪にとっての厄除けは本能的に忌避すべき対象のはず。だが、あの垢嘗めにとっては……それが薬に見えたんじゃないか」


 シロさんは手元で弄んでいたコーヒーカップをトレイに置いた。


「自分に害を及ぼしてくるものというよりは、己の『具合の悪い部分』を落としてくれるものとして映ったのかもしれないな。普段なら絶対に避けるべきものだが……原因不明の病に苦しんでいる今は、その痛みをきれいにしてくれるものに思えたのかもしれない。あるいは、実際問題として、それ以外に頼れるものを身近に見つけられなかっただけかもしれない。あくまで推測だが。……しかし『良薬は口に苦し』とはよく言ったものだが、必死に舐め回して、その結果吐き散らしているんじゃあまり意味がない気もするがな」

「病気を……治したかった、ってことですか」


 シロさんの説明を聞いて、俺の胸の奥に、なんとなく言葉にできない感情が湧き上がってきた。

 でも、そうなのかもしれない、と納得する。妖怪に病院なんてあるはずがないし、体調を崩したなら自分でなんとかするしかないのだ。そうして必死に生き残るために見つけた方法が、たまたま、すぐ近くの湯船に浮かんでいた菖蒲の葉だったのだろう。


「でも、具合が悪いって……そもそも、妖怪って病気になるんですか?」


 純粋な疑問だった。

 俺の問いに、シロさんは背もたれにゆっくりと体を預ける。


「それは妖怪の性質にもよるだろうな。人間の定義する『病気』に当てはまるような異常な状態、というだけであって、何も人間のように風邪のウイルスにやられている、というわけでもないだろうし」


 シロさんは天井のライトのほうへ視線を向け、ぽつりと呟いた。


「……もう、今の世の中は、垢嘗めにとって生きやすい環境ではないんだろうなぁ」


 その声はしみじみと時代の移り変わりを感じ入っているようでもあり、居場所を失っていく垢嘗めを憐れんでいるようでもあり……あるいは、ただ淡々と事実を述べているだけのようにも聞こえた。


「あの垢嘗めが、いつから岩之湯(いわのゆ)にいたのかは分からない」


 シロさんは淡々と言葉を紡ぐ。


「昔からあの場所でひっそりと存在していたのか、それとも最近どこかから流れてきたのか……。俺は前者だとは思うが、確証はない。さて、(ゆい)。どうする?」

「……どうするって……」


 俺は深く考え込んだ。

 居場所を失い、原因不明の病気を自分で治そうと、必死に菖蒲の葉にしがみついていた垢嘗め。そう考えると、なんだかちょっとだけ可哀想に思えてきてしまう。

 岩渕(いわぶち)さんの「夜中に気味の悪い音がする」という依頼を最優先に考えるなら、追い出して消えてもらうのが正解なんだろう。

 けれど、もし追い出してしまったら、あの垢嘗めは一体どこへ行き、どうなってしまうのだろうか。

 いや、俺が気にかけるようなことじゃないとは分かっている。分かっているけれど、あの姿を思い出すと、どうしても後味が悪いような気がしてならなかった。

 それに、あの銭湯が抱えている問題は、垢嘗めがいることよりも、SNSの炎上の方をどうにかしたほうがいいじゃないかという気もして……。

 昨夜の出来事を脳内でぐるぐると巻き戻しているうちに、俺はふと思い出したことがあった。


「シロさん、そういえば昨日の夜……女湯の脱衣所で何かしてましたよね?」


 シロさんは、壁際のロッカーの上に上がり、素早く何かをポケットに入れていた。

 結局あれが何だったのかを聞いていなかった。


「ああ、あれか。……梨奈(りな)


 シロさんが名前を呼ぶと、デスクにいた梨奈さんが「はい、これですね」と、透明なチャック付きのビニール袋とノートパソコンを抱えて、俺たちのテーブルへとやってきた。

 ビニール袋の中には黒くて小さな物が入っている。何かの部品のようにも見えた。


「見ていいぞ」


 シロさんに促され、俺は袋を手に取ってその黒い物を間近でよく見た。親指の第一関節ほどのサイズしかないそれは、小さなカメラのレンズのようなものだった。


「何ですか、これ……レンズみたいな」

「――盗撮用カメラ」


 梨奈さんの口から飛び出した物騒な単語に、俺は「えっ」と思わず息を呑んだ。

 梨奈さんは心底憤慨したように、両頬をぷくっと膨らませている。


「こんなものを女湯に仕掛けている人間がいるなんて、本当最低!」


 怒り心頭の梨奈さんをなだめるように、シロさんが肩をすくめた。


「まぁ、本来は防犯に使われるカメラだろうが……盗撮の役目を果たしていなかったのがせめてもの救いだな。カメラが傾いていて、脱衣所を撮影できる角度じゃなくなっていたんだ」


 これがあの時シロさんが見つけ、ポケットに入れた物だったのか。女湯の脱衣所の壁、アクリルプレートの裏にぽっかり空いていた小さな黒い穴……全然気づかなかった。


「よく気づきましたね……」

「一瞬、何かが反射したように見えたんだよ。ほら、小さく型番が記載されているだろ、このシルバーの文字」


 シロさんは俺の手からビニール袋を受け取ると、少し傾けてレンズの向きを下にしてみせた。


「壁の穴の中で、レンズがこうなっていた。仕掛けたあと動いてしまったのか、あるいは仕掛けたときに慌てていたのか……鍵が空いていて物音がしたことがあったと言っていたから、そのときかもな」


 そう言って、シロさんはテーブルの上にビニール袋を戻した。


「いいんですか、岩渕さんに言わなくて……」


 口にしてから、昨夜シロさんが岩渕さんに対してカメラの存在を隠すように合図していたことを思い出す。

 まさか、という思いがよぎり、俺はシロさんの顔を見た。

 シロさんは俺の言いたいことを瞬時に察して、「岩渕さんじゃないだろうな」と即座に否定した。

 シロさんが梨奈さんのほうへ視線を向けると、それを受けた梨奈さんがノートパソコンの画面をこちらに見せてくれる。


「調べたんだけど、このカメラ、Wi-Fiに繋いでデータを飛ばすタイプなんだよね。でも岩之湯にはネット環境がないし、何より岩渕さんにそんな知識があるとは思えない。だから、ほぼ確定であの人が設置したものじゃないと思うよ」


 梨奈さんの言葉に、俺は胸の内でホッと息をついた。


「ただあそこにネット環境はないけど、スマホのテザリングを使ったり、持ち歩き用のルーターがあれば接続自体は可能だからね。ある程度の知識がある人間なら撮影することはできたかも。本当に、レンズが脱衣所に向けられてなくて良かったよ!」


 力を込めて言う梨奈さん。『テザリング』という単語の正確な意味は俺にはよく分からなかったが、とにかく最悪の事態が未然に防げたのなら本当に良かったと思う。


「若い人間が多く出入りしているからな。行きすぎた悪ふざけ、一種の迷惑動画の類かとも思って梨奈に午前中調べてもらったが、ネット上にそれらしい投稿はなかった。可能性として消えたわけじゃないが……純粋な盗撮目的だろうな」


 純粋な盗撮って……意味は正しいんだろうけど、なんだかちぐはぐな日本語に聞こえた。


「じゃあ、犯人は特定できないんですね。……あっ、指紋はどうですか?」


 名案を思いついた気がして、俺はビニール袋の中のレンズを指さした。


「シロさんは触っちゃってますけど、それ以外の指紋が残っていれば……。前に、シロさん警察にツテがあるって言ってましたよね?」


 俺の頭に浮かんだのは、春休み中の、狐の妖怪に翻弄されたあの事件のときのことだ。

 しかし、シロさんは「ああ、あれは口から出まかせだ」とあっけらかんと言ってのけた。


「まぁ、はったりってやつだ。なかなか堂に入っていただろ?」


 悪びれもせずに笑うシロさんに、俺は言葉を失う。


「警察に顔見知りくらいはいるが……あのときは、まさか妖怪の生まれる紙箱なんですって持っていったところで、指紋を調べてくれるわけがないだろうしな」


 俺が唖然としていると、横から梨奈さんが「シロさんの言うこと、いちいち全部真に受けちゃダメだよ」と苦笑交じりに口を挟んだ。そして、「というか!」と声を少し張り上げる。


「盗撮カメラなんて見つけたら、触らずにすぐ警察を呼ぶのが正解だからね!」


 梨奈さんは俺の目をまっすぐ見て、暗に『真似しちゃダメだよ』とでも言うように諭してくる。


「この場合は建物の管理人でもある岩渕さんに報告して、一緒に警察へ届けるべきなの、本当はね。黙って勝手に持ち帰るなんて……最悪、証拠隠滅だと思われてもおかしくないんだから」


 俺が呆れた視線をシロさんに向けると、シロさんは「おいおい」と弁明するように顔の前でひらひらと手を振った。


「俺だってそれくらいは分かっているさ。ただな、今の岩之湯の現状で『女湯から盗撮カメラが見つかった』なんて事実が表に出たら、それこそ一発で廃業コース確定だろ」


 シロさんは真面目な顔になり、声を落とした。


「とりあえず岩渕さんが犯人じゃないこと――それと、カメラについてある程度調べてから報告しても遅くはないと思ったんだよ」

「なるほど……でも、犯人が分からないんじゃ、やっぱり警察に届けるしかないんじゃないですか?」


 また同じようにカメラを仕掛けられたりしたら大変だし、と俺は心配を口にする。


「そうだな。だがその前に、怪しい奴にちょっとかまをかけてみるくらいはするさ」

「怪しい奴?」


 梨奈さんがノートパソコンを器用に素早く操作し、再び画面をこちらに向けてくれた。


「? フリーコンサルタント……あ、これって」


 画面に映し出されていたのは、あの近藤(こんどう)という男の個人ホームページのようだった。

 そこには『日本国内の有名企業のマーケティング支援』『日本の伝統・文化を大事に、人々へ届けるご支援を提供中』といった、いかにも立派な文言が並んでいる。高校生の俺の目には、特に不審な点があるようには思えなかった。


「この男が怪しいんですか?」


 俺の問いに、梨奈さんは深く頷いて解説を始めた。


「例えばここ、いかにも色んな実績がありますって感じで書いてあるけど、内容がすごくふわっとしてるんだよね。具体的な支援実績や過去の実例が何一つ書かれていないの。本当に実力のあるコンサルタントだったら、もっと具体的に企業名やサービス名、せめて利益率が何パーセント上がったとか、そういう数字を書かないとおかしいの。……まあ、ある意味で正直というか、嘘は書いてないとも言えるけどね」


 そういうものなのか、と俺が感心していると、梨奈さんはさらに画面をスクロールさせる。


「『インフルエンサーPR』とか得意そうに書いてあったから、本人のSNSも見に行ってみたんだけど……。なんていうか、見せかけの贅沢っていうか、内容の薄っぺらい投稿しかないんだよね。マメに運用されているわけでもないし。だから、一応本当にコンサルタントなのかもしれないけど、『自称』と呼べる域を出ていないレベルの仕事しかしていない感じ」


 普段の優しい梨奈さんにしては、かなり辛辣で容赦のない物言いだった。


「……そんなところまで分かるんですね」

「少なくとも、岩之湯のSNS運用や盛り上げ方は全然適切じゃないよ。仕事ができないだけなのか、実績を増やすためだけに適当にやってるのか……もしくは、若い子を呼び込んで、盗撮するつもりだったのか」

「えっ、じゃあ、この人が……?」

「さすがに盗撮の件は俺の考えが飛躍しすぎかもしれないけどな。ただ岩渕さんにWi-Fiの導入を進めたりもしてるようだし、営業外の時間に訪れることができる人間でもある。……今日の夜、営業終了後あの男を呼んでもらうよう頼んである。そこで少し、話をしてみるつもりだ」


 シロさんはそう言うと、俺をまっすぐに見つめた。


「惟、君も一緒に来い。――垢嘗めをどうするか、その判断はこの話が終わった後でもいい」


 「はい」と返事をしたものの、俺の胸中は複雑だった。

 垢嘗めのこと、岩渕さんのこと、そして岩之湯のこと……『正しい正解』が見つからないことばかりだ。

 俺は小さく息を吐いた。


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