5-5. 垢を舐める
岩之湯を出た時点で、すっかり普段の夕食時間を過ぎていた。
俺とシロさんは近くにあった大通りの和食チェーン店に入った。店内は仕切りのあるテーブル席がいくつか並んでおり、八割ほどが埋まっている。ゴールデンウィークの真っ最中ということもあってか、客層は比較的若い年齢の、友人同士とおぼしきグループが目立っていた。
タッチパネルでの注文を済ませ、お茶を一口飲んでようやく一息つく。
湯上がりの心地よい体温が、店内の冷房で少しずつ落ち着いていくのを感じながら、俺は気になっていたことを口にした。
「今日、このあと……本当に妖怪いるんですかね」
「はは、どうだろうな。……それより、初銭湯はどうだった?」
シロさんは椅子の背にもたれ、楽しげに目を細める。
「えっ……どうって言われても」
不意の質問に戸惑い、俺は少し考え込んだ。
「家の風呂より広くて気持ちよかったです。あと、さっきのフルーツ牛乳もけっこうおいしかったです」
「じゃあ、また行きたいと思うか? できるなら毎日」
畳みかけるようなシロさんの問いに、俺は少し言い淀み、正直な気持ちを口にした。
「……正直に言うと、そんなには……」
我ながら無愛想な答えだと思い、慌てて言葉を付け加える。
「あ、いや、岩之湯が嫌だったとかそういうわけじゃなくて! ただ、俺自身が風呂にそこまでこだわりがないっていうか……。家でさっと入れればそれでいいかなって。俺は、家の風呂で充分です」
誰かに誘われたら断る理由はないけれど、自分から進んで行くことはないだろうな……。心の中でそう結論づける。
「だろうな」
シロさんは、さも当然だというように頷いた。
「昔と違って、今はどの家にも立派な風呂がある。ただ大きいだけのお湯に、他人の目を気にしながらわざわざ入りに来る必要性はない。もちろん銭湯の雰囲気――君がさっき言ったように、湯上がりにフルーツ牛乳を飲むのが好きだとか、銭湯そのものが好きで好んで通う人間がいないわけじゃないがな」
そこへ、店員の手によって料理が運ばれてきた。
俺の前にはボリュームのあるチキン南蛮定食、シロさんの前には香ばしく焼かれたサバの塩焼定食が置かれる。
さっきフルーツ牛乳を飲んだとはいえ、普段の夕食の時間をとうに過ぎている。思った以上にお腹が空いていたらしい。
「いただきます」と言いながら、チキン南蛮を口に運ぶ。じゅわっと広がる肉汁と甘酢、タルタルソースの組み合わせが驚くほど美味しかった。
シロさんもサバの身を箸でほぐしながら、話を続けた。
「君のような若い世代は特にそうだ。生まれたときから内風呂がある生活をしておきながら、昭和の香りが漂う大衆浴場に、自発的に好んで来る人間はほぼいないと言っていい。……じゃあ、なぜさっきの浴場は若者だらけだった?」
俺はもぐもぐと口を動かし、飲み込んでから答えた。
「……梨奈さんが言っていた通り、SNSで流行っているから、ですよね」
「ああ。九割がた、その影響だろうな」
シロさんの言葉に、俺は岩之湯の脱衣所や浴場に貼られていた、手書きの注意書きを思い出す。そこには『スマホの持ち込みOK』『シャンプーやリンス、必要な物は持ち込みOK』と書かれていた。実際に、浴場ではスマホを壁画に向けてはしゃぐ若者がいたし、脱衣所にはその残骸のようにゴミが放置されていた。
「流行っているなら……経営的にはいいことなんですよね?」
「そう思うか?」
シロさんから静かに問い返され、俺はチキン南蛮を口に運ぼうとした手を一瞬止めた。
銭湯は――というか、岩渕さんは忙しそうだった。商売なのだから、暇よりは忙しいに越したことはないはずだ。たくさんのお客さんが来てくれたほうが、お店としては繁盛していると言えるだろう。……けれど、頭ではそう分かっていても、胸の奥につかえるようなもやもやとした感覚が消えない。
ゴミで散らかった脱衣所。
風呂の気持ちよさを味わっているようには見えない、流行りのために写真を撮り合って騒ぐ客たち。
「良いこと」なのかと聞いたのは自分なのに、いざシロさんに聞き返されると、何と言っていいか言葉に詰まってしまう。
でも、儲かったほうが岩渕さんは嬉しいだろうし……。
迷いながら必死に言葉を探す俺を見て、シロさんは小さく息を吐いた。
「まぁ、岩渕さん本人がいいなら、それでいいんだろうとは思うがな……」
少しだけ含みを持たせた言い方をして、シロさんはそれ以上追及することなく、味噌汁を口に運んだ。
食事を終えたあと、俺とシロさんは他愛のない雑談をしながら時間を潰した。
時計の針が二十二時を回る少し前、俺とシロさんは再び『岩之湯』へと向かった。
営業終了の間際。
客はもう誰もいないだろう――そう思って待合室へ足を踏み入れると、そこには岩渕さんともう一人、見知らぬ男性の姿があった。
その男性は暗い赤紫色のジャケットにベージュのズボンという、かっちりした服装をしている。
二人は何やら熱心に話し込んでいたが、俺とシロさんが入ってきたことに気づくと、ピタリと会話を止めた。
「おお、お疲れさん」
岩渕さんが俺たちに気づいて、軽く手を上げる。そして、隣の男性を紹介してくれた。
「この人は、コンサルタントの近藤さんだ」
岩渕さんの口から出た『コンサルタント』という単語は、なんだか言い慣れていないせいか、どこかひらがなのように頼りなく聞こえた。
高校生の俺には、コンサルタントが具体的に何をする職業なのか、いまいちピンとこない。
近藤と呼ばれた男性は、シロさんと俺の姿を上から下までじろじろと不躾に眺めると、鼻で笑うように口元を歪めた。
「ああ。例の、霊感商法の……?」
その小馬鹿にしたような言い方に、俺の胸の奥でムッとした感情が湧き上がる。しかし、シロさんは顔色一つ変えず、大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべて受け流した。
「はは、まぁ、傍から見ればそう見えますよね。……コンサルタント、ということは、今の岩之湯のネットでの人気もあなたが仕掛けたのですか?」
近藤が答えるより早く、岩渕さんが嬉しそうに声を弾ませた。
「そうなんだよ! 近藤さんのアイデアのおかげで、若い人がたくさん来てくれるようになったんだ」
近藤という男性は手元の高級そうな腕時計をちらりと見ると、「そろそろ時間ですので」と事務的に告げた。岩渕さんは「ああ、そうだね」と彼を見送るために立ち上がる。
ついでに入り口の暖簾を下ろしたり、外の片付けもしてくるというので、俺とシロさんは先に誰もいなくなった脱衣所と浴場を見させてもらうことにした。
「俺も終わったらすぐ戻るからよ」
「分かりました。俺たちも一通り見たら手伝います」
シロさんに促されるまま、俺たちは男湯の脱衣所へと足を踏み入れた。
営業後の静まり返った空間は、蛍光灯の明るさは変わらないのになんだかヒヤッとする。奥に見える風呂場に続く曇りガラスの戸へ目を向けたときに、ふと、わずかな苦い匂いが鼻をかすめた。
――岩渕さんが見せてくれた、あの菖蒲の腐ったような匂いだ。
曇りガラスの向こうは、少しだけ薄暗く見えた。
シロさんが足音を殺すようにそっと歩き出し、俺もそれに続いた。極力足音を立てないように、風呂場へ向かう。
グチャ……グチャ……。
微かに音が聞こえる。
シロさんが無言で俺に背を屈めるように手で合図してくるから、俺はシロさんが手をかけたガラス戸の反対側へしゃがみ込む。
シロさんがそっと音を立てないようにガラス戸を滑らせ、二十センチ程度の隙間を作る。
……チャ……グチャ……。
シロさんとともに覗き込むと、岩渕さんの言っていた音が反響していた。
手前の鏡と蛇口のある洗い場の奥――ちょっとだけ顔を上げて見ると、湿り気を帯びた暗がりに、それはいた。
痩せこけた子供のような体躯に、下半身には黒ずんだ――元は赤かったのだろうか、錆びているような色の布のようなものを巻いている。
ぐりぐりっとした目玉のある顔も、全身の皮膚も病的なまでにどす黒い。
やたら細い指先で掴んでいるのは菖蒲の葉――おそらく今日菖蒲湯に浮いていた葉だ。それを異常に長い舌で、必死に舐めている。
匂いが濃くなって、思わずえずきそうになり、急いで両手で鼻と口を塞ぐ。
『おえぇっ……! ……ゴホッ、ゴホッ!』
――一瞬、自分が吐いたのかと錯覚してしまった。
人間のように苦しげに身悶えしたそれが、咳き込みながら口からドロドロの塊を吐き出している。
消化しきれなかった菖蒲の葉だろうか、ヘドロのようなゲロが、びちゃりと風呂場の床を汚している。
見たくないのに、目が逸らせない。
「本当にいた」と頭の冷静な部分で考えていると、一緒に覗き込んでいたシロさんが小声で呟いた。
「……あれは『垢嘗め』だ」
呆れたような、けれど少しだけ憐れむような声だった。




