5-4. 垢を舐める
下駄箱の数から考えて――大体八十人程度入れる想定だったとしたら、少し狭い気がする。
待合室を見渡して、そう思った。けれど寛ぐ目的ではなく、風呂に入るためだけに来て、帰っていくなら問題ないのか。
室内にいるのは、俺とシロさん、岩渕さんと番台に座る女性を除くと六人だった。あと二十人程度は客がいるはずだから、脱衣所や風呂にいるんだろう。
だから室内はゆとりがあるはずなのに、あまりそう感じないのは置いてある物や色のせいだろうか。古さは感じるのに、寂しさはなかった。
――若い人が多い。
シロさんが番台に料金を支払っている間に、人々をそっと眺める。彼らはベンチに座ってスマホをいじりながら笑い合ったり、瓶牛乳や扇風機の写真を撮っているようだった。
番台横の『男』と書かれた暖簾をくぐった先にある脱衣所は、待合室と同じくらいの広さだった。
壁際と中央にロッカーが並んでいる。ロッカーの鍵穴に刺さった鍵には、キーバンドがついている。待合室にあったのと同じ青い羽の扇風機も置いてあって、首を振るたびにビニールテープがぴらぴらと揺れている。
ベンチが一台あったが、誰も座っていなかった。風呂上がりらしく着替えようとしている人が二人、扇風機のそばでスマホをいじっている人が一人。全員比較的年齢は若い、二十代から三十代くらいか。
据え付けられた洗面台があり、奥の正面には、風呂場に続く曇りガラスの戸があった。
ロッカーの中を開けると、プラスチックのかごが入っているだけだった。
「ロッカー、小さいですね。ハンガーもないし」
服を脱ぎながらシロさんに言ってみたが、「そうか? こんなもんだろう」とあっさり返された。
ロッカーは二段なのに、胸くらいの位置までしか高さがない。忘れ物なのか、ロッカーの天板には色々な物が置きっぱなしになっていたりもする。でもロッカーの背が低いから、部屋の中央に置いてあっても室内の見通しは悪くない。
壁には待合室同様にポスターが貼ってある。色褪せたビールのポスターがあるけど、ビールはここでは売ってないはず。手書きの紙も画びょうやガムテープで貼ってある。他にも、白いアクリルプレートに赤文字の『お願い』と書いてあって、タオルをゆぶねで使わないでください等の注意書きもあった。
風呂場は、概ね思い描いた銭湯の想像通りだった。
湯気でぼんやりする視界の中、すでにいる客の声や水音が響いている。
手前と壁際には鏡と蛇口のある洗い場があり、正面には風呂と大きな壁画。くすんだ薄橙色のタイルに描かれた富士山はよく映えているけど、ここに来るまでと同様で湯気の中で目を凝らすと、ところどころ剥げていたりする。
「こういうのって、どこで売ってるんでしょうね」
「なんだその感想は……」
ふと思ったことを言っただけなのに、シロさんから呆れた視線を向けられた。
店の看板やロッカーみたいにどこかで度々見かけるものと違って、本当に限られた用途でしか使われてないけど、ちゃんとした物じゃないといけないもの。やっぱり専用の店や職人がいるのかな。そういう感想だったんだけど。
備え付けの石鹸と黄色いおけで体を洗ってから、湯舟につかる。
ちょっと熱いくらいの湯の温度に、思わず「ふぅ」と息が漏れる。
気持ちがいい。
と思ったのも束の間、すでに風呂場にいた五、六人の若者たちが騒ぎながらスマホを壁画に向けるから、なんとなく視界から少しそれるように体をずらした。
梨奈さんが教えてくれた、岩之湯の現状――それは『SNSでバズっている』ということだった。
スマホを持っていない俺はSNS上の実際の光景は見たことがないが、ニュースやテレビで言っているからイメージで理解している。
岩之湯はレトロな映えスポットとして、今年の二月頃から流行っているのだそうだ。
梨奈さんはなんとなく知っていたそうだけど、来たことはない。だから、最初岩渕さんが来たときはまだピンときていなかったそうだが、帰ったあと調べてくれて判明した。
男女の湯しかない平屋の銭湯は、今ではあまりお目にかかれない。物珍しさもあるし、なにより『スマホの持ち込みOK』『シャンプーやリンス、必要な物は持ち込みOK』など、若者向けの取り組みが受けているらしい。SNSには岩之湯のアカウントもあって、銭湯内や若者が訪れている様子を見ることができる。
――だから、散らかっている。
脱衣所と、この風呂場には、待合室にはなかったジュースの空き缶や持ち込んだシャンプーの小さな容器が転がっている。
さっき会った岩渕さんが汗をかいていたのは、もしかして待合室を常に片付けているからなのかと思った。
「今の最高!」
「俺にも見して!」
「もう風呂入ろうぜ、寒くなってきた」
騒いでいたグループが、俺とシロさんの入っている湯舟の横の風呂に入る。「いえーい!」と大きい声を出しながら、バシャンと勢いよく飛び込むように入っていった。
「なぁ水ちょっと熱くね?」
「温泉ってこんなもんじゃね」
「つうかこの葉っぱ何? ネギ?」
「ネギじゃねーだろ……なんかこの葉っぱ臭くね」
声が大きいから、彼らの会話はよく聞こえた。
ちなみに、銭湯は水道水を沸かした公衆浴場だから温泉ではない。正直、俺も温泉と銭湯の違いは知らなかったけど、来る前にシロさんが教えてくれた。
それからこの葉っぱは、ネギではなく菖蒲の葉だ。このすっとする匂いが、俺はけっこう好きだった。
風呂に入る前に一瞬、岩渕さんが相談所で見せてくれたヘドロを思い出したけど、湯舟に浮かぶ葉はきれいだ。
騒いでいた彼らは葉を手に取ってああでもないこうでもないと言い合っていたけれど、投げ捨てるように湯舟に戻す。そして富士山の絵を背に自分たちを入れて撮影を始めた。
「めっちゃ昭和じゃね?」
「バズりそー」
「ていうか、こんなとこよく営業できてんな」
「な。撮影自由とかマジでヤバすぎんだろ」
「ちょ、下を映すなって!」
ゲラゲラと笑いながら、彼らは何度かの撮影を終えるとたいして浸かることもなく出ていった。
気づくと男湯にいるのは俺とシロさんだけだった。シロさんは彼らの後ろ姿が消えると、ふっと笑った。
「彼らも、温泉と銭湯の違いは知らないようだな」
「……考えたこともなかったんで」
「だろうな。生活の中に無いと、考える機会もない。ここは相談所からも比較的近いが、俺も今回の相談がなかったらまた訪れようとは思わなかった」
銭湯があることもすっかり忘れていた。そう言いながら、シロさんは自分のそばに浮いていた菖蒲の葉を手に取る。
シロさんを横目に、改めて風呂場内を見渡したが特に嫌な感じはない。
風呂の端っこのほう、タイルにこびりついた黒さが見受けられたり、壁のタイルがはがれていたり、床のタイルにひびが入っている。そういう経年劣化はあるけど、この場所自体に嫌な予感や不快な感覚はなかった。
「菖蒲の湯は効き目抜群だ。……ま、人間には効かないけどな」
シロさんはそう言って、持っていた菖蒲の葉をゆっくり湯舟に戻した。
しばらく二人だけだったが、充分体が温まった頃に他にも客が入ってきたため、俺とシロさんは風呂場をあとにした。
火照った肌に脱衣所のぬるい空気が触れた。扇風機と除湿器が回っているとはいえ、室内がキンキンに冷えているとはいいがたい。
脱衣所無いを見渡すと、壁際に据え付けられた洗面台にドライヤーが三つだけ並んでいる。どれも型が古く、どこか頼りないプラスチックの質感をしていた。
ふと足元に目を落とすと、さっきの若者たちが置いていったのだろうか、スナック菓子の空き袋が落ちているのが目に入る。
――マナーが良いとは、お世辞にも言えなかった。
俺とシロさんはさっと髪を乾かし、衣服を整えてから待合室へと戻った。
湯上がりの喉の渇きを覚えていると、シロさんが手際よく小銭を取り出し、冷蔵ショーケースから紙キャップのついた瓶のフルーツ牛乳を二つ買った。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
受け取った瓶は、手のひらにひんやりと心地よい冷たさを伝えてくる。
俺は瓶に入ったフルーツ牛乳を飲むのはこれが初めてだった。ガラス越しに見える、独特な淡い黄色の液体がなんだか不思議に思える。
フルーツの牛乳って、どうやって作っているんだろう……。そんな素朴な疑問を抱きつつ、見よう見まねで親指でキャップを押し込んで、一口含んでみる。口いっぱいに、人工的で、けれどどこか優しい甘さが広がった。
俺がベンチに腰掛けてフルーツ牛乳を味わっている間、シロさんは番台に歩み寄り、そこに座る老齢の女性と話を始めていた。手持ち無沙汰な俺の耳に、二人の静かな会話が流れてくる。
「最近は若いお客さんが多いと聞いていましたが、今日もそのようですね」
シロさんが気さくな口調で話を振ると、番台の女性は目元を緩めて頷いた。
「ええ、おかげさまで賑わってますよ」
「常連さんは、今日は来ていないんですか? 俺は十年以上前に何回かこちらに来ていたことがあるんですが、その頃はもっと、地元の方々で賑わっていた気がするのですが」
シロさんの言葉に女性はふっと視線を落とし、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「最近はめっきり……。若い人たちの勢いに、ちょっと押されちゃっているのかなぁ」
若い人で賑わっているのに、女性の声はどこか嬉しそうには聞こえなかった。
女性の視線の先には、待合室を忙しなく動き回る岩渕さんの姿があった。岩渕さんは額に汗を光らせながら、牛乳瓶の回収箱の横にある、プラスチック製のゴミ箱から溢れそうな袋をまとめようとしている。
その様子を眺めていると、岩渕さんの胸ポケットから電子音が小さく響いた。二つ折りの携帯電話を取り出した岩渕さんは、画面を見て慌てて耳に当てる。
誰かと話をしながら、岩渕さんはそのまま待合室の奥へと出ていってしまった。
その背中を見送っていたシロさんは、番台の女性に向き直って笑みを浮かべた。
「では、俺たちはまた営業が終わる頃に伺います。岩渕さんにもそう伝えておいていただけますか?」
「ええ、分かりました。お気をつけてね」
すっかり女性と打ち解けた様子のシロさんは、俺に目配せをして歩き出す。
俺とシロさんは『岩之湯』の紺色の暖簾をくぐり、一旦その場をあとにした。




