5-3. 垢を舐める
シロさんは、今日さっそく岩渕さんの家――銭湯『岩之湯』へ行くと約束を取り付けた。
岩渕さんはシロさんの提案に対し狐につままれたような顔をしたが、支払いについての話が終わると、上機嫌で頷いて「せっかくなら湯に浸かっていってくれ」と言ってくれた。市内なら調査費は基本無料、相談料の支払いは解決できたらで良い、と言われたことで安心したのかもしれない。
岩渕さんは来た時とは反対に、明るい面持ちで帰っていった。
岩渕さんをドアまで見送った梨奈さんが、振り返って口を開く。シロさんへ向けて、眉尻をちょっとだけ下げた。
「また、あんな勝手なこと言って……」
「オーナーには俺から話すよ」
主語はないが、二人は支払いについて言っているんだろう。
本来なら状況に応じた調査費は発生するし、万が一怪我をした場合の治療費等支払いが生じることもあるから、いつも相談者には丁寧に説明している。……シロさん以外は。
シロさんだけは自分の采配で勝手に話をつけてしまうことがあって、梨奈さんが時々苦言を呈している。
たぶんシロさんは話を聞いた時点で、なんとなく大体の見当がついているんだと思う。調査に時間はかからないだろう、怪我はしないだろう、とか。俺としては今回は危険がなさそうだなーとか知れるから、ああやって言ってくれたほうがいいけど、梨奈さんが言うには『人伝に聞いて来た人が自分もその料金でやってもらえると思うから良くない』らしい。俺には経営のことは分からないけど、とりあえずシロさんの自分勝手な振る舞いで梨奈さんが困っていることは分かる。……梨奈さんは、ほとんど諦めているようだけど。
シロさんはそんな彼女に「まぁ心配するな」と声をかけると、俺に向き直った。
「さて、どう思う?」
「……妖怪、ですかね」
言ってみたものの、自信はない。
菖蒲に付着していたべちゃべちゃとしたものは、汚いと思ったのはもちろんだけど、少し嫌な感じがした。でもシロさんのように割り箸を介して触ったりはしていないし、少し離れたところから見ていただけだ。
こちらに危害を加えてきそうな、危険を感じる気配がくっついているとか、悪意のある残り香のようなものは感じなかった。だからあれはただのヘドロや汚れで、妖怪や怪異的なものではない、と言われたら納得してしまうくらいの、頼りない感覚だ。
「俺もそう思うよ」
室内に漂い残る臭さを払拭するため、梨奈さんが消臭スプレーを撒き始めたのを横目に、シロさんは俺に同意した。
思わず目を丸くした俺を見て、シロさんはちょっと笑った。
「具体的に何か、というところまではまだ確証はないが……まぁ、まず行ってみよう」
『岩之湯』は、相談所から車で十五分程度の位置にあり、営業時間は十六時から二十二時まで。そのため、相談所を十八時くらいに閉めてから向かうことになった。
着替えを準備するため、シロさんに送ってもらい家に帰ると、母は出かけていて留守だった。
居間にいた祖母に夜はシロさんと銭湯に行くから帰りが遅くなることを告げると、意外そうに瞳を瞬かせた。
「銭湯? 珍しいねぇ。何ていうんだっけ、あの……大きいところ?」
祖母が言っているのは、おそらく市内にあるスーパー銭湯のことだ。「ううん、岩之湯ってとこ」と答えると、腑に落ちたように大きく頷いた。
「あー、積吉町にあるとこだね!……あそこ、まだやっているんだねぇ」
しみじみと頷いた祖母は、「あそこは私が子供の頃もやっていたよ」と感慨深げに呟いた。
「行ったことあるの?」
「何回かね……あんまり、覚えていないけど」
覚えていないという割に、祖母は遠くを見つめて穏やかに微笑んでいた。
準備をして玄関を出るとき、背中に「気を付けてね」という祖母の声がかかる。振り向かずに「うん」と返して、外に出た。
俺は家のそばに止まっていた白いSUVの助手席に乗り込んだ。
「岩之湯行ったことあります?」
俺は行ったことないんですけど、と車を出発させたシロさんに声をかけると、シロさんは前を向いたまま「ああ、何回か」と答えた。
「かなり前の話だがな。高校生の頃、それこそ君くらいの年の頃だった」
「へぇ……」
「でも帰ってきてからは行ったことがなかったな。まだ営業していたことも知らなかったよ」
「そうですか」
そういえば、シロさんは大学は東京へ行っていたんだっけ。
それに、シロさんに限らず、今の時代銭湯に行く人はほとんどいないよな。いくらここが田舎のほうだと言っても、どの家にも風呂があるし、わざわざお金を払って風呂に入りに行く人はいないだろう。
それこそ祖母の言っていたスーパー銭湯なんて、風呂というより遊びに行く場所なんだろうし。そっちも、俺は行ったことないけど。
岩之湯へは、十五分程度で到着した。
駐車場はなかったため、銭湯をぐるりと回るように迂回し、近くにあった駐車場に車を停めて、俺とシロさんは歩いて向かった。
岩之湯は、石森市積吉町の住宅街に溶け込むように佇んでいた。住宅街と言っても、商店もいくつか立ち並ぶ辺りとの継ぎ目とでもいうのだろうか。一軒家の並びから少しだけ奥まった路地を進むと、黒瓦の小屋根の下に「銭湯」と書かれた紺色の暖簾が入り口にかけられている。俺は生まれていないからイメージだけど、そこだけ昭和を感じさせるような古めかしい、一階建ての低い平屋だった。
木枠と曇りガラスの入り口のそばには、自販機が二つ並んでいる。十八時過ぎ、ほんの少し薄暗くなり始めた時刻ではまだ消灯しているようだ。冷たい飲み物と、最下段には温かい飲み物。売り切れている種類もあった。
自転車が数台停まっていて、すでにお客が入っていることが分かった。
シロさんに続いて、暖簾をくぐる。こぎれいな玄関の木床はニスで光っていた。薄橙色のしっくい壁は、よく見ると天井に近い箇所や地面に近い箇所に、うっすらと亀裂が刻まれている。
木札で鍵をする下駄箱は、大体八十個くらいだろうか。そのうち二十~三十くらいは木札がない。
「けっこうお客来てますね」
「ああ。梨奈の言っていた通りだな」
相談所を出る前に、梨奈さんが岩之湯について調べてくれたことを教えてくれた。現在の経営状況とか、諸々。
「おっ、いらっしゃい!」
靴をしまって中へ進むと、ちょうど番台の近くにいた岩渕さんが声をかけてくれた。俺とシロさんを見て、片手を上げてくれたので、会釈を返す。
「お約束通り、お邪魔しますよ。いやぁ、賑わってますね」
「ああ、ゴールデンウィークだから、もっと混んでもいいんだけどなぁ」
シロさんの挨拶に、岩渕さんは頭頂部をさすった。残念そうに言う割には、忙しそうだった。彼の肩には使い古した白いフェイスタオルが掛けられていて、うっすらと汗をかいている。
待合室(って呼んでいいのかな?)には、背もたれの無いベンチが三つあった。ベンチに向けられた青い羽の扇風機、茶色いマッサージチェアが一つ置いてあり、壁際には自販機が二台と瓶の牛乳が入った冷蔵ショーケースがある。壁には最近のものと思われるポスターと色褪せたポスターがいくつも貼られていて、少しごちゃついている。よく見たら、体重計も置いてあった。
受付――番台って言うんだっけ、そこには女性が一人座っていて、左右に男女別の脱衣所への暖簾がかかっていた。
初めて来る銭湯に、ついきょろきょろと見回してしまう。
くすんだ赤、オレンジ、緑、模様の入ったタイル。これが昭和レトロか……と感心してしまうけれど、ベンチに座ってスマホを見ながら笑い合っているのは、若い男女の組み合わせや、部活帰りらしい高校生の姿。
俺は、梨奈さんが教えてくれたこの銭湯の現状を思い出していた。




