5-2. 垢を舐める
五月三日、憲法記念日。
俺は午前中のうちからバイト先である異浦なんでも相談所へ向かった。
普段より混み合っている道路を横目に、自転車は軽やかに街中を走る。たどり着いた深緑色のドアを開くと、ドアベルの高い音が鳴った。
「おはようございます」
「おはよー」
笑顔を向けてくれた梨奈さんがさっと席を立ち、キッチンカウンターへ向かう。彼女は五センチ程度のヒールの薄い黄色の靴を履いていた。歩くとその細いヒールが、カツカツと床を叩く小気味良い音を立てる。
俺は女子のオシャレには詳しくないけれど、梨奈さんがとても気を遣っているのは分かる。靴と同じ色のカーディガンに白いシャツ、水色のスカートが歩くたびに柔らかく揺れて、目に鮮やかだった。
奥のテーブルでは、シロさんが「おはよう」と俺に向かって片手を上げ、その向かいに座っていた荒屋敷さんも「おはようございます」と微笑んでくれた。
いつもの光景だったが、室内を見渡すと、何人か足りない。
「和華子さんは今日お休みですか? 佐久間さんも」
「うん、和華子さんは今日お休みだよ。健太郎くんの野球の練習試合があるんだって」
荷物を置きながら空いているテーブルにつくと、梨奈さんがアイスティーを持ってきてくれた。
「はい、どうぞ」と梨奈さんが持ってきたコースターとグラスを目の前に置く。琥珀色の液体の中で、氷がコロンと小さく音を立てた。
お礼を言って一口飲むと、紅茶の爽やかな苦みとともに林檎の香りが鼻に抜ける。
「慶音さんは、まだ東京。なかなか帰してもらえないみたい」
「そうなんですか」
梨奈さんは言いながら、ちょっとだけ口を尖らせた。
佐久間慶音さんは相談所の調査員の一人で、たしか年齢は荒屋敷さんと同じくらい。すらっと背の高くて、あらゆる事柄の知識の豊富さで言ったらこの相談所随一の、聡明な女性だ。
俺は東京へ出張に行ったことはないが、話を聞く限り、あっちでは警察と関わり合うような相談ごとが多い。佐久間さんやシロさん、荒屋敷さんは時々そちらへ駆り出される。
先週出張に行っていたシロさんは仕事を終えて帰ってきているけど、佐久間さんは別な作業をしているのか。俺は向こうでの詳しいことは、よく知らなかった。
「しょうがないだろ、慶音が優秀なのは今に始まったことじゃない」
少しだけ面白くなさそうな表情を浮かべる梨奈さんに、シロさんが声をかける。
梨奈さんは佐久間さんの優秀さに嫉妬しているとかそういうわけではなくて(そもそも梨奈さんは現場仕事ではないし)、むしろ佐久間さんばかり酷使されていることへの不満や、心配があるのだと思う。
「それはそうですけど」と、釈然としない様子の梨奈さんに対し、シロさんは椅子の背に腕を載せて、「それに」と続ける。
「今回の現場は男連中が多いんだ。美人がいたら、それだけで士気が上がるだろ」
「……それセクハラですよ」
「はぁ? 褒めただけだろ……」
梨奈さんの冷たい視線に、シロさんが目を丸くする。けれど、これでこの話はおしまいとばかりに、梨奈さんは自分のテーブルに戻り、ノートパソコンに向き直ってしまった。
シロさんは不思議そうに「なぁ?」と俺や荒屋敷さんに同意を求めてきたけど、俺は「さぁ」と首を傾げるだけにしておいた。
シロさんと荒屋敷さんは、テーブルの上でノートパソコンの画面を見せ合いながら、地図を広げていた。
暇だった俺が会話に混ざると、平日に受けた依頼だと教えてくれた。その件で、荒屋敷さんは午後から出かけるそうだ。
「泊まりなんですか?」
「ええ、少なくとも一泊。次第によっては連泊するかもしれません。……早く解決できるといいのですが」
「もし難しいようだったら、あとから俺と惟で追いかけるか」
シロさんが地図を片付けながら言う。軽く言ってくれるけど、荒屋敷さんが一人で解決できないようなことだったら、俺が行ってもあまり意味がない気がするけど。
でも荒屋敷さんにはお世話になっているし、手伝いに行くのはかまわない。……内容にもよるけど。
話をしているうちに十二時を回り、昼食後、荒屋敷さんは出かけて行った。
・
荒屋敷さんが出発してから、数分後、相談者が一人やってきた。
シロさんと向かい合って座るのは、市内の銭湯を経営する岩渕源一郎さんという男性だった。あらかじめ電話で相談へ来る旨は分かっていたらしく、梨奈さんが銭湯『岩之湯』が住宅街にある小さな銭湯だと教えてくれた。店主の岩渕さんが一人で切り盛りしている。
「深夜、誰もいない浴場から音がする、と」
シロさんの確認に、岩渕さんは側頭部のわずかな白髪を指先で弄りながら、何もない頭頂部を気まずそうにさすった。七十代後半と聞いたが、年齢のわりに元気そうに見えるのは、日に焼けた地肌のせいだろうか。色褪せたTシャツに薄手のジップアップパーカーを羽織り、どうにも居心地悪そうに座っている。シロさんと話しながら、時折俺や梨奈さんのほうにちらっと視線を向けてきた。
こういうカフェのような場所には、慣れていないのかもしれない。もしくは、若い人ばかりで頼りなさそうと思われているのか。
相談者の中に、こういう反応の人はたまにいる。相談内容が内容なだけに、いかにも霊能力者風の人が待っていると思うのかもしれない。だから、想像と違って戸惑う。
そんなことを考えていると、シロさんが「ふむ」とちょっとだけ身を乗り出した。続きを促された岩渕さんはちょっと迷いながら、口を開いた。
「……ああ。なんつうか、『グチャ……グチャ……』って、何か嫌な音が聞こえてくるんだよ。そんで、『おえっ』って吐いてるみてぇな呻き声も聞こえた」
岩渕さんは、心底分からないとでも言うように首を振った。
「まさか、誰かいるのかと思って覗いてみたけど、誰もいねぇ。鼠か虫かと思って見回したけど、そんときは何も。そんで、そういうのが先週から何回か続いてんだ」
そう言うと、岩渕さんは足元に置いていた黒いバッグから、ビニール袋のような物を取り出した。
「ゴールデンウィークは、毎年菖蒲湯にしてんだ。そのために買っておいた菖蒲なんだけどよ」
岩渕さんがテーブルに置いたのは、チャック付きポリ袋だった。
それを見て、俺は息を呑んだ。
ポリ袋の中に入っている緑色の葉は、まるでヤスリか何かで表面を激しく削り取られたようにボロボロになり、粘り気のありそうな灰色っぽい液体でべちゃべちゃに濡れていた。
シロさんはポリ袋を掴み、目を細めて近くで観察する。
「動物でも入ってきてんのかと思ったんだが、音がする日はちゃんと鍵かけてあったから、何も入ってこれないと思うんだよ」
「……開けてもいいですか?」
「ああ。けど、臭えぞ」
シロさんはゆっくりチャックを開けた。数秒して俺のところにも、生ごみの腐敗臭に似た刺激が鼻に届く。思わず手でそっと鼻を抑えた。
「たしかに、ひどい匂いですね。……でも、植物が腐った匂いじゃない」
シロさんはチャックを一度閉めると、立ち上がって、キッチンカウンターのほうから割り箸を持ってきた。
またチャックを開けると、割り箸で中の菖蒲をつつき始める。
「さっき、音がする日はちゃんと鍵がかけてあったって言っていましたけど、かけてない日もあるんですか?」
シロさんの行動をじっと見ていた岩渕さんは、「いやぁ」と否定した。
「お客さんが帰ったら、全部鍵を閉めるんだよ。玄関と、窓と、裏口。けど、……関係ねぇと思うけど、三月に一回だけ物音がした日があって、その日は裏口の鍵が開いてたんだよ」
「三月……その物音は最近深夜に聞こえる音と同じですか?」
シロさんは質問しながら、菖蒲の葉にまとわりついているものの粘り気を確かめるように割り箸を動かしている。
「いんや、外からだった。見に行ったら、裏口が開いてて、外に重ねてた空の段ボール箱が落ちてた。鍵は毎日ちゃんとかけてるから、裏口だけかけ忘れることなんて無いと思ったんだけどよ……」
そう言って、岩渕さんは一度口をつぐむと、「ちゃんと閉めたと思ったんだけど、俺も歳かなぁ」とちょっとだけ寂しそうに言った。
「泥棒かとも思ったけど、金はちゃんとあった。盗むもんなんて、金以外にねぇからな。……段ボールを落としたのも、猫かなんかだったんだろ」
「盗まれたものはなかった……」
シロさんは反芻するように呟いた。
確認が終わったのか、シロさんがポリ袋のチャックを閉めると、いつの間にか梨奈さんがシロさんのすぐそばにいて、新聞紙を持っていた。「ありがとう」と言って、シロさんは梨奈さんが広げた新聞紙に使った割り箸を置く。梨奈さんはそれを丁寧に丸めると、大きめのビニール袋に入れてキッチンカウンターの奥の部屋へ持って行った。
「幽霊なんかがいるとは思ってねえんだけど、なんか、気味が悪いからさ」
言い訳のように話す岩渕さんに、シロさんは「ええ、分かります」と頷いた。
そして、にこやかに口角を上げた。
「早速ですが、今日の夜に伺ってもいいですか?」




