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5-1. 垢を舐める

 空気が暖かく満たされ、自宅の庭では祖母の育てる花が色を付けていた。葉も太陽光に反射しながら、その緑を濃くしている。

 ゴールデンウィークが始まった四月末には、石森(いしもり)市を吹き抜ける風が冬の名残を完全にかき消していた。

 朝の情報番組では「最大十日近いお休みになる人もいるようです」と、女性のアナウンサーが笑顔で伝えている。

 高校生である俺は、連休に挟まれた平日は学校がある。十日休みの人がいると聞くと、飛石連休は損をしているような気分になってしまうが、連休が続くことは単純に嬉しい。なんだか気分が軽やかになる。

 旅行だとか、普段と違う予定を立てているわけではないし、かといって別に学校に行きたくないとか、決して登校を苦痛に感じているわけではない。元から学校に特別な楽しさを見出していない俺だったが、行きたくないと思っているわけではない。

 けれど、最近、今までの学校生活とは少しだけ雰囲気が変わってきていて……正直、居心地の悪さを感じていた。



「おはよう、藤見(ふじみ)くん」

「あ、藤見くんおはよー」


 朝教室へ入り、声をかけてくれたクラスメイトに「おはよう」と返す。

 自然に返せるようになったけれど、最初は驚いて、一瞬返事が遅れてしまった。

 先週、三木(みき)さんというクラスメイトの女子生徒が憑りつかれてしまう出来事があった。……憑りつかれたのは俺が原因みたいなものだし、浄霊したのは荒屋敷(あらやしき)さんだから、俺が解決したわけではない。

 ただ、三木さんの友達は俺が何かしたと思っているようだった。

 それ以来、彼女は俺に挨拶をするようになった。

 教室の空気は、あっという間に伝播する。もちろん全員が挨拶してくるわけではないけれど、彼女が俺に挨拶するのを見て、挨拶してくる人が少しだけ増えた。

 彼女以外のクラスメイトが。俺をどう思っているのかは分からない。

 それに、朝の挨拶が何の変哲もないコミュニケーションだということは知っているし、高校生のクラスメイト同士の当たり前のやりとりで、特別意識するようなことでもないと分かっているつもりだ。

 そう頭では理解しているのに、心の中で戸惑っている。

 ……友達のいない俺にとって、自然に朝の挨拶を交わすというのは、不思議な経験だった。

 ずっと遠巻きにされていたし、それが当然のように思っていた。だから、なんだかちょっとだけ背中が熱いような、頬がかゆいような気がする。

 クラスメイトとの関わりを求めているわけじゃない。関わらないほうが面倒ごとは少ないはずだ。

 その考えは変わらないけれど、でもこれはきっと悪い変化ではないのだろう。そう思うから、なおさら教室の椅子の座り心地が悪いような、自分でも言葉に表せない感覚だった。

 ……まぁ、挨拶だけで、それ以外は遠巻きにされているから、あまり変わらないとも言えるけれど。


 俺はゴールデンウィークの初日から、日中はバイトか、佐々本(ささもと)さんらボランティア主催の川沿い清掃に参加していた。

 そして家に帰ってきてからは、書斎の整理を行っていた。

 自宅の奥にある書斎は、日当たりがあまり良くない上に、限りなく黒に近い茶色の木で出来た本棚が並んでいるせいか、電気をつけても薄暗い気がする。

 生前、祖父と父が使っていた部屋だ。時々軽く埃を払ったり、窓を開けて空気を入れ替えたりはしていたものの、部屋の主を亡くしてから、もう十年以上経つ。

 母と祖母はここに置いてある物に興味がない。けれど、処分されないまま、古い紙の匂いが籠った静謐な空間は残されていた。

 母が言うには、「いつか(ゆい)も使うかもしれない」と父が言っていたらしい。

 以前の俺なら、興味の無さと気味悪さが勝って、なるべく近寄らなかった。けれど、四月のあの一件――三木さんの件を経て、俺の心境は少しだけ変わっていた。

 幽霊や妖怪、この世ならざるものが見えることが、ずっと嫌だった。

 今も、これが特別な力だとか、喜ばしいことだなんて思わない。見えないなら、見えないほうがいい。

 ……でも、見えてしまうものは、消せない。

 「好きで見えているわけじゃない」と、あんな事務所に進んで通いながら、「シロさんに振り回されている」と、心の中で言い訳を続けていた。

 けれど、一生付き合っていくことに、いい加減向き合わなきゃいけないのかもしれない。

 前向きな決意なのか、後ろ向きな諦めなのか……自分でもよく分からない。案外、両方なのかもしれない。とにかく、そう考えるようになった。



「……えっと、こっちも民俗学。……で、こっちの棚は風水?」


 書物を手に取りながら、タイトルを目で追い、棚に並ぶ背表紙をなぞる。

 途中、本を覗きこむように近づいてきた小さな異形をハンディモップで追い払った。手のひらより小さな、二足歩行のねずみのような、薄茶色のやつが俺に何やら悪態をついて消えた。

 何を言っていたのか聞き取れなかったが、たいして力のない――こちらに危害を加えるようなものではないことは、なんとなく感覚で分かる。妖怪未満、とでも言うのだろうか。

 祖父と父は、俺と同じで見える人だった。

 幼い記憶はあまり残っていないけれど、俺に「怖いときは、見えていないふりをしなさい」と教えてくれたのは父だ。その頃はそもそも、見えない人がいると考えたこともなかった。だから、父がいつから見えているのか、どういう風に――俺と同じように見えていたのかを聞くことはできなかった。

 シロさんに聞けば、きっと教えてくれるのだろう。でも父のことを教えてほしいと頼むのは、なぜか気恥ずかしくて気が進まなかった。

 書斎には祖父や父が遺した物が眠っている。

 シロさんが言うにはここは知識や宝の山らしいから、自分を守る術や()()と折り合いをつけるヒントがあるのかもしれない。

 徹夜してまで読み耽るほどではないにせよ、そんな好奇心の芽が俺を動かしていた。


 五月二日の平日、学校から帰ってきた俺は、書斎の窓を全開にした。日が長くなると、夕方でもまだ外は充分明るい。日当たりは良くないが、心地良い程度の風は流れてくる。


「……伝記、これも同じシリーズの伝記。……あ、こっちはホラー小説か」


 換気をしながら本棚の整理を進める。整理と言っても、背表紙のタイトルを指でなぞり、祖父と父がどんな本を集めて遺したのか見ている程度だったが。

 中には、不気味な挿絵が描かれた和綴じの本や、現代の学術書が脈絡なく並んでいる。

「あっ」

 ふと手に取ろうとした一冊を畳の上に落とし、慌てて拾う。

 落ちた拍子にページが開かれ、水彩画のような挿絵とともに綴られている文字が目に留まった。


菖蒲湯(しょうぶゆ)は古来、中国から伝わる邪気払いの風習。薬草である菖蒲の強い香りが病魔や厄災を払うとされた。日本ではその形が剣に似ていることや「尚武(しょうぶ)」に通じることから、邪を払う刃として端午の節句に用いられ――』


 季節の行事と日本のしきたりについて書かれた本のようだった。

 菖蒲湯……。そういえば、もうすぐ五月五日だ。

 明日、五月三日は憲法記念日、五月四日はみどりの日、五月五日はこどもの日。

 我が家では、五月五日は菖蒲湯に入って、柏餅を食べる。

 祖父と父と結婚しておきながら、幽霊やお化けを信じていない祖母と母は、昔ながらの行事は大切にしていた。

 菖蒲湯に入るのは子供の頃から毎年のことだから、理由を深く考えたことはなかった。この本を読むに、厄払いの意味があるのか。

 たしかにそう言われて思い出してみると、菖蒲湯に入ると――ゴールデンウィークの頃は、悪意のある幽霊や妖怪と何かあった記憶がない。無意識のうちに、多少は厄払いの意味があったのかもしれない。

 案外、こういう風習はバカにできないのか。明日はバイトがあるから、シロさんにも聞いてみようか。

 俺は寄ってきた小さな異形をまたハンディモップで払いながら、本を棚へ戻した。

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