5-6. 垢を舐める
「……『垢嘗め』」
俺は呆然としながら、その名を口の中で呟いた。
岩渕さんの相談内容の原因が、本当に妖怪の仕業だったのだと改めて思い知り、驚きを隠せなかった。
そこにいたのは、貧相で酷く汚らしい体つきをした異形だ。姿形は人間の子供に少し似ているけど、頭頂部には濡れた髪の毛のようなものがべったりとへばりついている。菖蒲の葉を嫌な音を立てて舐めては呻き、そして「おえっ」と吐き出す、という不気味な行動を延々と繰り返していた。
その視覚的な汚さに強烈な嫌悪感は抱くものの、不思議と「怖い」とはあまり思わなかった。
シロさんが、隣にいてくれるからだろうか……。
そんなことを考えながら、俺は両手でしっかりと鼻を抑えたまま、隣に立つシロさんの横顔を窺った。
シロさんは表情を微塵も崩さず、じっとその垢嘗めを見つめていたが、おもむろに立ち上がった。そして脱衣所と浴場を隔てる曇りガラスの戸を、ゆっくりと、あえて音を立てるようにして開けた。
――ガラ、ガラ、ガラ。
えっ、と俺が内心で驚いた瞬間、音に気づいた垢嘗めが弾かれたようにこちらを振り向いた。驚愕に顔を歪めたそいつは突如として激しく飛び跳ねると、一目散に走り出した。
ベタベタッと、濡れた裸足が床を叩く不快な足音を響かせ、急ぐようにして浴槽のほうへと向かう。そして、湯船の縁を越えたかと思った瞬間、まるで最初からそこにいなかったかのように、ふっと姿を消してしまった。
あまりのあっけなさに俺が立ち尽くしていると、シロさんは迷いのない足取りで風呂場へと入っていく。俺も置いていかれないよう、その後に続いた。
「えっ、逃げましたよ……?」
思わず声を上げようとして鼻から手を離した途端、空間に漂う悪臭がダイレクトに突き刺さり、危うく「おえっ」と吐きそうになる。慌てて再び鼻をがっちりと摘み直した。
……シロさんは、よく平気な顔をしていられるな……。
感心しながら、さっきまで垢嘗めが蹲っていた場所を見下ろすシロさんの一歩後ろから、そっと床を覗き込んだ。
シロさんはその場にしゃがみ込むと、床に残された吐瀉物に触れないよう注意しながら、そこに落ちていた菖蒲の葉を指先で掴み上げた。それを光に透かすようにしてじっと観察し始める。
その意図が分からず、俺の頭の中ははてなマークでいっぱいになった。
そうして二人で浴場の床を見つめていると、背後から急ぎ足の足音が響き、入り口の戸から岩渕さんが顔を覗かせた。
「なんだ、くっせぇな……。おい、まさかまた出たのか!?」
シロさんは立ち上がり、岩渕さんの方を振り返る。
「ええ。俺たちが来たときには、すでにこれがありました」
岩渕さんは俺たちのところまで歩いてくると、強烈な臭気に顔を酷く顰めながら、「またかよ……!」と忌々しげに吐き捨てた。
シロさん、妖怪を見たことは言わないんだな……。
俺は静かに二人のやり取りを見守った。けれど、その報告内容には内心で納得している。ここで「さっきまで妖怪がいました!」と正直に伝えたところで、信じてもらえるかは分からない。それに伝えたところでもう姿は消えているし、そもそも岩渕さんにその姿が視えるとも限らないからだ。
俺が黙って状況を見つめる中、岩渕さんは頭を抱えるようにして声を絞り出した。
「くっそ、原因は一体何なんだ……。何が起きているんだよ」
「少し心当たりがありますので、引き続き調査をさせてください」
シロさんが淡々と告げると、岩渕さんは「あ、あぁ、それは構わねぇけどよ……」と歯切れ悪く頷いた。
「心当たりって……なぁ、やっぱり、なんつうか……その、そういう、出ちまったのか?」
岩渕さんは「幽霊」という言葉をはっきり口には出さなかったが、やはり科学では説明のつかない存在のせいなのかと、その表情には動揺の色が揺らいでいる。
しかし、シロさんはその問いかけに対しては肯定も否定もせず、ただにこりと笑って話題を切り替えた。
「今日はとりあえず、この場所も含めて片付けを手伝いますよ」
「え、いや、でもよぉ……そんなことまでしてもらう訳には……」
遠慮する岩渕さんに対し、シロさんは肩をすくめて、いつもの飄々とした調子で言った。
「『なんでも相談所』ですから。何でもするんですよ」
俺とシロさんはさっそく銭湯の片付けを手伝い始めた。
玄関前の掃除や暖簾は既に岩渕さんが片付けたから、玄関の中の掃き掃除から。下駄箱の鍵がちゃんとついているか一つずつチェックし、忘れ物がないかを確認して消灯した。
次は待合室、ここも掃き掃除とさっと拭き掃除をして、溢れそうだったゴミを一つにまとめる。ベンチの下などに忘れ物がないかも入念に見て回った。
「岩渕さん、いつもこれを一人でやっているんですか?」
ゴミ袋を結びながら、シロさんが何気ない口調で尋ねた。
「ああ、今は従業員なんて雇ってないからな。夜の片付けもそうだけど、開ける準備も全部俺一人でやってるよ」
岩渕さんは少し腰をさすりながら笑う。
「番台にいた女性の方は、先に帰っちゃうんですか?」
俺が気になって訊ねると、岩渕さんは「島田さんならそうだよ」と頷いた。
「一番忙しい夕方の時間帯だけ、パートで来てもらってんだ」
「へぇ、そうなんですか」
これだけの広さを高齢の体で維持するのは想像以上に過酷なはずだ。シロさんはさらに言葉を重ねる。
「さっきの、近藤さんという方は? この銭湯をずいぶんと盛り上げている方のようですが、お付き合いは長いんですか?」
「いやぁ、近藤さんは去年石森市に住み始めたばかりみたいなんだけどよ。それまではずっと東京にいたらしくて、今は地方の活性化とかそういうのを盛り上げる仕事をしてるんだと」
岩渕さんは嬉しそうに目元を細めて語った。近所の常連連中との飲み会で偶然知り合ったのだという。
「近藤さんが言うには、うちみたいな古い銭湯は今はレトロだっつって若い子に大人気なんだってな。とにかく存在を知ってもらえたらお客さんがいっぱい来るからって、若者向けのルールを提案して、ネットのえすえぬえすってやつを代わりにやってくれてんだ」
「SNSでの紹介やアカウントの運営は、すべて近藤さんがやられているんですか。すごいなぁ」
シロさんが感心したように相槌を打つと、岩渕さんは照れくさそうに頭をさすった。
「そうなんだよ。俺はそういう機械のことは全然わかんねぇからなぁ、本当に助かってんだ。時々、今日みたいにわざわざ様子を見に来てくれるしよ」
「優しい人なんですね。……他にも何かやる予定、盛り上げるプランなんかもあるんですか?」
「ああ、色々考えてくれてるよ。なんつったかな、わい、わいふぁい? そういうのもどんどん使うべきだって言ってんだけど、工事に金がかかるって言われたな。だから、何でもすぐってわけにはなぁ……」
岩渕さんは近藤という男性のことを心から信頼しているようだった。
けれど、俺の胸には彼の小馬鹿にしたような態度がよぎり、どうにもすっきりしない感覚が残った。
次に、男湯の脱衣所のゴミを片付け、忘れ物をチェックする作業に移った。
「あの、岩渕さん。これって……忘れ物ですか?」
ロッカーの隙間で見つけたものを見て、俺は判断に迷って岩渕さんを呼んだ。
差し出したのは、市販のスナック菓子についてくる小さなおまけのおもちゃと、使い残しのある小さなシャンプーのボトル。正直、俺からしたらただの中途半端なゴミを置き忘れていったようにしか見えなかった。
しかし、岩渕さんはシワだらけの手でそれらを受け取ると、「ああ、ありがとな。取りに来るかもしれないからな」と言って、待合室にある手作りのダンボール箱に入れに行った。
着いていって、その『忘れ物ボックス』の中を覗く。中には、同じようなゴミともつかない細々としたものがたくさん詰まっていた。俺には捨ててしまってもいいような物に思えるけど、一つひとつ、岩渕さんはずっと保管しているんだろうな。それが優しさなのか、整理が面倒で放置しているのか、俺にはどちらもあるように映った。
最後は、男湯の風呂場と女湯側の清掃だ。
「それじゃあ、シロさんたちは女湯のほうをお願いしていいかい?」
岩渕さんに言われ、俺とシロさんは初めて女湯の脱衣所へと足を踏み入れた。
当然ながら誰もいない。女湯も脱衣所と風呂場の作りは男湯とほぼ同じだったが、壁のタイルの色が違っていて、心なしか鏡の前のドライヤーの数が男湯よりも多く設置されていた。
脱衣所を片付け終わり、風呂場を掃除するため俺とシロさんは靴下を脱いで、デニムの裾を膝まで硬く捲り上げた。岩渕さんに説明された通りに、洗剤とデッキブラシを持って掃除を始める。シャッ、シャッとブラシが床を擦る音が高い天井の浴場に寂しく反響した。
男湯の風呂場は岩渕さんが掃除している。こちらの会話は向こうには聞こえないはずだが、俺はつい声をひそめてシロさんに話しかけた。
「……シロさん。さっきの垢嘗め逃げちゃいましたけど、あのままでいいんですか?」
あの感じだと、あの場では逃げたけどまた明日の夜になったら現れそうな……そう思ってブラシを動かす手を止めずに訊ねると、シロさんは「……そうだなぁ」とだけ言って、視線を落とした。
……今は、まだ何も教えてくれないんだろうな。
こういう怪異の調査のとき、シロさんは自分の考えを懇切丁寧には説明してくれない。不満に思うことも多いけれど、まぁ、何とかしてくれるんだろうなと、俺は無意識のうちに安心していた。
大体の掃除を終えて女湯の脱衣所へ戻ると、ちょうどタイミングを見計らったように岩渕さんが顔を出した。
「ほら、このタオル使いな」
渡された足拭き用の乾いたタオルで足を拭く。
「あとは外にゴミを捨てるだけだ」と言う岩渕さんの後ろに続こうとしたとき、隣のシロさんが不意に足を止め、脱衣所の壁をじっと見つめた。
シロさんの視線の先には、壁際のロッカーの上――少し高い位置に掲げられた、白いアクリルプレートの注意事項があった。男湯にも同じものがあったな、と俺は思い出す。
よく見ると、その四角いプレートは右上の角が欠けており、隠れていた後ろの壁部分にはぽっかりと小さく黒い穴が空いてしまっているようだった。
お客さんはたくさん来ているけれど、こういう古い設備をすぐに直せるほどのお金は無いのかな……。
そんな現実的なことを考えていると、シロさんは片膝を載せてロッカーに登り、欠けて穴になっていたところに手を伸ばした。シロさんの背に隠れてよく見えなかったが、何かをポケットに入れるそぶりをして、ロッカーから降りた。
一瞬の出来事にぽかんとしていると、シロさんは俺に向かって自分の口元に人差し指を当てた。
……岩渕さんのいる前では聞かないほうがいいってことか……?
既に脱衣所から出て行った岩渕さんを追いかけるように、シロさんが何事もなかったように歩き出したので、俺も慌ててその後に続いた。
従業員用の狭い通路を通り、それぞれゴミ袋を持って銭湯の裏口へと出た。
外はもうすっかり深夜の静寂に包まれており、住宅街の空気はひんやりと冷たい。
「そういえば岩渕さん。お昼に相談にいらしたとき、以前裏口のほうで物音がした、と仰っていましたよね」
ゴミを捨てながら、シロさんが思い出したように訊ねた。
「あ? ああ、そうだな。この辺りに重ねておいた段ボールが、崩れて落ちてたんだよ」
岩渕さんが指し示したのは、外壁に立てかけられた、紐でひとまとめにされている段ボールの束だった。
「まぁ、風か猫の仕業だろうよ」
岩渕さんは大して気にしていない風に笑い、裏口の重い扉を閉めて、カチャリと鍵をかけた。
これで今日の岩之湯の業務はすべて終了だ。岩渕さんに挨拶を済ませ、帰りはシロさんの白いSUVで送ってもらうことになった。
日付が変わろうとしている夜道は車通りもほとんどなく、車はすいすいと滑らかに進んでいく。
フロントガラスを流れる街灯の光を眺めながら、俺は助手席でぽつりと言った。
「いつも、岩渕さん一人であの広い銭湯の掃除や片付けをしてるんですね……」
「ああ。大変な作業だろうな。だが、あの年齢のわりにはずいぶんと元気な人だ」
「ですね」
車内に静かなエンジン音だけが響く。
しばらくの沈黙のあと、ハンドルを握ったままのシロさんが不意に切り出した。
「――今回の依頼なんだが」
そのトーンの変化に、俺は思わずシロさんの横顔を見た。
シロさんは前を見据えたまま、言葉を続ける。
「惟……今回の件、君にどうするか決めてもらおうと思う」




