4-11. 川面に揺れる名前
まだ太陽が地平線の向こう側に隠れている時間に、俺は目を覚ました。
母と祖母を起こさないように、準備を整える。そっと玄関から出て、冷たい空気を肺の奥まで満たす。数日前のような、恐怖はなかった。庭を通り過ぎると、家の敷地から少しだけ離れた場所に紺色のSUVが静かに停まっていた。
「おはようございます」
俺が出てきたことに気づいて、荒屋敷さんが車窓から顔を出した。短い挨拶に、俺も「おはようございます」と返す。
助手席に乗り込んだ俺がシートベルトをしたことを確認して、荒屋敷さんは車を発進させた。
「……危ないと判断したら、途中だったとしても、すぐにやめますからね。いいですね」
「はい」
荒屋敷さんの真剣な横顔に、俺は短く、けれどしっかり頷いた。
学校に着くと、当然ながら正門はまだ閉まっていた。けれど、防犯カメラも守衛もいない地方の高校だ。荒屋敷さんがひょいと門を乗り越え、俺もその後に続いた。
「懐かしいですね。……もう、何年ぶりだろう」
荒屋敷さんが小さく呟く。その横顔には、嘘偽りのない母校への懐かしさが滲んでいた。
学校がまだ目覚めていないような、朝練が始まる前の静寂に包まれた校庭。コートを着ていても少し冷えるが、吐く息が白く染まるほどではない。
俺と荒屋敷さんは迷わず、青道館の横――大きなケヤキの木の下へ向かった。
一歩、また一歩。怖い、とは思わないけれど、足を進めるたびに、不安と少しの焦燥で小さく心臓が跳ねる。けれど足は止めなかった。
ほんの少しずつ、夜の色が薄れ始めていた。
部室棟を抜け、視界が開けた先に、紺色の重厚な屋根と大きなケヤキの木が見える。
木の下には、黒い人型がぼんやりと立っていた。
先週見たときよりははっきりしているが、周りの薄暗さに溶け込むように、その輪郭は墨を零したように黒く濁っている。人間なのか、幽霊なのか。その境界はひどく曖昧な気がした。
実際に目にすると、目を逸らしたくなる。背中が撫でられるようにざわざわする感覚を抑え込んで、目を凝らす。かろうじて、暗い輪郭が制服を纏っているのが分かった。……一人の女子生徒だった。
ケヤキの木まであと五、六メートルほどのところで俺は足を止め、自分を落ち着かせるよう空気を吸い込んだ。
荒屋敷さんが俺の隣からもう一歩前へ足を踏み出した。
「……石川、美希さんですね」
荒屋敷さんの声は、静かな空気にピンと響く。その声には柔らかい優しさが含まれているのに、はっきりと断言する力強さがあった。
昨日、帰りの車の中で荒屋敷さんと話をした。
佐々本さんから聞いた話。そして彼が梅高を卒業した年――十三年前、梨奈さんが見つけてくれた記事の中で、飲酒運転による事故で家族三人の命が奪われていた。
亡くなったのは、両親とともに車に同乗していた梅森高等学校に通う女子生徒――石川美希さん。
――『あ、ミキさん』
俺が、名前を呼んでしまった。
――『自分が何者で、なぜここにいるのか。この世に留まっている時間が長くなればなるほど、生きていた頃の記憶は磨り減り、薄れていく』
――『だが名前は、たとえ記憶が欠けていっても、根底に必ず残るものだ。呼ばれたことで、思い出す。呼ばれたことで、自分が呼ばれたのだと気づく』
シロさんの声が、頭の中で蘇る。
彼女は、自分が誰なのかも、何のためにそこにいるのかも、長い時間の中で忘れかけていたのか。
でも俺が、名前を呼んでしまった。……俺が、彼女に思い出させてしまった、自分の名前。三木さんの体を借りたのは、もうそこから自力だけでは動けなかったから? 名を呼んだ俺についてきたのか、それとも――俺を、誰かと間違えた? 待ち続けている相手だと、思ってしまったのかな。
「石川美希さん」
荒屋敷さんが、もう一度彼女の名前を呼ぶ。今度はさっきより少し大きな声で、静かに響く。
黒い人型――女子生徒は、ピクリともしない。表情はもちろん見えないけれど、視線がじっと俺を捉えているような気配がした。
東の空が、ほんの少しずつ白み始める。
彼女は動かない。けれど、荒屋敷さんは言葉を続けた。
「石川美希さん。……あなたは、もう死んでいます。死んでから、ずっとそこにいたんですね。でも、もういいんです」
語り掛ける声には決して非難の色はなく、けれど同情や悲しみもない。ただひたすら優しかった。
そして小さな呪文のような言葉を唱え始めた。俺には分からないけれど、神社で神主が紡ぐような神聖な言霊。
――荒屋敷さんの浄霊だ。
幽霊の心当たりについて話をしたとき、荒屋敷さんは「できるだけ無理に払うのではなく、心残りを解いてあの世へ還してあげましょう」と言った。
追い払うとか除霊するとか、そういう乱暴なことはせずに、この世から離れて、両親のもとへ行けるように。
普段なら、荒屋敷さんが調査ではなく浄霊や幽霊退治に俺を連れていくことはない。そう断言できるほど一緒に仕事しているわけじゃないけれど、万が一何かあったときのために、荒屋敷さんは人を巻き込まないようにする。
でも、今回は俺からお願いして同行させてもらった。
『………ゥ…………ゥ、ゥ……』
……荒屋敷さんの声とは別に、微かに、低く唸っているような音が聞こえる。
喉の奥から絞り出すような、やっと感じ取れる程度に弱々しい唸り声は、女子生徒から聞こえてきていた。ケヤキの木の下から、ぼんやりとした黒い影が少しだけこちらに伸びてきている。まるで手を伸ばしているようだ。
それに気づいても、荒屋敷さんの声のトーンは変わらない。ただひたすら優しく、心地良い音だった。
空が、ゆっくりと色を帯び始める。
『…………ゥ……ウッ……』
荒屋敷さんの声にかき消されそうなほど、かろうじて聞き取れる唸り声を聞いて、ふと気づく。唸り声じゃない。これは、泣き声なんだ。
「美希さん……」
気づいたら、名前を口にしていた。
「もう十三年経って、佐々本さんは大人になってる……」
呟くみたいな、独り言だ。彼女に言った、というより、吐き出してしまいたかった。
ケヤキの木の下で、佐々本さんは好きな女の子に告白するつもりだった。相手の女の子――美希さんは、笑顔で行くと約束してくれたと言っていた。きっと彼女も、ずっとここで、待ち続けるくらい佐々本さんのことが――。
でも、ずっと待っていても、佐々本さんはもう来ない。来たとしても、彼女のことは見えないし、見えたとしても、もう何もならない。……生きている彼と、死んでいる彼女では、もうどうにもならない。どうしようもない。
胸の奥が、きゅっと絞られるように痛む。
やり場のない気持ちに反するように、朝日がゆっくりと、部室棟の向こうからやってくる気配がした。
「約束は、もう守らなくていい。……早く、楽になっていいはずだ」
部室棟の屋根の間から、一筋の光が差し込んだ。
白色に近い黄金色の陽光が、ケヤキの木を、そして彼女の姿を真っ直ぐに射抜いたように見えた。
太陽が完全に顔を出した。
眩いばかりの光が周囲を白く染め上げ、俺は思わず目を細めて、幾度か瞬きを繰り返した。
視界が戻った時、ケヤキの木の下には、もう誰もいなかった。ただ、春の朝の澄んだ空気が、そこにあるだけだった。
ふと気づくと、荒屋敷さんが振り返って優しく微笑んでいた。
……ケヤキの木の下から、気配は消えていた。一時的なものじゃない。もうそこには何もいないのが、俺には確信できていた。
荒屋敷さんと何か言葉を交わそうと口を開きかけたが、遠くから生徒か教師のものと思われる話し声が聞こえてきた。
「……行きましょう」
荒屋敷さんの促しに頷き、俺たちは誰にも見つからないよう、足早にその場を後にした。




