4-6. 川面に揺れる名前
平日に予定されていた依頼人への同行は、一日早めて日曜日の今日行われることになった。依頼人からの希望があって、荒屋敷さんが「早めに安心させてあげたほうがいい」と判断したからだ。
「良かったら気分転換に」と誘われて、俺は荒屋敷さんについていくことにした。
俺は荒屋敷さんの車の助手席に揺られながら、窓の外を流れる景色を眺めていた。紺色の大型SUVはシロさんや母の車より車高が高く、景色がちょっとだけ違って見える気がする。
「惟くん。昨日の夜は大丈夫でしたか?」
ハンドルを握る荒屋敷さんが、信号待ちの合間に声をかけてくれた。昨日の帰り、荒屋敷さんは心配して俺を家の前まで送ってくれたのだ。
「……はい。家についてから、窓の近くには立たないようにして、夕方のうちにカーテンもちゃんと閉めました。そのおかげか、視線を感じることはなかったです」
嘘じゃない。昨夜は彼女の姿を見ることもなく、眠ることができた。今朝も、母が用事のついでに車で相談所まで送ってくれたから、通学路のような不安を感じる隙もなかった。
「それなら良かったです」
相談所の中でも、荒屋敷さんは一番穏やかな口調をしている気がする。見た目はプロレスラーみたいにごつくてちょっと強面で、最初は緊張したけど、誰よりも丁寧な人だった。
そういえば、荒屋敷さんと二人きりでどこかへ行くのは初めてかもしれない。いつもはシロさんや和華子さん、誰かも一緒にいる。そう思いながら、運転席の荒屋敷さんを横目で眺めた。
車はまず、石巖寺へと立ち寄った。
住職から、依頼人に渡すための厄除けのお守りを受け取るためだ。急な予定変更になったため住職には会えなかったが、顔見知りの坊主たちが見送ってくれた。
それから車は旧北神川を渡り、対岸のエリアへと入った。造船所や水産加工場が並ぶ、潮の香りが強い地域だ。橋を渡ってすぐのあたりは、住宅の合間に小学校や郵便局もあり、生活の気配が濃い。
「ここですね」
荒屋敷さんが車を止めたのは、まだ木の香りが漂ってきそうなほど新しい一軒家の前だった。
風通しがよさそうで、日当たりもいい。少なくとも俺の目には、この家に招かれざるものが潜んでいるようには見えなかった。
依頼人の女性は、昨日相談所で見た時と同じように、ひどく憔悴した様子で俺たちを迎えた。旦那さんと二人暮らしだが、旦那さんは仕事に行っていて今はいないそうだ。
昨日彼女が相談所で和華子さんに訴えていた悩みは、『不幸が続く』というものだった。
階段で転んで怪我をした。仕事で初歩的なミスが続く。スマホの画面が割れた。買ったばかりの電子レンジが動かなくなった……。
リストアップされた不幸を聞きながら家の中を観察したが、やはり何も感じない。嫌な気配も、澱みも、悪意の塊もない。彼女自身にも、特に何も感じない。目の下のクマが目立つ女性には申し訳ないが、ただの偶然が重なっただけだと確信していた。
「私、去年の十一月に結婚したんですけど……友人からもらった結婚祝いの中に、何か呪いの品があるんじゃないかって。例えば、これとか……」
女性はそう言って、テーブルの上に並べたタオルや写真立て、ワインなどを手で示した。ぽつりぽつりと、けれど絶え間なくしゃべり続ける彼女の話を聞きながら、俺はじっとそれらを見つめたが、やはり何の変哲もない。
俺がこっそり視線を送ると、荒屋敷さんは小さく頷いた。
荒屋敷さんは、それらを一つ一つ手に取ってじっくり観察したあと、女性に語りかけた。この家や見せてもらった品には、呪いの気配はないこと。石巖寺の住職自らが祈祷したこの厄除けがあれば、災いは退けられること。
荒屋敷さんの深い、安心感のある声に導かれるように、女性の顔から次第に強張りが消えていった。
「まずは今日、夜眠るまでは、持ち歩くようにしてみてください」
「ありがとうございます。……なんだか、本当に大丈夫な気がしてきました」
お守りを大切そうに抱える彼女に礼を言われ、俺たちは家を後にした。
車に乗り込み、来た道を戻り始めると、俺は思わず心の声を漏らした。
「荒屋敷さん。タオルやワインに呪いを込めるなんてこと、本当にあるんですかね。考えもしませんでした」
お祝いの品を、呪いの道具だと疑ってしまうなんて。半ば戸惑いながら呟くと、荒屋敷さんは苦笑しながらハンドルを回した。
「……おそらく彼女には、何か引っかかっていることがあるのかもしれないですね」
「引っかかっていること? 呪いかもしれない、と思うものってことですか?」
「ええ。思い当たる節、もしくは後ろめたいこと、と言ったほうが正しいのかもしれません」
「思い当たる節、ですか?」
聞き返したが、荒屋敷さんは困ったように微笑むと、それ以上詳しくは語らなかった。
「ふーん」と、俺は分かったような分からないような返事をして、再び窓の外へ目を向けた。
偶然の不幸が続くと、勝手に呪いだと思い込んでしまう。
三木さんの件も、これと同じように勘違いだったら楽なのに……。
背筋を通り過ぎた一瞬の寒気に、俺は無意識にコートの襟を立てた。
帰り道、車が橋を渡り、河川敷の横を通り過ぎようとした時のことだった。
「あ……」
視界の端に、見覚えのある紺色のマウンテンパーカーが映り、俺は思わず声を漏らした。堤防のあたりで、佐々本さんたち有志グループが、トングを手にゴミ袋を抱えて動いているのが見えた。
「どうかしましたか?」
運転席の荒屋敷さんが、俺の視線を追って川の方へ顔を向けた。
「あの……。昨日ちょっと話した学校のボランティアなんですけど、あそこで掃除してるのがその有志グループの人たちです。リーダーの人は梅高のOBだって言ってました」
「ああ、あの方たちですか。日曜日の今日も活動されているとは、本当に素敵な活動ですね」
荒屋敷さんはいつもの穏やかな声で、感心したように頷いた。
窓の外を流れていく佐々本さんの姿を見送る。
本当にやっているんだな……。失礼な話だけど、佐々本さんが言っていたことが嘘だと思っていたわけじゃない。ただ、休みの日の昼間にまで、見返りのないボランティアに汗を流している大人が実在することに、どこか現実味を感じていなかった。
川の景色が遠ざかると同時に、なぜか、俺の脳裏にある光景が蘇った。
――青道館の横。ケヤキの木の下にうずくまっていた、どろりとした黒い気配。
三木さんのことに気を取られて忘れていたけど、そういえば、あの日はあれも見たんだった。佐々本さんはあのケヤキの木は告白スポットだと言っていたけど……佐々本さんが卒業したあとに、何かあったのかな。
俺はふと思いついて、隣に座る荒屋敷さんに尋ねてみた。
「荒屋敷さんって、たしか梅高の出身でしたよね?」
「ええ、そうですよ。卒業してもう十年になりますが」
「……あの、青道館の横に大きなケヤキの木があるじゃないですか。荒屋敷さんが高校生だったとき、あそこに何か……変なもの、とかいましたか?」
「ケヤキの木……ああ、あの道場の脇の」
荒屋敷さんは少しだけ考え込むような素振りを見せたが、すぐに困ったような苦笑を浮かべた。
「申し訳ないのですが、私は学生時代、今のように見ることができなかったので、分からないんです。……あそこに、何かいたんですか?」
「えっ……?」
俺は思わず荒屋敷さんの顔を二度見した。驚きのあまり、喉の奥が変な音を立てた。
「荒屋敷さんって、ずっと見えてたわけじゃないんですか?」
「はい、そうですよ。私が見えるようになったのは、学校を卒業してからですね。きっかけというほど大層なものはありませんが、色々と重なって、徐々に今のようになっていきました」
さらりと言ってのけた荒屋敷さんの告白に、俺はしばらく言葉を失った。てっきりこの相談所にいる、見える大人たちは、俺と同じで生まれつきなんだとばかり思い込んでいたからだ。
「そうだったんだ……。てっきり、ずっと見える人なんだと思ってました」
素直にそう漏らすと、荒屋敷さんは前を向いたまま、少しだけ楽しそうに肩を揺らした。
「今だって、惟くんやシロさんほどはっきりと見えているわけではないですよ。私のは、もう少しぼんやりとした……感覚に近いものですから」
荒屋敷さんの横顔はいつも通り穏やかだったが、その言葉を聞いてから改めて彼を見ると、なんだか今までとちょっとだけ印象が変わった気がした。……どう変わったのか、と聞かれても、上手く言葉にはできないけれど。
相談所に戻ると、今日は和華子さんがお弁当を買ってきてくれた。梨奈さんが手際よく淹れてくれたお茶の香りが、室内に安心感を満たしてくれるようだった。
「そういえば。さっき車の中で話していたんですが」
荒屋敷さんが箸を割りながら、ふと思い出したように口を開いた。
「惟くん、青道館のケヤキの木で何かを見たそうですね」
「せいどうかん?」
梨奈さんが首を傾げながら、自分のお弁当の蓋を開ける。和華子さんも「名前は聞いたことある気がする」と興味深そうにこちらを見た。
「梅高の校庭の隅にある、古い武道場です。学校の七不思議の話を聞いて、ちょっと覗きに行ってみたんです。そうしたら、その横に立ってるケヤキの木の下に……たぶん、幽霊がいて」
すぐに立ち去ろうとして、その直後に三木さんとすれ違って、それどころではなくなってしまったのだ。
俺が経緯を話すと、梨奈さんが「へぇ、人型の幽霊かぁ。それなら、少なくとも学校に関係のある人が原型だったのかもね」と、顎に手を当てて考え込んだ。
「俺はもう青道館に行く用事もないので、近づかないようにすればいいだけなんですけど」
「ふーん。でも一応、調べておいてあげるね」
梨奈さんが頼もしく微笑んだ。
「今週は少し時間に余裕があるし、過去に事故や自殺なんかの死亡事案がなかったか、新聞のアーカイブを洗ってみるよ」
「……ありがとうございます」
「でも私が高校生だった頃、梅高で生徒が亡くなったっていうニュースは聞いた覚えがないなぁ」
和華子さんが記憶を辿るように空を仰いだ。
「当時はまだ女子高だったけど、市内の高校でもし死亡事故があれば絶対に注意喚起が回ってくるし、もっと大騒ぎになっていたはず……ちょうど共学になる直前の時期だったしね」
和華子さんは市内の女子高出身で、梅高は近隣高校になる。
「私も在学中にはそういった話は聞いたことがありませんね」 荒屋敷さんも同意した。
「じゃあ、お二人の在学期間は外して良さそうですね。調査の範囲が絞れるなー」
梨奈さんがメモ帳を広げる横で、俺はふと佐々本さんの言葉を思い出した。
「……あ、そういえば、ボランティアのリーダーの佐々本さんが言ってたんですけど、あの木の下って、昔は告白スポットだったらしいです。あそこで告白すると成功するって」
「その噂なら、私も聞いたことがある気がします」
荒屋敷さんが頷くと、梨奈さんがパッと顔を輝かせた。
「あるある、そういうの! ってことは、その良い噂があった後かな。ケヤキの木にまつわる何か、嫌なことが起きたのは。幸せな場所が、いつの間にか不気味な場所に塗り替えられちゃうことってあるから」
「私は当時陸上部だったので、グラウンドを走るばかりで青道館にはほとんど出入りしませんでしたから、直接現場を見たことはありませんが……。良い噂が、いつの間に無くなっていたんでしょうね」
荒屋敷さんの言葉に、俺は再びケヤキの下の暗い影を思い浮かべた。
「……何か、あったんですかね」
……三木さんのことも、あの影のことも。俺の呟きは、お弁当の温かい湯気の中に、静かに吸い込まれていった。




