4-5. 川面に揺れる名前
土曜日の朝、私はいつものように『異浦なんでも相談所』の重い木製の扉を開けた。
一番に出勤するのは、たった一人の事務員である私の役目。と決まっているわけではないけど、なんとなく自主的にそうしている。
朝日が差し込む室内に、まずは掃除機をかけ、テーブルを拭く。それからケトルのスイッチを入れ、お気に入りの茶葉を用意する。この一連の準備をしていると、ここがカフェのように思えてくる。
「おはようございます、梨奈さん。今日も早いですね」
扉のベルが鳴り、最初に出勤してきたのは誠さんだった。
荒屋敷誠さん、二十八歳。彼は、一見するとプロレスラーやラグビー選手かと見紛うほどのガタイの良さだ。一九〇センチ近い鍛え上げられた体躯は威圧感すら覚えさせるけど、中身はこの上なく紳士的である。
「おはようございます、誠さん。今お茶を淹れますね」
「ありがとうございます。……手伝いますよ。おや、新しい茶葉ですか?」
「はい、こないだ仙台に行ったときに買ってきたんです」
オーナーが経費で落としていいって言うから、ちょっと買いすぎたかもしれないけど。
「良い匂いですね」と、誠さんはカップを並べてくれた。武士を思わせるような質実剛健さがあって、誠実な佇まい。言葉遣いも常に丁寧で、その巨体から発せられる優しい声音に、救われる依頼人も多い。
私の横に立つ誠さんを見上げた。キッチンは適度な広さがあるのに、誠さんがいると急にちょっと小さくなったように感じる。
「おや、和華子さんも」
誠さんの視線の先、扉から入ってきたのは和華子さんだった。私と誠さんがキッチンにいることに気づいて、「おはようございます!」と、パッと笑顔を向けてくれた。
「ふぅ、今朝はちょっとバタバタしちゃって」
近くのテーブルへ荷物を置くと、和華子さんは息をついた。
「おはようございます。健太郎くんですか?」
「そうなの! 今日も野球の練習があるって分かってるのに、『ベルトが見当たらない』なんて騒ぎ出しちゃって。遅刻しそうになって、グラウンドまで送ってきたの」
彼女は、九歳になる息子さんの育児真っ最中。「もう、何でちゃんと準備しておかないかなぁ」と言いながら、その少しふくよかな体型を椅子に預けた。文句を言いながらも、子供のためにいつも十五時頃には「お先に失礼します!」と元気に帰宅していく。太陽のような明るいエネルギーにあふれた、周囲をパッと明るくさせる包容力のある女性だ。
三人の紅茶を用意しながら、私は二人に声をかけた。
「今日は久しぶりに、惟くんが来ますよ」
「おや、久しぶりですね。学校が始まりましたから、また土日の来られる時だけ、という感じでしょうか」
誠さんが、湯気の立つカップを大きな手で受け取りながら目を細めた。
高校二年生になった惟くん。彼に一人で調査員の仕事を任せることはまだないけれど、シロさんが自分の弟子のように扱って連れ回しているうちに、すっかり相談所に馴染んでいる。隙を見てはここで宿題を広げている彼を、私は弟を見守るような気持ちで見ている。……本当の弟とは、もう何年も連絡を取っていないけれど。
「今日は何か相談の予定、入ってたかな?」
和華子さんの問いに、私は手元のノートパソコンを確認した。
「今日は、午前中は今のところ特に予定なしです。午後は一件相談の予約が入っていますけど、シロさんが言うには『勘違いか思い込みだろう』って」
「シロさんらしいね」
私は全員の予定を頭の中で整理する。慶音さんは先週から東京に行ったきりだし、シロさんも今日は不在で、次会えるのは来週になる予定だ。
「そういえば、関西出張組が今月中に一度帰ってくるって言ってましたけど、結局いつになるんでしょうね」
「長い出張だよね、本人たちが良いなら良いんだけど」
そんな取り留めのない会話を交わしながら、ふと思う。惟くんも、ここ数年でずいぶん相談所に馴染んだ。大人びていて表情は乏しいけれど、根は素直で、手のかからない、いい子だ。
そんなことを考えているうちに、時刻は九時半を回った。
カラン、と控えめなベルの音が響き、扉から惟くんが顔を出した。
「おはよう、惟くん。久しぶ……」
歓迎の言葉をかけようとした私の喉が、不自然に詰まった。
数週間ぶりに見る彼の浮かない表情と顔色には、はっきり『困っています』と書いてあったから。
「……なるほどね。いわゆる『不幸の手紙』かぁ」
一通り惟くんの話を聞き終えて、私はつい、そう言ってしまった。
惟くんが本気で困り果てているのは分かっているけれど、女子高生という生き物は、時として無自覚に残酷なものだ。女子に限らずだけど、高校生や大学生の頃は、自分は絶対に傷つかないという根拠のない無敵感みたいなものがある。多感な時期のくせに、自分たちの輪の外にいる相手の気持ちには驚くほど無頓着で、遊び半分で誰かを追い詰めてしまったりする。……もちろん、やっていいことと悪いことの区別くらい、ついていたはずなのに。自分が学生だった頃の、あのヒリヒリした感覚を思い出す。その三木という子のような陰湿な真似はしなかったけれど、車が来ていないのを見計らって、わざと赤信号を無視して渡るような、小さな「ルール違反」に高揚感を覚えていた記憶がある。
「梨奈さん。懐かしんでいる場合ではありませんよ」
たしなめるような誠さんの落ち着いた声に、私は我に返った。誠さんは組んでいた腕を解き、大きな手で自分の顎をさすりながら、惟くんが語った内容をゆっくりと反芻するように整理し始めた。
「整理しましょう。今、惟くんの学校ではその『呪いの写真』が流行っている。スマートフォンということは、主な拡散元はメッセージアプリでしょうね。送られてきた写真を誰かに転送し、元のデータを削除すれば安全。けれど、誰にも送らずに保持し続けたり、送る前に削除してしまったりすると……呪われる。 ――惟くん、具体的にどう呪われるのか、という話は聞きましたか?」
「どう、呪われる……?」
不意を突かれたような惟くんの問いに、誠さんは穏やかに、けれど論理的なトーンで答えた。
「ええ。本来、呪いとは災いや病、あるいは死をもたらそうとする行為を指します。もしその写真が本物の呪具として機能しているなら、惟くんの周りにも、すでに何らかの被害に遭っている生徒がいるはずです。そうなれば――いえ、だからこそ、『この写真を誰かに送らないと自分が危ない』という噂話に、逃れられないほどの信憑性が宿ってしまう」
誠さんの視線が、鋭さを増す。
「例えば、写真を送らずに消してしまった生徒が、その直後に重い病気で入院したり、家族が大きな事故に遭ったりしたとする。学生ということを考慮すると、そこまで大きな事件でなくても良いのですが……何か不幸があると、本人や周囲の人間は、その不幸を『写真の呪い』と無理やり結びつけてしまうんです。そうして恐怖が増幅され、自分だけは助かろうと、自分以外の誰かにその写真を回す。負の連鎖の完成です」
「……でも、それって偶然じゃ」
「もちろん。多くの場合、ただの偶然が重なったに過ぎません。学生の間なら、ただの悪ふざけや『みんながやっているから』という同調圧力で回しているケースが大半でしょう。それでもこの手の『不幸の手紙』が絶えず拡散し続けるのは、やはり、どこかに『本当に呪われた人』という生贄が存在しているからです」
誠さんの言葉の重みに、室内の温度が少しだけ下がったような気がした。
偶然を必然の呪いに変えてしまう、若者たちの恐怖心と無意識の悪意。惟くんを見つめているという三木さんもまた、その連鎖の犠牲者の一人なのだろうか。
「……すみません。詳しいことは、全然聞いてこなかったです」
ポツリと漏らした惟くんの声は、いつになく弱々しかった。誠さんはすぐに「謝る必要はありませんよ。まずは自分の身を守ることが最優先です」と、大きな手で惟くんの肩を軽く叩いた。その仕草はどこまでも優しい。
そんな二人のやり取りを見ながら、私は胸が締め付けられる思いだった。表情を崩さないように努めてはいるけれど、惟くんは私が思っている以上に余裕がない状態だ。無理もない。まともに喋ったこともないクラスの女子が、夜中に家の外から自分の部屋をじっと見上げているなんて……私だったら怖すぎて、布団をかぶっても一睡もできないと思う。知り合いにすぐ電話して、下手したら警察も呼んじゃうかもしれない。
「具体的な内容は分からなくても、実際にその呪いの写真は見てみたいですね」
誠さんは腕を組み、冷静に言葉を続けた。
「正直なところ、SNSで流行るような呪い……いわゆるミーム化された恐怖の大半は、眉唾物だと考えていいでしょう。ただ、惟くんが実際に目にして違和感を覚え、周囲に霊的な変調と思われることが起きているとなれば、その写真が原因の一端を担っている可能性は否定できません」
誠さんは惟くんの目を真っ直ぐに見据えた。
「写真が手に入り次第、教えてください。でも、決して無理はしないでくださいね」
その日はそれ以上分かることもなく、私たちはいつも通りに過ごすことにした。少なくともこの相談所の中にいれば、不気味な視線に晒されることもないし、いざとなれば頼りになる誠さんもいる。
お昼は誰もいない状態を作らないよう、誠さんが近くの弁当屋まで買い出しに行ってくれた。
昼食時の話題は先週の相談の話や惟くんのボランティア活動についてなど他愛もないことだったが、ふと惟くんが箸を止めて尋ねた。
「……シロさんって、今日は休みですか?」
「うん、東京に出張中。今週いっぱいは帰ってこないかも」
私が答えると、惟くんは「そうですか……」と、力なく呟いた。
やっぱり、こういう時にはシロさんが一番頼りになると思っているんだろうな。少し寂しそうな彼の横顔に、私は心の中で「私たちもいるよ!」とエールを送った。
午後は和華子さんが事前に予約のあった相談者に対応した。話を聞く限り、やはり何らかの思い込みや勘違いの可能性が高い内容だ。「不安な人には、目に見えて安心できるものを与えるのが一番」というシロさんの持論に従い、石巖寺の住職から頂いた厄除けを渡して様子を見ることになった。念のため、来週の平日に誠さんが一日同行することで話はまとまった。
惟くんはその間、時折誠さんに気遣われながら、持ってきていた宿題を黙々とこなしていた。相談所にいる間は、あの嫌な視線を感じることもないそうだ。
夕方になり、片付けを終えて帰宅する時間になった。
「何かあったら、すぐに連絡してください。夜中でも構いませんから」
誠さんの心強い言葉に見送られ、惟くんは少しだけ表情を和らげて相談所を後にした。




