4-3. 川面に揺れる名前
翌日、週の真ん中の水曜日。
担任の口から告げられたのは、三木さんが今日も休みだということだった。
体調不良による欠席。「暖かい日と寒い日が交互に続くから、皆体調には気をつけろよー」と担任からの言葉があって、それで終わり。
……昨日梅の木の下にいたのは、三木さんじゃなかったのか。
よく似ていると思ったけど、正直あのくらいの髪の長さの女子はたくさんいる。見間違えてもおかしくはない。今思えば、三木さんだと決めつけたことのほうがどうかしている気がした。
……気にしすぎだ。学校生活で特定の人物と関わる機会がほとんどなかったから、変に印象に残ってしまっているだけだろう。
授業中はいつも、それなりに退屈だ。
黒板に書かれる内容は毎日変わるのに、変わり映えのしない光景だと思ってしまう。
勉強は特別好きではない。でも嫌いではない、と思えたのはバイトするようになってからだ。
異浦なんでも相談所。そこで働いている若い所員たちは俺にとって、もし兄や姉がいたらこんな感じなのかなと思わせてくれる存在だから。
梨奈さんはいつも事務所にいるから、一番顔を合わせる人だ。宿題を手伝ってはくれないけど、よく話をすることが多い。荒屋敷さんと佐久間さんは、手が空いているとき勉強を見てくれる。忙しい二人だから最近は会っていないけど、聡明で優しい人たちだ。
シロさんは――シロさんは若くないか、若く見えるだけだ。
俺の中で、シロさんは兄や父という感じではない。どういう存在なんだと言われたら、家族に近い知り合い? 父と母の先輩で、祖父とも親しくしていたらしいから。
主に相談所絡みだけど、よく俺を連れ出して、仕事を見せてくれる。無理やり付き合わされることもあるけど、色々教えてくれたり、くれなかったりする。
だから、先生と生徒の関係が近いのかな。
改めて考えると、俺とシロさんの関係性の説明は難しいな。ぴったりくる言葉がない気がする。
説明が難しいと言えば、あの人の状況そのものの説明がややこしいというか……いや、俺はそもそもあの人がどうして歳を取らなくなったのか、具体的な経緯は知らないんだった。
いつも飄々と煙に巻くように、欲しい答えをくれたりくれなかったりする。脳裏に浮かぶのは、いつも楽しそうに、でも思慮深いシロさんの姿だった。
シロさんだけじゃない。あそこで働いている人たちのことも、知っているようで知らないことのほうが多い。どうしてあそこで働いているのか、いつから色々なもの――人間じゃないものが見えているのか。見える人もそうだけど、梨奈さんや和華子さんのようにほとんど見えないのに働いている人のほうが、ある意味不思議かもしれない。
新学期が始まってからは、週末たまに行くくらいだったから、最近は行く頻度が少なくなっていた。
今週末、顔を出した時に聞いてみようか。
昼休み、俺は借りていた本を返しに図書室へと向かった。現代社会のレポートで使うために借りていた、堅苦しいタイトルの新書だ。読んだのは最後のほうにある解説だけで、本文はパラパラと流し見するだけだった。
返却期限を一日過ぎていたことを思い出し、少しだけ足早になる。
図書室は休み時間の喧騒が届かないほど、静かに時が流れていた。司書は席を外しているらしく、受付には二人の図書委員が座り、声を潜めて楽しげにおしゃべりをしている。
「返却、お願いします」
本を差し出すと、図書委員の一人が「はい、預かります」と短い返事をして処理を進めた。
無事に返却を終えた後、まだ時間が余っていた俺はなんとなく室内を見て回ることにした。梅高の図書室は教室三つ分程度の広さで、蔵書はさほど多くないイメージだ。
換気のために十センチほど開けられた窓で、薄い黄色のカーテンが微かに揺れている。
数人の生徒がテーブルで読書や自習をしていた。黙々とペンを動かしている様子は、一度覗いたことのある自習室とは違った。案外、おしゃべりに興じる連中で騒がしかった自習室より、勉強をするならこっちの方が捗るのかもしれないな。
背の高い木製の書架が並んでいる。棚の一つ一つには、くたびれた本や色あせた本が並ぶ。それを眺めながら、小さな迷路のような空間を、ゆっくりと通り過ぎていく。
その時だった。
本棚と本棚の間――人が擦れ違える程度の狭い通路に、女子生徒が一人立っているのが視界の端に滲んだ。
つい、そちらへ視線だけ向けてしまう。その瞬間、俺の心臓は氷を押し当てられたようにキュッと冷たくなった。足元がすくみそうになったが、歩きを止めなかったのは、これまでの経験による懸命な判断だったと言えるだろう。
女子生徒は本を手に取ることもしないで、通路側を向いて立ち、ただこちらをじっと見つめていた。無表情。焦点の合わないような、けれど確実に俺を捉えている瞳。
目が合った。
俺はすぐに視線を逸らしたが、その一瞬で分かってしまった。
――三木さんだ。
動揺を押し殺し、俺は冷静を装って歩みを続けた。
背中を伝う冷や汗を無視して、なるべく他の生徒がいる窓際のテーブルの方へと回り込む。生徒たちの背中を確認しながら、遠回りをして出口へと急いだ。
幽霊じゃない、と思う。というか生きているクラスメイトだ。けれど、彼女が立っていたあの本棚の間だけ、不自然に影が濃く、空気が淀んでいた気がした。
……なんで、三木さんがいるんだ?
朝、彼女は確かに欠席と告げられていたはずだ。昨日授業中に梅の木の下で見た姿も、やはり見間違いではなかったのだろうか。保健室にでもいたのか、それとも今さっき登校してきたのか?
無表情で、彫刻のように動かず俺を見ていた彼女の姿。その光景を思い出すだけで、指先からじわじわと冷たい恐怖が浸食してくる。
俺は一度も振り返らずに、逃げるように図書室を後にした。
その日は午後の授業中、休み時間のふとした瞬間にも誰かに見られているような、じっとりとした視線を感じた。
……視界の端に映っているのが、女子生徒のシルエットな気がすることもあった。
けれど、俺は気づかないふりを決め込み、ただ黒板の文字をノートに写してやり過ごした。
たまにあることだ。今までだって、わけの分からないものがじっとこちらを見つめてくることもあっただろう。……そう、珍しいことじゃない。
「……ただいま」
玄関の扉を開け、家の中に滑り込む。
鍵を閉めた瞬間、肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。廊下の隅では、いつものように小さな異形たちが数体、無意味にうろうろしている。得体の知れない存在であることに変わりはないが、今日付きまとっていた重たい視線に比べれば、無害だと分かっている分、いくらかマシに思えた。
「おかえり、惟。今日は早かったね」
台所から顔を出した母の声に迎えられ、俺はようやく日常の温度を取り戻した。といっても、もう一日の大半が終わった気もするけど。
なんとなく一人になりたくなくて、居間にいた祖母のそばで一緒にテレビを見た。夕方、祖母は大体相撲中継を見ている。終わって夕食の準備が始まってから、一度自室に戻った。
いつも通りに母と祖母と夕食を囲み、自室で宿題を広げ、風呂に入って、また自室に戻る。家の中に入ってからは、あの不快な視線を感じることはなかった。
……やっぱり、気にしすぎだったのか。
ベッドに腰掛けると、ぎっ、とスプリングが立てた音が室内に小さく響いた。
昨日、三木さんとの間に気まずい出来事があったから、過敏になっているだけだ。彼女はもしかしたら保健室登校をしていて、昼休みに図書室へ寄っただけ。もしくは完全に見間違いで、彼女によく似た生徒がいただけ。あの図書室の一角に、たまたま澱んだ空気が溜まっていただけなのかもしれない。
それを俺が勝手に、さも俺が狙われているかのように結びつけて怯えているだけじゃないのか。俺には関係のないことだ。そう、何の関係もない。
そう自分を納得させ、ふと机の時計に目をやると、時刻は二十二時を過ぎていた。これ以上考えたところで答えは出ない。重くなった頭を振って、俺は寝る支度を始めた。
ふと、カーテンの隙間が数センチほど開いているのに気づく。寝る前にしっかり閉めておこうと、窓の前に立った。
外はもう、深い闇に包まれている。庭の暗がりに、ふと視線を落とした瞬間――俺の思考は、文字通り凍りついた。
二階にある俺の部屋の窓を、まっすぐに見上げている人間がいた。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。全身の毛穴から、一気に嫌な汗が噴き出した。
「――っ!」
俺は半ばパニックになりながら、シャッと音を立ててカーテンを引き絞った。薄い布一枚で隔てられた外の世界を想像し、バクバクと早鐘を打つ心臓を必死に手で押さえる。
見間違いじゃない。
三木さんが、そこにいた。
あの図書室で見た時と同じ、何の感情も宿っていない無表情な白い顔で。彼女は暗闇の中から、じっと、俺のことだけを見上げていた。……瞬き一つ、していなかった。




