4-2. 川面に揺れる名前
湿り気を帯びた川風が、頬を撫でた。
俺の住む宮城県石森市には、旧北神川という大きな川が流れている。
岩手県を源流とする東北最大の一級河川・北神川が宮城県内で分流し、旧北神川と名を変える。中心市街地を通り、石巖寺のある日鳥山の麓を抜けて、石森湾から海へと流れていくのだ。
放課後、俺が向かったのは、この旧北神川にかかる橋だった。
旧北神川沿いを清掃して歩くという、ボランティア活動の集合場所。俺のような部活動に所属していない生徒が、四月から五月末までの約二ヶ月間、週に一度、放課後に参加を義務付けられた。
……去年はなかったのに、今年から始まった。
集合場所に集まったのは、大人と生徒がちょうど半々で合わせて十人程度だった。
絶対サボる生徒もいるだろと思ったけど、もしかしたら帰宅部は思っていたより少ないのかもしれない。
「夏の本番に向けて、今のうちから川を綺麗にしておきたいと思っています。何か分からないことがあれば聞いてください」
そう言って、一人の男性が「よろしくお願いします」と頭を下げる。
佐々本と名乗った彼は、俺の通う高校のOBだそうだ。佐々本さんたち有志グループは、県の河川敷の清掃や美化を行う団体に登録している。石森市で夏に行われる花火大会へ向けて定期的に活動を始めているらしく、その一環として四月からの清掃に俺たちも参加することになった。
「よろしくお願いします」と口の中で返事をして、ゴミ袋と軍手を受け取った。
流れる川を左手に見ながら、堤防沿いをゆっくりと歩きだす。制服の上にコートを着ていて良かった。軍手のおかげで、手の先もそれほど冷たくはない。
東日本大震災以降に川沿いは整備され、もう十年以上経つ。でもコンクリートの遊歩道は、比較的新しく見えた。
川面は太陽が反射して光っているけど、お世辞にも綺麗な川だとは思えなかった。濁った深緑色が波打っている。
たまに犬の散歩をしている人や、ランニングをしている人とすれ違いながら、ゴミを拾う。
歩きながら、脳内に反芻されるのは今日の出来事。
『マジか、じゃあ送れないじゃん……もういいよ!』
――口を尖らせて、不貞腐れた表情。
『だって仲良い子に送るわけにいかないじゃん。どうなってもいい奴に送らないと』
――俺と目が合って、気まずそうに目を伏せた。
……俺に、何か変なものでも送ろうとしていたのか。
携帯には送れない、スマホではやりとりができるもの?
はぁ、と深いため息が漏れる。
どうでもいい奴。俺にとって、彼女だってそうだ。だからそう思われてても、そうだろうなとしか言えない。
ただ、理不尽に変なことに巻き込まないでくれよ、とは思ってもいいだろう。
彼女の態度を見るに、もう話しかけてくることはなさそうだけど。……でも、なんか嫌な感じだ。
「寒くないか?」
ふいに声をかけられた。顔を向けると、隣にさっき挨拶をしていた佐々本さんがいた。
「四月はまだ川風が冷たいからな。使い捨てのカイロを持ってるから、寒かったら遠慮無く言ってくれ」
「あ、はい。…ありがとうございます」
礼を言うと、佐々本さんのキリっとした目元が柔らかく下がった。短く整えられた黒髪に、紺色のマウンテンパーカー。適度に引き締まった体つきとしっかりした足取りは、運動不足とは無縁そうだ。
佐々本さんは、俺の隣を並んで歩いた。
「たしか二年生だよな」
「はい、二年の藤見です」
橋に集合したとき、軽く自己紹介をした。生徒側で二年の男子は俺だけだった。
「高松先生っているだろ? 俺が梅高にいたときの担任だったんだ。去年たまたま会ったときに話をしてて、この活動を生徒にも手伝ってもらえたらってダメ元で言ってみたんだ」
そう言って、佐々本さんは軽く笑う。
県立梅森高等学校、通称『梅高』。佐々本さんの年齢は三十代前半くらいだろうか。十年以上前も、やっぱり呼び方は梅高なんだな。
その後もゴミを拾いながら、彼と話をした。
佐々本さんは、大学は県外に出ていたけど、地元で就職するべく戻ってきた。
普段は社会人として市内で働きながら、こうやって活動している。
体を動かすのが好きで、この遊歩道もジョギングのコースに入っている。
「声かけといてなんだけど、藤見くん部活入ってないの、なんだかもったいない気がするなぁ。背高いし、運動部から誘われなかった?」
「まぁ、少し。……でもあまり興味がなくて」
俺がそれ以上話す気がないことが分かったのか、「そっか」と、佐々本さんはしつこく聞いてくることはなかった。
「俺は剣道部だったんだよ。中学からずっとやってて。でも俺が入学した頃は、共学になってまだ数年だったから男子剣道部って無くてさ。友達に声かけて、部員は最初3人だけで始まったんだ」
「そうだったんですね」
梅高が元は女子高で、二〇〇〇年に入ってから共学になったことは知っている。母が通っていた当時はまだ女子高だったらしいから。でも今じゃ当たり前に共学高校だから、あまり実感はない。
佐々本さんが通っていた当時は、今とはまた違ったのかな。
「青道館はまだあるよな? あそこで、年中裸足で活動してた。冬は本っ当に寒くてさ」
佐々本さんはわざとらしく寒さに震えるそぶりを見せた。
話をしていて嫌じゃない、心地よい距離感。有志グループでもリーダーのようだったし、人をまとめたりするのが得意なタイプのようだ。
川べりの冷たい風の中でも、彼からは日向のようなエネルギーが放たれているような気がする。
「青道館はまだありますけど、俺は入ったことがないんです」
「そうか。古い建物だから、特に見どころはないけど……」
佐々本さんが屈んで、落ちていたペットボトルを拾う。
「あっ」と何かを思い出すように呟いて、体を起こしながら、ペットボトルを潰して持っていたゴミ袋に入れた。
「青道館の横にケヤキの木が立ってるだろ。あそこの木の下で告白すると成功する、ってジンクスがあったんだ。俺の友達も、そこで告白されて付き合ってたよ。聞いたことある?」
「……いや、ちょっと聞いたことないです」
つい一時間ほど前に見た、ぼやけた人の形をした黒い影が脳裏をよぎる。
……あんなところで告白して、上手くいくだろうか。
・
翌朝、教室で行われたショートホームルーム。
担任は普段から点呼はせず、教室内を見渡して生徒の出欠確認をする。遅刻か欠席か、連絡もなく空になっている席があれば、何か聞いている者はいるかと確認するスタイルだ。
俺がいる窓際の後ろからは、教室全体が大体見渡せる。真ん中のほうに、ぽっかりと空いた席が一つ――昨日の彼女の席だった。
「そこの席は……ミキか。ミキアヤカ、誰か何か聞いてるかー?」
担任が教室を見渡すと、友達らしい女子が「昨日帰りに具合悪そうにしてました」と、心配を滲ませた声をあげた。
他の生徒からは特に反応はないことを確認すると、担任は「そうか、ありがとな。先生も連絡してみるから」と返して、クラス全体への連絡事項へと話を切り替えた。
ミキアヤカ。
昨日の彼女だ。放課後はあんなに元気に友達と笑いながら歩いていたのに。
担任の話が終わるまでの間、座席の空白が妙に不自然な重みを持って視界に居座った。
一限目の授業中、手元の教科書や黒板の内容よりも、脳裏を占めていたのは昨日の川掃除のことだった。
あの辺を歩いたのは初めてじゃないはずだけど、いつだったのか思い出せないくらい遠い記憶だ。別に思い入れのある場所でもない。
昨日歩いてみて、パッと見は綺麗な遊歩道だと思ったのに、草むらの中をかき分ければペットボトルやコンビニの白いビニール袋、壊れた傘も見つけた。
今までこの町を「ゴミ一つ落ちていない綺麗な町」だなんて思ったことはない。でもかき分けると現れるゴミに、ショックというよりも、ある意味で新鮮な驚きだった。
別にボランティア精神に目覚めたわけじゃないけど、拾い終えた後のゴミ袋の重みは不思議と嫌な感じではなかった。
『放課後の手伝いだけでも十分助かるけど、土日も活動してるから。気が向いたら参加してくれると嬉しい』
別れ際、佐々本さんがかけてくれた言葉を思い出す。
あの人の屈託のない笑顔や、日差しに包まれるような安心感。あの人はたぶん、俺と違って、人間じゃないものを寄せつけにくい人だ。
たまにいる、無自覚に生命力に満ちた人。和華子さんもそうだけど、無意識に幽霊や怪異のような仄暗いものを避けるし、逆も然り。
除霊できるとか、そういう強い力を持ってるわけじゃないけど、被害を被りにくい人。
あの広い河川敷でほとんど遭遇しなかったのは、強い川風で色んなものが吹き飛ばされているだけでなく、彼が隣にいたおかげのような気がした。
カツカツと黒板の上をチョークが滑る音をBGMに、ふと窓の外を見上げた。
昨日の晴天が嘘のように、厚い雲が空を覆い始めている。天気予報では降水確率五〇パーセント。いや六〇パーセントだったかな。薄灰色の雲行きは、東北の春の気まぐれさを象徴しているようだ。
――雨が降ったら、あの梅も完全に散ってしまうかな。
校庭の隅に並ぶ梅の木へと視線をやる。少し残った白い花びらが風に耐えるように揺れている。
その光景を眺める俺の視線は、ある一点で止まった。
……何番目かの梅の木の下に、誰かが立っている。
肩にかかるくらいの黒い髪、紺色のブレザー、制服のスカートが風に煽られ、細い脚が覗いている。女子生徒だ。
今は授業中、校庭を見渡しても、体育の授業をしているクラスはない。
何をやってるんだ、あんなところで……。
少しだけ、目を凝らした。二階の教室からでは距離がある。けれど、その生徒がこちら――俺の座る窓際の席をじっと見上げていることに気づいた。微動だにしていない生徒の、表情までは読み取れない。でも立ち姿に見覚えがあった。
ミキ、さん……?
思わず、彼女の名前が喉元まで出かかった。昨日、俺の前に立って声をかけてきたミキさんの姿に、あまりにもよく似ている。顔はよく見えないけど――
「――藤見。――藤見! どこ見てるんだ」
目を凝らそうとしたとき、不意に投げかけられた低い声に思いきり肩が跳ねた。
声のほうへ振り向けば、教壇に立つ教師の呆れたような視線が俺を射抜いている。クラスメイトたちの視線が、一斉に俺に突き刺さった。
「窓の外に何があるのか知らないが、今は授業中だぞ。……ほら、三十二ページの五行目から読んでみろ」
自分でも気づかないうちに、俺は窓の方へ少し身を乗り出していたらしい。
慌てて姿勢を戻し、視線を教科書に落として、上擦りそうになる声を抑えて文章をなぞった。活字が目に滑り込み、意味をなさないまま口から溢れていく。
「そこまででいい」と教師のストップがかかり、椅子に座った瞬間、俺はそっと、もう一度だけ外を見た。
そこには誰もいなかった。
一本目から八本目まで全て、梅の木の下には、ただ湿った風が吹き抜けているだけだった。
見間違いだとは思えなかった。
遠目だったが、はっきりとした輪郭に、足元に落ちていた影。曇りで、全体的な色彩が薄暗くぼんやりしていたとはいえ――少なくとも、俺が今まで見てきた幽霊の類ではない、はず。
……遅刻してきただけか?
自分に言い聞かせるように、机の下で拳を握った。けれど、背筋をゆっくり撫でるような薄ら寒い感覚は、その授業が終わる頃まで消えてくれなかった。
そのあとの授業で、彼女の名前――音だけでなく、字を知った。
極力生徒と話をしないことで有名な世界史の担当教師は、通知事項があると内容を紙で黒板に貼り出す。「確認しておきなさい」と抑揚のない声で告げられたのは提出物未提出、とタイトルされた余白の多いプリントだった。
数名並んだ生徒の中に、彼女の名前があった。
三木綾花。
なんか女の子っぽい名前だ、と当たり前の感想が浮かぶ。昨日話しかけられなければ、一度も意識することはなかっただろうな。
未提出生徒の中に一応自分の名前がないことを確認して、席に戻ろうとしたとき、ふと視線を感じた。目が合ったのは、クラスメイトの女子。肩につかないくらいの少し茶色がかった髪、平行な眉が短い前髪からのぞいている。その眉がほんの少し下がり、「あ」と小さく口を開いたが、それも一瞬のことで、ふいと目を逸らされてしまった。
席に戻り、誰だっけ、とさっきの女子の後ろ姿を眺めながら考える。背は女子にしては高いのか、隣に座る子より少しだけ座高が高い。でも肩を丸めているような、居心地悪そうに座っているように見えた。
――そうだ、たしかあの子は三木さんの友達だったはずだ。
教室で三木さんが俺に話しかけてきたあとに一緒にいて、放課後の部室棟前で会ったときも三木さんといた。今朝、担任に三木さんの具合について報告したのも、彼女だった気がする。
俺と目が合ったとき、何か言いたそうな表情に見えたけど。
……まだ何かあるのか。まさか休んでる理由が俺のせいとか言わないよな。
面倒臭さと不安で、感情が揺れるのがわかった。でも、そもそも俺は何もしてないんだから、と悶々とする感情を、自意識過剰だと言い聞かせて無理やり飲み込んだ。
その日は結局、三木さんが教室に顔を見せることはなかった。




