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2-15. 消えた桐箱


 重苦しい沈黙が支配する茶の間に、大人たちが集められていた。

 シロさんが「桐箱に関する、極めて重要な話がある」と、和孝かずゆきさんに大人たちを集めてもらうようお願いしたのだ。

 夏美なつみちゃんと春斗はるとくんはもちろん、朱里さんと、兄である博之ひろゆきさんの出席は断った。最初(ひろし)さんは「子供に聞かせられないような話でもするのか」とせせら笑うように抗議してきたが、シロさんの静かな、けれど拒絶を許さない視線に押されるようにして渋々従った。

 これからする話――きっと自分の親がしたことを知らない、博之さんと朱里あかりさんへの配慮だ。朱里さんは、俺に「私も聞きたい! 私が話したから、色々分かったんでしょ!」と食い下がってきたけど、遠慮してもらった。

「……あとで、教えてね」

「……うん」

 寂しそうな表情に頷いてしまったけど、どこまで話せるんだろう。


 朱里さんと博之さんの去った今、この広い居間にいるのは、和孝さんと佑香ゆうかさん、顔色の悪い和幸さんとその隣で微笑みを浮かべるサキさん。そして、苛立ちを隠そうともしない博さんと梓さんの夫婦。あと俺とシロさん。

 和孝さんは、何かを期待するように膝の上で手を握りしめている。一方、佑香さんは何が始まるのかと不安げに俺たちの様子を窺っていた。和幸さんは……昼間見たよりもさらに顔色が悪く見える。落ち窪んだ目で、じとりと俺とシロさんを睨みつけていた。サキさんは、和美さんや子供たちがいないせいか、初日に見た時と同じ、貼り付いたような笑みを浮かべている。

 そして博さんと梓さんは、腕を組んで不機嫌そうに鼻を鳴らした。二人とも、「一体何を勿体ぶっているんだ」というような不信感を隠そうともしていない。

 全員に囲まれるようローテーブルの上には、湯気を立てる湯呑みが人数分並んでいる。さっき俺が朱里さんと話している間に、シロさんが佑香さんと用意していた。けれど、誰も手をつけようとはしなかった。

「お忙しい中、集まっていただきありがとうございます」

 シロさんが口を開いた。

「さて、お集まりいただいたのは――」

「前置きはいい。さっさと話せ」

 シロさんの言葉を遮るように、博さんが苛立たしげに声を荒らげた。

「例の桐箱のことなんだろう? 見つかったのか? それとも、もう無いなんて言うつもりじゃないだろうな」

「ええ。ですがその前に、皆さんに見ていただきたいものがあります」

 シロさんは落ち着き払った動作で、足元に隠していたビニール袋を持ち上げた。それは、この家の床下から見つけた、あの白い紙箱だった。

「……っ!」

 その瞬間、博さんと梓さんの顔色が一変した。二人はぎょっとしたように目を見開き、狼狽えた様子で辺りを見渡した。けれど、隣に座る和孝さんや佑香さんが「それは何?」と言いたげに首を傾げているのを見て、まだバレていないと思い直したのか、必死に表情を取り繕った。

「これは『狐狸こりはこ』と言います」

 シロさんの声が、静まり返った室内に凛と響く。

「狐狸、つまり狐や狸、あるいは狢といった、人間に害を与える妖怪を閉じ込め、育てるための箱です。これを人知れず他人の家に放り込むと、中で負の思念を餌にした妖怪が育ち、その家の人間には次々と不幸が降りかかる。……呪い、あるいは災いの種と言ってもいいでしょう」

「……呪い?」

 和孝さんが、呆気に取られたように呟いた。隣の佑香さんも、シロさんが急に何を言い出したのか理解できないという顔で、俺たちを交互に見ている。幽霊や呪いなんて信じていない、普通の人間の反応だ。

 博さんと梓さんは、拳を握りしめたまま押し黙っている。犯人が自分たちだと名指しされたわけではない。けれど、自分たちが嫌がらせとして置いたものが、白日の下に晒されたことへの焦りと屈辱が、その横顔から滲み出ていた。

 ふと、サキさんに目を向けた。 初日に見たような、あの作り物のような微笑みは、もうどこにもなかった。彼女の顔からは一切の感情が消え、まるで能面のように、虚無的な表情で箱を見つめていた。

孝蔵こうぞうさんの具合がみるみる悪くなっていったのも、実は狐の妖怪のせいなんです」

 シロさんの言葉が、静まり返った居間に突き刺さった。和孝さんと佑香さんは、まるで理解できない言語を聞かされたかのように呆然としている。

「今まで、感じたことはありませんでしたか? 空気が淀んでいるような気がする。誰もいない場所から物音がする。電気が勝手に消える、物がいつの間にか無くなっている――どれもこれも、気のせいなんかじゃない」

 畳みかけるシロさんの言葉。和孝さんは「いや、でも……」と力なく首を振ったが、佑香さんは何か心当たりがあるのか、震える両手で口を覆った。

「現に今も、深刻な影響を受けている人がいるでしょう」

 シロさんの鋭い視線が、和幸さんを射抜いた。和幸さんは昨日よりもさらに頬がこけ、目の下の隈が黒々と浮き出ている。その姿は、生きている人間というより、何かに生気を吸い取られている抜け殻のようだった。

「何だよ……。俺が、何か問題でもあるって言うのか!」

 和幸さんが掠れた声で食って掛かる。だが、シロさんは微動だにせず、彼の隣に座る女性を見据えた。

「問題があるのは、お隣の女性ですね。……いえ、女性とは呼べないか。人間じゃないんだから」

 その場の全員が息を呑んだ。

 シロさんの見据える先――サキさんは、能面になっていた表情を、また貼り付いたような微笑へ戻していた。

「……私が、人間じゃない?」

 サキさんはゆっくりとした口調で、落ち着きを装って応えた。だが、膝の上で握り込まれた指先が、白くなるほど強く震えていた。

「何を言っているのか、さっぱり。ねえ、和幸さんもそう思うわよね?」

 しなだれかかるように和幸さんの腕に触れる彼女に、シロさんは冷徹に言い放つ。

「そろそろ正体を現したらどうだ? それとも、ここで徹底的に祓われたいか」

 シロさんの言葉に、サキさんの瞳から光が消えたように見えた。

 じっとシロさんを睨みつけながら、彼女は喉を鳴らすように、ごくりと生唾を飲み込む。

「……喉が渇いているなら、お茶をどうぞ。あ、それとも、狐は猫舌だったかな?」

「よく、その赤い模様の入った湯呑を使っていたそうじゃないか」と、ちょうど彼女の前に置いてある湯呑を指差した。少し濁って見える透明な黄緑色は、もう湯気を立ててはいない。

「……だから! 私は狐でも妖怪でもないって言ってるでしょう!」

 サキさんの顔が、怒りで険しく歪む。彼女はシロさんの挑発に乗るように、湯呑みを掴み、一気にそのお茶を啜った。

 次の瞬間――。

『ギャァァァッ!!!』

 人間のものではない、耳を裂くような悲鳴が響き渡った。

 サキさんは喉を掻きむしり、畳の上に転がり落ちてのたうち回る。その白かった皮膚から、異様な速さで硬い茶色の毛が噴き出し、顔が、四肢が、見る間に獣の形へと変貌していく。

「う、うわああああ!」

「何だ、これは……!」

 和孝さんと佑香さん、そして博さん夫婦は、悲鳴を上げて部屋の隅へと逃げ惑う。和幸さんは驚愕しながらも、目の前で化け物へと変わっていく恋人に手を伸ばそうとし、そのあまりの異様さに手を引っ込める。

 俺も、あまりの光景に息が止まった。一歩、また一歩と、無意識に後ずさる。対照的に、シロさんだけは冷めた目で、床で暴れるサキさん――だった妖怪を見下ろしていた。

 完全に狐の姿となったサキさんは、口から白い泡を吹きながら、四本足でふらつきながら立ち上がる。そして、縁側の障子を突き破らんばかりの勢いで飛び出すと、夕闇へと溶けるように消えていった。

 居間には、ひっくり返った湯呑みと、獣の残り香。そして、言葉を失った大人たちの荒い呼吸だけが残された。

「あれが、この家に入り込んでいた妖怪の正体です」

 シロさんの静かな声が、凍りついた居間に響いた。和幸さんは腰を抜かしたまま、サキさん――野狐が消えた縁側を呆然と見つめている。恋人だと思っていた女性が、あんな風に獣の姿になってのたうち回ったんだ。無理もない。

 俺自身、妖怪を見るのは初めてじゃないけれど、あんな風に目の前で変貌されるのは流石に心臓に悪い。

 俺は、隣に立つシロさんに耳打ちした。

「……お茶の中に何入れてたんですか?」

「殺鼠剤だよ」

「えっ……」

 俺の前に置かれた湯呑みを思わず見つめる。シロさんは俺の顔を見て、いたずらが成功した子供のように少しだけ口角を上げた。

「あれにしか入れてないから、安心していい」

 さて、と。シロさんは少し大きな声を出して、混乱の中にいる大人たちの意識を自分へと向けさせた。

「心当たり、ありますよね。博さん」

 名前を呼ばれた博さんは、「なっ、何の話だ」としらばっくれたが、その声にさっきまでの勢いはない。目の前で起きた現象に、全身から嫌な脂汗を流している。

 シロさんは、透明なビニール袋に入れたままの狐狸の箱を、博さんの目の前に掲げた。

「しらばっくれても、良いことはありませんよ。指紋というものは、紙や木であれば数年から数十年も残る。ここにあなたの指紋が残っていたら……どうなるか、言わなくても分かりますよね?」

 シロさんは鋭い視線で、博さんをじっと見つめる。

「警察にはちょっとしたツテがあるんです。すぐにでも調べてもらいましょうか」

 博さんはぐっと唇を噛んだ。額には大粒の汗が浮かび、梓さんと何度も視線を交わし合う。

 やがて、逃げ場がないことを悟ったのか、ガクリと項垂れた。

「……あれは、たまたま貰ったんだ」

 博さんは苦虫を噛み潰したような表情で、ぽつぽつと語り始めた。

 約二年ほど前。

 夜遅い時間に、行きつけの居酒屋で愚痴をこぼしていたのだという。

「あの日も居酒屋で……この家のことを話していた。親父がよく言ってたんだ、孝蔵おじさんが成功してるのは幸運の守り神のおかげだって。桐箱の中身の手に入れてから成功続きだったからな。それを持ってたら、うちだってもっと金持ちになれた。……だから愚痴をな、少し……」

 博さんは言いにくそうにしながら、顔に脂汗を大量に浮かべていた。

「かなり飲んでいたから、居酒屋で知り合った相手と話し込んでいて……そいつが、それをくれたんだ。……憎い相手の家に置いておけば、不幸が訪れる、俺にとってはラッキーアイテムだって。やるから、良かったら使ってみてくれって。俺はそいつに唆されたんだよ。だから、その日の帰り、気づいたらこの家に来ていた。夜遅くだったから、もう辺りも暗くて、家の電気もついてなかった。俺は……これを置いて、帰った」

 自分は悪くないとでも言うような、ところどころに保身の言い訳が混ざるような説明だった。

「そんな……っ!」

 和孝さんの声には、驚愕と、深い軽蔑が混じっていた。

「試しにやってみよう、くらいの気持ちだったんだ! まさかあんな……」

 さきほどの野狐の様子を思い出したのか、顔色をますます悪くすると、ブルブルと振り払うように頭を振った。

「あんなものがいるなんて……知らなかったんだよ!」

 博さんは脂汗まみれの顔を上げ、必死に無実を訴えるように叫んだ。

「その箱をくれたのは、どんな奴でした?」

 シロさんの問いに、博さんは「覚えてない! 酔ってたんだ!」と激しく頭を振る。

「……タダでくれたんですか?」

「え……?」

「そんな曰く付きのもの、見ず知らずの男がタダでくれたんですか」

 博さんは口をパクパクとさせて絶句した。シロさんは、憐れむような冷ややかな目で彼を見下ろす。

「そんな都合の良い話は、この世にはない。あなたはきっと、何か対価を差し出している。自分でも気づかないうちに、大切なものを失っているかもしれませんね」

 その言葉に、博さんは呆然と座り込み、梓さんも顔を青くして震え始めた。

 シロさんは和孝さんの方に向き直った。その声からは先ほどの冷徹さが消え、少しだけ柔らかい響きが含まれている。

「……警察に行ったところで、彼を裁くのは難しいでしょう。住居侵入といっても、普段から出入りしている親族では取り合ってもらえない。まして呪術なんて……どうするか、気持ちの落としどころはあなたたちで決めてください」

 和孝さんと佑香さんは、顔を見合わせた。

 やがて、和孝さんは重苦しい溜息をつくと、絞り出すように言った。

「分かりました。……二人で、考えます」

 シロさんは、満足したように、静かに頷いた。

「さて。肝心の桐箱ですが」

 シロさんはそう言うと、俺の足元に隠すように置いていた、箱を手に取った。

 シルバーや宇宙柄の折り紙がベタベタと貼られた、一見すると不格好な子供の工作箱。ゲームソフトを入れてる、お姉ちゃんが作ってくれた、と春斗くんが嬉しそうに教えてくれた箱だ。

 和孝さんはそれを見て、怪訝そうに眉を寄せた。

「それは……たしか、春斗の……」

「そうです。これこそが、皆さんが血眼になっていた桐箱だったんですよ」

 シロさんは微笑みながら、表面の折り紙を一枚、ぺりぺりと剥がした。

「あ、ちゃんと子供たちには許可を取っていますからね」

 糊が強力だったのか完全には綺麗にならなかったが、剥がれた隙間から現れたのは、薄いベージュの細かい木目。紛れもない桐の木目だった。

「そんな……。でも、何でそれが、春斗のところに」

 絶句する和孝さんに、シロさんは穏やかに語り始めた。

「孝蔵さん――おじいちゃんから直接貰ったそうですよ。亡くなるほんの数日前、寝室で一緒に遊んでいた時に、春斗くんが『ゲームソフトを入れる箱が欲しい』と言った。それを聞いた孝蔵さんは、この桐箱を差し出したんです。『良かったら、これを使いなさい』とね」

 シロさんの口角が、どこか誇らしげに上がる。

「サイズがちょうど良かったので、すぐに夏美ちゃんが得意の折り紙でデコレーションしてくれたそうです。……無骨な桐箱が、孫たちの手で賑やかになっていくのを、孝蔵さんはどんな気持ちで眺めていたんでしょうね」

「そんな……てっきり、いらなくなった箱でも使ってるのかと……」

 佑香さんと一度視線を合わせた和孝さんは、ハッとしたように、「な、中身は……? 中身はどうなったんですか」と縋るように問いかけた。博さんや梓さんも、一気に老け込んだような顔をしながら、それでも中身の行方に固唾を呑んでいる。

「中身は、これです」

 俺は持っていた、あのお守りを皆の前に差し出した。

「は……?」

 和孝さんは呆気に取られ、博さん夫婦も「はぁ?」と間抜けた声を漏らした。夏美ちゃんの机に置かれていた、使い古された地味な色合いのお守り。そこには『縁結び守』という文字が、刺繍で刻まれている。

 シロさんが黙って俺を促した。俺は、さっき子供部屋で確信した事実を口にする。

「これは……孝蔵さんが、亡くなった奥さんから貰ったもののようです。ずっと、大切に持っていたお守りなんです」

「でも、父さんはあれを幸運の守り神だと言って、持っているから成功できたんだって……」

 和孝さんは困惑しながらも、言いながら自分でも気づき始めているようだった。

「武田先生に話を伺ったとき、孝蔵さんは照れくさそうに、『これを見ると頑張れるんだ』『力が湧いてくるんだ』と言っていたそうですね」

 シロさんが静かに言葉を重ねる。

「……失礼ながら、お守りの中も確認させていただきました。内容は伏せますが、奥様から孝蔵さんへ向けた、温かい手紙が入っていましたよ」

 シロさんの視線が、博さんたちを射抜く。

「この世で一番大切な人から貰った、手紙とお守り。それを眺めては、家族を養うため、共に生きていくために自分を奮い立たせる。……それ以上に、人生を頑張るための力が湧いてくる『守り神』が、他にあるでしょうか」

 居間には、もう誰も声を上げる者はいなかった。

「夏美ちゃんと春斗くんはまだ幼いですから。孝蔵さんに『お守りだから大切にしてくれ』と言われても、つい興味のない物を雑に扱ってしまうのは仕方のないことです」

 シロさんは微笑みながら続けた。

「孝蔵さんが遺言の修正を頼む前に亡くなられてしまったこと。そして、子供たちが桐箱の重要性を知らなかったこと。その偶然が重なって、話がややこしくなってしまったんでしょうね」


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