2-14. 消えた桐箱
蔵を見てみようと思ったのは、本当にただの思いつきだった。
玄関に蔵の鍵があったのを思い出したから、和孝さんに言ってちょっと覗いてみるかって。和孝さん自身が何も言わなかったということは、桐箱がそこにある可能性は低いかもしれないけど。もし覗いてみて、何かありそうだったらシロさんに報告できればいいや、くらいの気持ちで。桐箱が見つからないんじゃ、いつ帰れるようになるか分からない。状況を打開できるようなヒントでも見つかればいい、それくらいの、本当にちょっとした期待みたいなものだった。
和孝さんが見つからなかったから、とりあえず庭に出て、まだ行ってないあたりに向かうと、母家と同じ瓦屋根の小さな蔵がすぐに見つかった。
結果として、蔵には何もなかった。
むしろ、たまたま会った朱里さんと閉じ込められて、かなり怖い思いをした。あれは野狐だ、俺たちをビビらせようとして、まんまと罠にハマってしまった。
でも、大きな収穫があった。
蔵から母屋へと続く砂利道を、なるべく早歩きで、蔵から離れるように歩く。一歩後ろを歩く朱里さんをチラッと振り返ると、黙ったまま、俺が渡した折り紙の犬を握っていた。
顔色が少し悪いけど、それ以外は特に問題なさそうに見える。サンダルが歩きにくいのか、ほんの少し小走りみたいになってるけど。
野狐が追いかけてきてないのは分かってるのに、スピードは落としたくなかった。
俺と朱里さんは、この家の唯一の安息の地である子供部屋へ向かった。
階段を上り、子供部屋の前に立ち、少し迷ってから障子戸をノックする。
「藤見です。……入ってもいいかな?」
「いいよー」
中から返ってきたのは、春斗くんの声だった。
戸を開けた瞬間、目に飛び込んできた明るく穏やかな空気に、肺の奥に溜まっていた重苦しさが一気に抜けていくのを感じた。
子供部屋には、明るい照明の下で携帯ゲーム機を手に持つ春斗くんと、その隣で折り紙の本を開いている夏美ちゃんの姿があった。
「あれ、和美さんは?」
さっきまで一緒に動画を見ていたはずの、和美さんの姿がない。
「和美おばちゃんなら、もう帰ったよ」
「えっ、帰った?」
春斗くんの言葉に、思わず壁にかけられた時計を見上げる。十六時になろうとしていた。
「……そんなに経ったのか」
子供部屋を出て、庭の蔵へ向かったのが十五時前だったはずだ。蔵に閉じ込められていたのは、せいぜい二十分程度だと思っていた。なのに、実際には一時間近い時間が経っていた。
朱里さんも中に入ったのを確認してから、静かに障子戸を閉める。それだけで、あの蔵の窓から手招きしていた真っ白な指先や、音を立てていた扉が遠い世界の出来事のように思えた。ふぅ、と息を吐いてから、深呼吸をする。
「……あ、朱里ちゃん」
夏美ちゃんが、顔を上げて意外そうな声を出す。春斗くんも、驚いたように目を瞬かせていた。
朱里さんは何も言わずに戸の前に立ったまま、所在なげに視線を泳がせている。最近はあまり来てなかったとか言ってたっけ。自分より年下の子供と、何をしゃべったらいいのか分からない、気まずい気持ちはよく分かる。
朱里さんの細い指先が無意識に、渡した犬の折り紙をいじっていた。
「あ、その折り紙……」
夏美ちゃんが、朱里さんの手元を見て小さく呟く。
「……この折り紙のおかげで、助かったよ。ありがとう、夏美ちゃん」
俺が代わりに答えると、夏美ちゃんは不思議そうな顔をした。
……なんで助かったのか、理由はよく分かってないけど。でもシロさんが「役に立つ」って言ったのは、本当だったんだな。ポケットから、自分用の茶色い折り紙の犬を取り出す。握りしめてしまったから、少しくしゃっと形が歪んでいたけど、ただの折り紙以上に頼りがいのある犬に見えた。
その時、コートのポケットの中で着信音が鳴り響いた。
蔵の中では電源すら入らなかった携帯電話。 慌てて取り出すと、画面には『シロさん』の文字が光っている。
「もしもしシロさん!」
『今、母屋に戻った。どこにいる?』
耳に届く飄々とした声。それだけで、ようやく本当の意味で、張り詰めていた緊張の糸が解けた気がした。
十分後。シロさんが、子供部屋に現れた。
シロさんを部屋の隅へ呼び、声を潜めて、蔵で朱里さんから聞いた話を伝える。子供たちの前で蔵での出来事や狐狸の箱の話をするのは少し躊躇われたけれど、今はまだ、この部屋から出る勇気はなかった。
「……持ち込んだのは博さんだったみたいです。奥さんの梓さんも知っているみたいで」
狐狸の箱という単語は伏せた。けれど、シロさんはさほど驚いた様子もなく、「そうか」と短く相槌を打つだけだった。
「……驚かないんですね」
「まあ、消去法でいけば和幸さんか博さんの線が濃かったからな。もし和幸さんだったら、自分で持ち込んだものにやられていることになる。今考えると、それはないだろうしな」
シロさんはそう言って、部屋の中をうろうろしている朱里さんをチラリと一瞥した。彼女はシロさんが来た時に軽く会釈こそしたものの、知らない大人が増えたことでますます居心地が悪そうに、部屋の棚や机の周りを所在なげにゆっくり歩き回っている。春斗くんと夏美ちゃんはシロさんの登場を喜んでいたが、俺たちが小声で深刻そうに話しているのを察して、またゲームや本の世界へと戻っていった。
「シロさん、肝心の桐箱の中身なんですけど……」
俺が本題を切り出そうとした、その時だった。
「えっ……何で、これがここにあるの?」
部屋の反対側、学習机の前にいた朱里さんが、素っ頓狂な声を上げた。
彼女の手には、夏美ちゃんの机に置かれていた、お守りがあった。
「それ……」
「これ……! 私が昔、書斎で見たやつ……。桐箱の中に入ってたの、これだよ!」
俺に向かって、手に持ったお守りを見せてくる。
蔵で聞いた、桐箱の中身。朱里さんはこう言っていた。
『なんてことないお守りだったよ。神社で売ってそうな、たしか縁結びって書いてあったかな。くすんだ薄いピンクに、ちょっと大きめ組紐がついてた』
……何で、それが、ここに?
俺が混乱で固まっていると、隣でシロさんが「なるほどな」と小さく手を打った。
「だから、ここにこれがあったのか」
シロさんは迷いのない足取りで、ローテーブルの上へ歩み寄った。そして、それを手に持つ。
「これが、探していた桐箱の正体だ」




