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2-13. 消えた桐箱


「ひっ……!」

 喉の奥で短い悲鳴が跳ねた。ライトの細い光が捉えたのは、積み上げられた段ボールの隙間からこちらをじっと見つめる、おかっぱ頭の女の子。

 赤い着物を着た、人形だった。暗闇とライトの鋭い陰影のせいで、その白すぎる顔が、まるで生きている人間のように生々しく見えて、心臓がぎゅうっと縮み上がる。

「……市松人形ですね。うちにも男の子のやつがありますよ」

 藤見ふじみさんが私を落ち着かせようとするように、静かな声で言った。人形をライトで照らしたまま。光当てるの、やめてほしいんだけど……。

「そうなんだ……こういうのって、遺品整理の現場にもよくあるんですか?」

「え?……あ、ああ、そうです。子供の成長や幸せを願って買ったりするものだそうですから。雛人形とか、五月人形と同じですよ」

 一瞬、彼が言葉に詰まった気がしたけれど、お祝いの品だと言われて少しだけ肩の力が抜けた。和美かずみおばさんが生まれたときにでも買ったのかな。裕福な家だったから、そういう古めかしい物はあった気がする。夏美なつみちゃんが生まれてからも、三月には立派な雛人形が飾ってあったの見たことあるし。

 藤見さんは扉の近くから一歩も動かないまま、手に持った小さなライトをゆっくりと彷徨わせ続けた。光の輪郭に浮かび上がる影について、一つひとつ私に尋ねてくる。

「あの箱、何が入ってるか分かります?」

「知らない。……見たことないし」

「あの子供用自転車は、和孝かずたかさんのですか?」

「たぶん……でも、和幸かずゆきさんも和美おばさんも持ってたはずだから、誰のかは分かんない」

「そうですか……」

 会話が途切れると、再び沈黙が重くのしかかってくる。

 そういえば、この人私が誰かに押されたって言ったこと、疑わなかったな。誰かいたのか確認はしてきたけど。……そういえば、結局私を押したのは誰だったんだろう。鍵までかけて、何でそんなこと……。

 暗闇の奥から忍び寄ってくる恐怖に気付かないふりをして、私は自分の方から言葉を繋いだ。

「ねえ……桐箱が見つかるまで、ずっとこの家にいるの?」

「えっ……いや、どうでしょう。一応、遺品整理業者ですから。整理が終わったら帰るんじゃないでしょうか」

 なんだか要領を得ない答え。依頼された物を探すのが仕事じゃないの? 不審に思って彼をチラッと見ると、藤見さんも私の方を見ていたみたいで、気まずそうに視線を泳がせた。

「僕はただの助手なので、詳しい依頼内容は知らないんです。あくまで手伝いというか……」

「そうなんだ……」

 人一人分だけ離れた場所に立つ彼を、ライトの反射越しに盗み見る。

 手伝いなんだ。たしかに若いし、冬休みのバイトとかなのかもしれない。だとしたら、こんな薄気味悪い家に来させられて、彼も運が悪い。

朱里あかりさんは、この家によく来るんですか?」

 今度は藤見さんの方から聞いてきた。

「……お父さんとお母さんに連れてこられたときに来るくらい。最近はあんまり来てなかったけど、昔からお正月とか集まるし」

「へぇ。昔から、和孝さんと和幸さんはあんな感じなんですか? あっ、話したくなかったらいいんですけど」

 一瞬、部外者のこの人に家庭の事情を話していいのか、と戸惑った。でも、静寂になることが怖くて、勝手に口が開いていた。

「まぁ、仲良いイメージはないかな。昨日みたいに、みんなの前で怒鳴り合ったりはしてなかったと思うけど。……ここ数年で、どんどん酷くなってる気がする」

 口に出してみると、自分たちの歪さが改めて浮き彫りになるような感覚だった。

「お父さんもおじいちゃんも、孝蔵こうぞうおじいさんの悪口ばっかりだったし……。ここは、そういう家なんだよ。私、ずっと嫌だった」

 藤見さんは、ライトを床に向けたまま、黙って私の話を聞いていた。

「朱里さんのお父さんとお母さんは、孝蔵さんや和孝さんと仲が悪かったの?」

 藤見さんの問いに、私は少し自嘲気味に鼻で笑った。

「……うん。仲がいいフリしてるだけ。和孝おじさんは真面目な人だけど、うちは違うから。二人で、ずっと人の悪口ばっかり言ってるし」

 言ってから、ハッとした。

 なんで初対面のこの人に、こんな家の恥みたいなことを喋っちゃってるんだろう。 気まずくて黙り込むと、藤見さんは少し遠くを見るような目をして、

「そうなんだ。俺は父が子供の時に亡くなったから、両親が話してる姿って、ほとんど記憶にないな。……よく喋ってるんだ?」

 予想外の言葉が返ってきて、一瞬言葉に詰まった。

 お父さんが、いない。なんて返していいか分からなくて、私はそこには触れずに両親の話を続けた。

「……うん、よく喋ってるから、仲はいいんだと思う。孝蔵おじいさんのことも、和孝おじさんのことも、好きじゃないみたいで、二人の悪口ばっかりだけど」

「あー、まぁ、気が合わない相手っているからね」

 藤見さんが絞り出したような相槌に、心の中でちょっとだけ笑う。無理してフォローしなくていいのに。

「桐箱があるから、そのおかげで成功してるんだって。ただの嫉妬だよね。でも孝蔵おじいさんはちゃんとした人だったから、会社が大きくなったのも、自分で頑張ったからじゃないかな」

「ちゃんとした人?」

「うん。あんまり話したことないから、勝手なイメージかもだけど。それにさ、桐箱持ってるだけで成功するなら、誰も苦労しないでしょ。何でも上手くいくって言うなら、和孝おじさんと和幸おじさんだって仲良しのはずだし、和子かずこおばあさんだって事故で死んだりしない。……そうじゃない?」

「たしかに」

 藤見さんは、本当に感心したように繰り返した。

「たしかに、そうだね。本当に幸運を運ぶもの、ってわけじゃないのかも」

 その様子を見て、なんだか少しだけ愉快な気分になった。大人も、藤見さんも、みんな本物の「すごいお宝」だと思い込んでる。でも、私だけは知っている。

「……あの桐箱の中身、大したものじゃないし」

「え、中身知ってるの!?」

 藤見さんが、ぎょっとしたように私の顔を覗き込んだ。

 ……ヤバい、喋りすぎた。誰にも言ったことなかったのに。

「あっ、えっと……た、たまたま、見ちゃったことがあって。誰にも言わないでほしいんだけど……」

 藤見さんは少しの間考え込むように黙った後、真剣な目で私を見た。

「……誰にも言わないから。中身が何だったか、教えてくれる?」

 迷ったけれど、彼には嘘を吐けない気がした。

 私は、ずっと昔に書斎で見た中身について、一気に喋った。

 藤見さんは感心したように呟いた。

「そうだったんだ……だからシロさんはあんなこと言ってたんだ」

「え?」

「あ、いや、何でもない。教えてくれてありがとう。……その桐箱が今どこにあるか、誰が持っていったのかは知ってる?」

 いつの間にか、藤見さんから敬語が消えていた。

「ううん、知らない。……まさか、うちのお父さんとお母さんを疑ってる?」

「いや、そういうわけじゃないよ! でも実際に無くなってるから……」

「持ってってないよ。和孝おじさんか和幸おじさんが隠してるんじゃないかって、二人で文句言ってたもん」

 言いかけて、ふと両親の会話を思い出した。

「あ……でも、桐箱が欲しすぎて、嫌がらせとかはしてたみたいだけど」

「嫌がらせ?」

「うん。何かを置いたとか言ってたと思う。『桐箱が無いなら、置いた意味がない』とか何とか。何か分かんないけど、たぶん何か嫌がらせしてたんだよね」

 言い終わる前に、藤見さんが「それ、本当!?」とぐいっと詰め寄ってきた。

「う、うん」 驚いて小さく頷く。

 言っちゃいけないことだった? 嫌がらせって、さすがにヤバいことだったのかな。

 藤見さんは呆然としたように口を開け、それから小さく「そうだったのか……」と呟いた。そして片手で口を覆う。

 その目は何かを確信しているように見えた。もしかして、やっぱりうちのお父さんが桐箱を盗んだ犯人だと思っているのかなって、ちょっと嫌な予感がした。

 でも心は不思議と軽やかだった。家族のことも、桐箱のことも、しゃべらないほうが良かったのかもしれないのに。本当はずっと、誰かに話したかったのかな。

 ほんの少し口元が緩んだそのとき、光がチラチラと揺れた。

 藤見さんの持っている懐中電灯じゃない。高い位置にある、小さな窓。そこから差し込んでいた薄い光の筋が、明滅するように揺らいでいる。

「あ、誰か気づいたのかも!」

 上を見上げて、私は喜んで叫びそうになった。窓の外に、誰かの手がひらひらと動いているのが見えたから。いつまでもこんなところにいるわけにいかない。

「ねぇ、開けてください! ここに……」

「しっ!」

 藤見さんに、片手で乱暴に口を塞がれた。

「っ、んぐっ……!」

「静かに。……見て。あんな高い窓、外から手を振れる人間なんていないよ」

 ずん、と一瞬で心臓が凍って落ちるような感覚。この蔵の窓は、大人の背丈よりもずっと高い位置にある。外はただの壁で、足場なんてない。

 なのに。窓の向こうでは、真っ白な、細長い指先が。今も「おいで、おいで」って言ってるみたいに、手招きを続けていた。

 心臓が耳元で鐘を打っているみたいにうるさい。

 じゃあ、あの窓で手を振っているのは何?

 あれは一体――。

「たぶん、直接何かしてくることはないはずだから、大人しくしていよう」

 藤見さんが私の口からそっと手を外すと、低く囁いた。

「なんで、そんな、……あれは、何なの!?」

「……俺たちを閉じ込めて、怖がらせようとしてるんだと思う。だから、下手に騒がないほうがいい」

 何言ってんの、この人。全然意味分かんない。

 カチカチと歯が鳴ってることに気づく。震えが止まらない。

 怖い思いをさせようとしている、って何が? 何のために? やだ、考えたくない、もう十分すぎるほど怖い。大体、あの窓は曇りガラスのはずなのに、なんであんなに生々しく手が見えるの? 誰の手なの!

 怖いのに目が離せなかった。一瞬でも目を離したら、あの手がこちらへ伸びてくるような気がして黙ったままじっと窓を見上げていると、不意に、吸い込まれるようにその手が消えた。

 ……いなくなった?

 安堵しかけたその瞬間、背後にあった扉が、爆発したような音を立てて激しく叩かれた。

 ――ガン! ガン!! ガガン!!!

「っ、ひあ……っ!」

 悲鳴にもならない声が漏れる。

 私と藤見さんは弾かれたように扉から離れた。薄暗闇の中、藤見さんにしがみつくように身を寄せた。少しでも扉から距離を取りたくて後ずさっているつもりなのに、ちっとも離れていかない。体が恐怖で固まって、動いてない。

 扉を叩く音は絶えず続いている。その度に心臓が跳ね上がり続ける。

 助けて、と祈る思いで、ぶるぶる震える手をもう一度スマホに伸ばすけれど、画面は死んだように沈黙したままだ。どうにかしてよ、と隣の藤見さんを見上げるけれど、彼のこめかみにもびっしょりと汗が浮いているのが見えた。

 藤見さんは辺りをキョロキョロと見渡して、それからポケットに手を突っ込んでガラケーを取り出そうとした。取り出したガラケーの他に、何かがポケットから零れ落ちた。平べったい何かが床に落ちる。

 暗くてよく見えなかったけれど、彼はそれを拾って一瞬だけ考え込むと、意を決したように激しく鳴り響く扉へと手を伸ばした。

 彼がその何かを扉に押し当てた、その時だった。

『ギャッ!!』

 獣の鳴き声。小さいけれど、はっきり聞こえた。それが一回聞こえたと思ったら、あんなに激しかった衝撃が嘘のようにピタリと止んだ。

「……え?」

 呆然として立ち尽くす。

 藤見さんは手に持ったものをじっと見つめていた。それは折り紙のようだった。何かを折っているみたいな、形のあるもの。

「……まじか」

 彼が信じられないといった様子で独り言を漏らす。形を確かめるように、触っていた。

「それ……」

 聞いてみようとしたけど、それよりも先に前を向いた藤見さんがおそるおそる扉に手をかけた。

 外側にゆっくり押してみる。すると、あれほど固く閉ざされていたはずの扉が、何の抵抗もなくギィ……と音を立てて開いた。

「……開いた」

「あ……っ」

 隙間から差し込んできた薄灰色の光があまりに嬉しくて、膝から崩れ落ちそうになる。

 急いで外に出ると、冷たい冬の風が吹き抜けた。自分が汗をかいていたことに、その時初めて気づく。急に体温が奪われて、治まった震えが寒さによってまた体を撫でるようだった。

「……戻ろう。これ、一応持ってて」

 藤見さんはそう言って、手に持っていた折り紙を私に一つ差し出した。

 受け取って、何を折った物なのか、ひっくり返して理解する。

「これ……犬?」

「とにかく、今は子供部屋にいたほうがいい。あそこなら、たぶん大丈夫だから」

 この犬の折り紙が何なのか、答えは貰えなかった。でも、それよりこの場所から離れたい気持ちのほうが強かった。

 言われるがまま、私は震える指で犬の折り紙を握りしめ、歩き出した彼の後を追った。

 そっと振り返った蔵の入り口には、誰の影もなかったけれど。 折り紙を握る手のひらから伝わってくる、微かな、自分の心臓の鼓動が、さっきまでの恐怖が現実だったことを物語っていた。


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