2-12. 消えた桐箱
「あ、朱里さん」
急に声をかけられて、ビクッと体が跳ねた。 砂利に落としてた視線を上げると、蔵の前に男が一人立っていた。
たしか、昨日和孝おじさんに紹介された遺品整理業者の若い方。名前は……藤見、だったっけ。
その人が一人で蔵の前に立って、こっちを見ていた。
……この人、こんなところで何やってるんだろ。
身構えてしまう。私はただ散歩してただけだから、別に悪いことなんてしてないし、普通にしてればいいだけなんだけど。
回れ右するのも、なんか逃げるみたいで変だよね。でも喋ったこともない人に急に下の名前で呼ばれるのって、なんか気持ち悪いんですけど。
「……何してるんですか、こんなところで」
自分でも思ってた以上に、固い声が出た。私の刺々しい声に、その人は一瞬戸惑ったような、こちらを窺うような顔をした。
たしか、大学生って言ってたよね。お兄ちゃんと同じ歳くらいってことは、私とも歳が近いはず。
藤見さん(たぶん)は黒いダッフルコートを着て、デニムを履いていた。あらためて見ると、背が高い。お兄ちゃんよりも頭半分くらい大きい気がする。百七十後半くらいはあるんじゃないかな。何でこんな若い人がわざわざ遺品整理なんて仕事をしてるんだろう。死んだ人の持ち物を片づけるなんて、私だったら絶対嫌。なんか、そういうのに興味があるってだけでちょっと不気味っていうか、得体が知れない感じがする。
藤見さんは少し困ったように頭をかきながら、
「あ、すみません。和孝さんに言ってからのほうが良いとは思ったんですが、姿が見えなくて……。ここ、蔵ですよね。何か手がかりになるものがないかなと思って、ちょっと周りを見てたんです」
「手がかりって……あの桐箱の?」
私が聞き返すと、彼は少しだけ視線を逸らして、「ええ、まぁ」と曖昧に頷いた。
何か誤魔化してるのかな。昨日、和孝おじさんと和幸おじさんがまた喧嘩してたし、遺品整理っていっても目的は桐箱を探すことだよね。
藤見さんの後ろに立つ、蔵を見た。物置代わりにしてる小さな蔵。
ここにあるって思ってるのかな。どこにあるのか知らないけど、ここにあるなら和孝おじさんがもう見つけてるんじゃないの。
「……鍵かかってるから、中を見たいなら和孝おじさんに言ったほうがいいと思う」
「あ、ですよね」
突き放すように言って庭へ戻ろうとした時、蔵の方から、小さくカタッと、何かが倒れるような音が聞こえた。
藤見さんは振り返ってゆっくり一歩近づくと、そっと蔵の扉の取っ手に手をかけた。この蔵の扉は、古いけれどがっしりした木製だ。金目の物が入っているわけじゃないけど、普段は和孝おじさんが鍵をかけているはず。はずだったけど――。
「……開いてる」
藤見さんが呟くと同時に、重い扉が抵抗もなく、音を立てて数センチほど動いた。
「えっ嘘……いつもは鍵、かかってるのに」
思わず声が上ずる。
藤見さんは扉の隙間に視線を向けたまま、私に尋ねた。
「この中、何が入っているか知っていますか?」
「……ただの物置だよ。和孝おじさんが昔使ってた自転車とか、本とか、もう使わない物が置いてあると思う」
「そうですか……」
藤見さんはそう言いながら、さらに扉を半分ほど開けようとした。
……えっ、勝手に入ろうとしてる?
放っておいて去ってしまいたかったけれど、もし中で何かを壊されたり、変なことが起きたら私が何か言われるかもしれない。私は彼の背後から中を覗き込むようにして、一歩、蔵の入り口へと足を踏み入れた。
「……ねぇ、勝手に入らないほうがいいと思う。和孝おじさんに怒られるよ」
和孝おじさんは、別に怒らないとは思うけど。
でも、藤見さんは私の言葉が聞こえていないみたいに、じっと中の暗闇を見つめている。
「あの……ねぇってば!」
痺れを切らして、彼の背中を掴んで引き戻そうと近づいた、その時だった。
――どん、と。
誰かに背中を、強く押された。確かな手の感触だった。
「わっ!」
「えっ? うわっ!?」
前のめりになった私の体が藤見さんにぶつかり、そのまま二人して蔵の中へと倒れ込む。埃っぽい匂いが鼻を突き、膝を硬い床に打ちつけた。
慌てて振り返った瞬間、視界が急速に狭まった。ギギギ、と嫌な音を立てて、重い扉が勝手に閉まっていく。
「待って!」
叫んで手を伸ばしたけれど、一足遅かった。
――バタン!
大きな音とともに扉が閉まり、その直後、外側からガチャンと鍵がかかる音が響いた。
光が、消えた。十畳ほどの空間は、一瞬にして逃げ場のない薄暗闇に包まれた。
「ちょっ、何で、」
藤見さんが私に向かって文句を言おうとしてるのが分かって、遮って声を上げた。
「ちがっ、私じゃない! 誰かに押されたの!」
「誰かって……他に誰かいたんですか?」
「いなかったと思う、けど……」
見たわけじゃないから確信は持てない。でも、あんなに強い力で押されたんだから、誰かがいたとしか思えない。
……家族の誰かが、悪ふざけでやったの? でも、鍵かけてる音もした気がする……そんなイタズラするような人いる?
一気に言いようのない不安がこみ上げてくる。
そっと見上げると、さっきまで開いてたはずの重い扉が、壁のように立ちはだかっていた。
藤見さんは膝を払って立ち上がると、扉を叩き、外に向かって声を張り上げる。
「すみませーん! 誰か、開けてください!」
返ってくるのは、彼の声の残響だけだった。人の気配どころか、風の音すら聞こえない。
藤見さんが何度か扉を揺するように力を込めたり、肩をぶつけて扉を開けようと試みたけれど、厚い木製の扉はびくともしなかった。
見上げると、高い位置にある小さな窓から、申し訳程度の光が差し込んでいる。けれど外は曇天の冬空。その薄明かりは室内にぼんやりとした光の筋を落とすだけで、十畳ある蔵を照らすには、あまりにも頼りなかった。
「……サイアク」
藤見さんが小さく毒づき、コートのポケットから折り畳み式のガラケーを取り出した。古っ。
私も慌てて自分のスマホを取り出す。
……あれ? さっきまで生きてたはずの画面は、真っ黒だった。 電源ボタンを何度押しても、長押ししても、冷たいまま反応を返さない。
「何で……」
さっき確認したときは、たしか二十パーセントくらいは残ってたはず。一気にゼロになるような使い方してないのに……。
藤見さんが「はぁ……」と深い溜息をついてガラケーをパチンと閉じるのが見えた。彼の方も充電無くなったのかな……。
お互い何も言わずに、数十秒の沈黙。
……何でこんなことになったんだろう。そもそもこの人が勝手に蔵なんて開けるからじゃん。サイアク。
心の中で悪態をつく。それと同時に、連絡手段のない暗闇の中で知らない男の人と二人きりになっているという事実が、じわじわと嫌悪感と恐怖に変わっていく。
けれど、藤見さんは私の視線なんて気にしていないようだった。彼はハッとした様子で、コートのポケットを弄り、棒状のものを取り出した。
カチッ、と音がして、細い光が暗闇を切り裂いた。
「……懐中電灯?」
「はい。今日佑香さんに借りて……返しそびれてました」
テレビのリモコンくらいの、細くて軽いライト。パワーはそれほどないけれど、今の状況では唯一の救いみたいに心強く思える光だった。
藤見さんは私を見ることもなく、ゆっくりとライトで室内を照らし始めた。
ぼんやりと光の輪郭に浮かび上がるのは、和孝おじさんたちが昔使ってた錆びた自転車、背表紙の剥げた古い本やノート、何が入っているか分からない埃を被った段ボール箱……。薄暗い中では色がはっきりしないからよく分からない物もあった。
そして、静かすぎる。 自分の呼吸音だけが大きく響いてるみたい、暗闇の奥から何かがこちらを覗き込んでいるような気がして、足元がすうすうした。
「……朱里さん」
唐突に名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がった。 藤見さんは相変わらず蔵の奥に注意を向けたまま、低い声で尋ねた。
「ここに来ること、誰かに言いましたか?」
「……言ってない。トイレに行くって言って、部屋を出てきたから」
答えた瞬間、急激な心細さが込み上げてきた。 私がいないことに誰かが気づくのは、ずっと先になるかもしれない。
「そうですか……」
藤見さんの声は落ち着いて聞こえたけれど、ライトを持つ手がわずかに震えているのが見えた。
この人も、本当は怖いのかな。
そのとき。 ライトの光が、部屋の隅にある古い箪笥のような物の隙間を照らした。
そこに、何かが、いた。




