2-16. 消えた桐箱
気づけば、日は完全に落ちていた。
博さんと梓さんの夫妻は、吐き捨てるようなため息と共に子供たちを連れて帰っていった。朱里さんは玄関を出る間際まで、俺に何かを言いたげに視線を送っていたけれど、結局最後まで口を開くことはなく、この家を後にした。
和幸さんは、心身ともに衰弱していた。
「医者ではないので確実なことは言えませんが、しっかり栄養を取って休養すれば、きっと元に戻りますよ」
シロさんの助言を受け、和孝さんはホッとした顔をしていた。とはいえ、一旦は病院へ連れて行こうという話になり、シロさんと二人で彼を夜間診療の病院へ連れて行くことになった。和幸さんはされるがまま、今までの態度が嘘のように大人しかった。
戻ってきた和孝さんの厚意に甘え、俺とシロさんは今夜、この屋敷にもう一泊させてもらうことになった。
夕食後、シロさんと和孝さん、そして俺の三人で、床下や庭の隅々に殺鼠剤をまいた。暗闇の中で、足元をさっとかすめていく何かがいた。家の外へ、石塀の向こうへ逃げて行くそれは、少なくとも三、四匹はいたような気がする。
やっとすべてが終わったその夜、俺は驚くほど深く、静かな眠りについた。
翌朝、俺は差し込む朝日の眩しさで目を覚ました。和紙が太陽の光を拡散して、部屋全体を明るくしている。今日は晴れるみたいだ。
シロさんと母屋へ向かうと、そこには既に和孝さんたちの姿があった。
不思議な感覚だった。昨夜までは重苦しく、淀んでいた屋敷の空気が、軽くなっている。まだ隅の方にいる小さな影がゼロになったわけではないけれど、少なくとも薄暗く感じる不気味さはかなり消えていた。
和孝さんと佑香さん、そして夏美ちゃんと春斗くん。俺とシロさんを含めた六人での朝食は、昨日までの空気とは打って変わって、賑やかで明るいものだった。
和幸さんは昨夜病院から戻った後、まだ自分の部屋で泥のように眠っているらしい。「しばらくはゆっくり休ませてあげてください」というシロさんの言葉に、和孝さんは深く頷いていた。
朝食が終わり、ようやく帰れると安堵して、俺は護符の件を思い出す。
「そういえば護符って、貼ってから帰るんですか?」
「ああ、その件なんだが……君は少しここで待っていてくれ。和孝さんと、ちょっと出かけてくる」
「は? どこへ行くんですか?」
理由を聞く前に、二人はそそくさと玄関を出て、和孝さんの車で走り去ってしまった。
取り残された俺は、仕方なく子供部屋で夏美ちゃんたちの遊び相手をすることになった。
春斗くんに誘われてゲームをさせてもらったが、慣れない操作に戸惑っているうちに、画面の中の俺のキャラクターはあっさりと穴に落ちて消えた。
「お兄ちゃん、下手!」
「……やるの初めてだし。あとこれ、意外と難しいから」
そんなやり取りをしながら過ごす時間は、昨日までの状態を考えると、嘘みたいに平和だった。
二時間ほど経った頃だろうか。開け放していた子供部屋の窓から、車のエンジン音が聞こえてきた。続いて、止まった車の音と共に、高い声が響く。
――キャン! キャンキャン!
夏美ちゃんと春斗くんが顔を見合わせ、弾かれたように部屋を飛び出していった。俺も首を傾げながら、二人の後を追う。
玄関まで行くと、すりガラスの向こうに、大きなプラスチック製のペットケージを抱えたシロさんと和孝さんのシルエットが見えた。
「ただいま」
ガラリ、と引き戸を開けると、ケージの中から元気いっぱいに吠える声が溢れ出した。中にいたのは、それぞれコロコロと丸い二匹の柴犬の子犬だった。
「うわぁっ! 犬、いぬ!」
「きゃああああ! かわいい!」
子供たちが悲鳴のような歓声を上げ、ケージを覗き込んで大興奮している。騒いでいる声が聞こえたのか、エプロンをしたままの佑香さんも駆けつけて、子どもたちのはしゃぎっぷりに笑っていた。
和孝さんは子供たちを「こらこら、家の中で暴れるんじゃない」と優しくたしなめながら、居間へとケージを運んでいった。
居間の畳の上で放たれた二匹の子犬は、新しい環境を恐れる様子もなく、尻尾を振り回して子供たちの周りを転がるように駆け回っている。和孝さんはその光景を眺めながら、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。
目の前の家族の様子を眺めながら、俺は隣に立つシロさんに、こっそりと尋ねた。
「どうしたんですか、急に犬なんて……」
「手っ取り早く、この家を守るためさ」
シロさんは、はしゃぐ子犬たちを見つめたまま、事も無げに答えた。
「……?」
首を傾げる俺に、シロさんは少しだけ声を落として続けた。
「野狐の天敵は狼、つまり犬だからな。彼らがこの家を走り回っていれば、逃げ出した野狐も、二度とこの敷居を跨ぐことはできない」
その瞬間、頭の中であの折り紙が繋がった。蔵の中で助けてくれた、シロさんが「念のため」と俺に持たせた二匹の犬の形をした折り紙。そして、犬が溢れた子供部屋だけが、影響を受けていなかったことも。
「……そういうことだったのか」
蔵での恐怖を思い出し、少しだけ顔を引き攣らせてシロさんに抗議した。
「だったら、最初からそう教えておいてくださいよ! こっちは必死だったんですから」
するとシロさんは、「言わなかったか?」と、本当に忘れていたかのような、けろっとした顔で笑った。
窓から差し込む冬の終わりの柔らかな光の中で、子犬たちの高い鳴き声と子供たちの笑い声が、屋敷の隅々にまで染み渡っていく。この家の新しい守り神が、確かにそこにいた。
和孝さんと佑香さんが、俺とシロさんを玄関の外まで見送ってくれた。夏美ちゃんと春斗くんは子犬に夢中で、さよならの挨拶をしたときもほとんどこっちを見ていなかったのが、ちょっとだけ切なかった。
終わってみれば二泊三日。桐箱探しの依頼は、途中で違う物を見つけたりと当初の目的とは違ったこともしたけど、あっという間に終わった。
俺とシロさんは、白いSUVに乗り込む。来た道を、今度は戻っていく。これから二時間、代わり映えのしない風景が続くのかと思うとちょっと億劫だ。でも帰り道は行きと違って、心は驚くほど軽かった。
流れていく尾実村の景色を、助手席の窓からぼんやりと眺める。
「シロさん。いつ、あのゲームソフト入れが桐箱だって気づいたんですか?」
「最初に持ったときだな。折り紙が貼ってあっても、プラスチックケースなのか木の箱なのかくらいは分かる」
「……分かってて、黙ってたんですか?」
「高級そうな箱だ、と声には出しただろ」
ああ、そうですか。もっと早く言ってくれていたら、すぐ帰れたのに。……と思ったけど、子供部屋に入ったときにあれが桐箱だと、中身が何か分かって、シロさんと俺が帰っていたら。きっと、今も野狐があの家を蝕み続けていたんだろう。
ふと、車窓から見える田畑の奥、林の木々の間に、巨大な黒い後ろ姿が見えた気がした。のそのそと、頭の上のボロボロの麻の帽子を揺らしていた気がするけど、すぐ見えなくなった。
「……あ」
声を上げそうになって、飲み込んだ。
あっちの方向は、根本家だ。野狐がいなくなり、本物の犬がやってきたあの家。前より騒がしくはなるだろうけれど、もう一度棲みつくには十分なほど居心地の良い家に戻りつつあるのかもしれない。
「どうかしたか?」
ハンドルを握るシロさんが、目だけ動かしてこちらを見た。
「……いえ。お土産、何がいいかなって考えてただけです」
俺は小さく笑って、座席に深く背を預けた。
『消えた桐箱』 完




