第37話
翌日の異変は、教室に入るよりも前に現れた。
昇降口の人だかり。その中心は、僕ら一年二組の下駄箱のようだ。
嫌な予感が背筋を震わせる。人の間を無理やり抜けて、下駄箱に近づいていく。
何とか人だかりを抜けた先、一年二組の下駄箱の前に、奈々が立ち尽くしている。
その背の向こう、下駄箱に広がる禍々しいほどの色彩を見ながら、ゆっくりと近づいた。
「奈々」
声をかけると、奈々が振り返った。その顔には微かな怯えがある。
僕は奈々の横に並んで、下駄箱を眺めた。
下駄箱の一つが、カラースプレーでぐちゃぐちゃに着色されていた。
言うまでもない、奈々のものだ。
「なるほどね……」
ふと聞こえた言葉に振り返ると、ミナトが立っていた。
その顔には楽しげな笑みが浮かんでいる。
(なんでこいつは、笑っていられるんだ……?)
僕は強くミナトを睨みつける。
しかしミナトは僕のことも、奈々のことも目に入らないように、ただ食い入るように下駄箱を見つめていた――
――
「奈々……大丈夫……?」
教室に着くと、あかりとカホが不安げな顔をして近づいてくる。
「誰があんなイタズラしたんだろうね」
あかりは頬を膨らませる。可愛い子ぶっている仕草と言うよりは、本当に怒っているような表情だ。カホの顔にも心配と同時に、イタズラした人間への怒りが滲んでいる。
対する奈々は、二人の顔を見てへらりと笑う。
「あはは、アタシは大丈夫だよ〜! ホント、誰があんなイタズラするんだろうね」
奈々はおどけた様子で肩をすくめる。元気そうに見えるが、空元気だろう。その言葉はどこか浮ついて、頼りない。
上履きがぐちゃぐちゃになっているからと借りた来客用のスリッパでパタパタと間抜けな音を立てながら、奈々が自分の席へと向かうのを眺めていると、後ろからガっと肩を掴まれた。
こんな絡み方をしてくる知り合いは一人しかいない。
僕が振り返ると、案の定アヤノが険しい顔をして背後に立っていた。
「ちょっと話せる?」
疑問形ではあるが有無を言わせぬ様子に、僕に頷く以外の選択肢は残されていない。
アヤノと連れ立って教室を出る。今日のアヤノはやたらに警戒した様子で、左右をキョロキョロと見ながらどんどん進んでいく。
「どこ行くんだ?」
「いいから、黙ってついてきて」
そのまま普段僕と奈々がお昼を食べている体育館裏まで来ると、アヤノは周囲を確認した後ため息を吐いた。それから、僕を睨みつける。
「一応確認だけど、今朝のアレ。アンタの仕業じゃないのよね」
「ありえない。なんで僕が」
間髪入れずに答えると、アヤノは分かりきっていたかのように頷く。
「だよね。アタシも、アンタはそういうことしないと思う。アンタなりに、奈々を大事にしてる感じはするし」
アヤノの真っ直ぐな言葉が照れくさくて、僕は鼻を擦る。なんだよ、分かってるじゃないかこいつ。
アヤノは何か言いたげに口を開いたり閉じたりを繰り返した。それから、意を決したように僕を見つめる。
一体何をするのかと思いきや、アヤノは突然頭を下げた。
「お願い、奈々のこと、守ってあげて」
驚いて声も出ない僕を、顔を上げたアヤノは睨む。その目の端には涙が溜まっていた。
「奈々の様子からして、これがはじめてのイタズラじゃないんでしょ? 誰かが奈々をターゲットにしてるんだよね?」
僕は答えあぐねて黙る。その沈黙を肯定と受け取ったのか、アヤノは僕に詰め寄った。
「アンタ、謎解きとかそういうの得意なんでしょ! こんな嫌がらせなんか、誰がやったか推理して、パパっと解決しちゃってよ!」
「いや、僕は……」
僕は唇を引き結んでから、笑顔を作る。いや、きっと笑顔にはなりきれなかった。情けない表情で僕はアヤノを見る。
「僕なんかより、ミナトくんの方が……」
後半は声が震えて言葉にならなかった。そんな僕の肩を、アヤノは拳で叩く。ドン、と軽い衝撃が体に走った。
「アタシは、アンタだから頼んでんの! アンタなら、奈々のこと守ってくれると思って頼んでんの!」
アヤノは俯く。長い金髪が彼女の顔を覆う。
「ミナトは……アタシは、アイツのこと、信用できない。アンタは奈々のこと見てるけど、アイツは奈々のことを見ていない。そんな気がする。ずっと奈々を見てきた、アタシには分かる」
アヤノの声は震えていた。僕と同じように。
「奈々は大事な友達だから、ホントはアタシが何とかしてあげたいよ! でもできない、アタシ馬鹿だから。だから、こうしてアンタに頭下げてる」
アヤノは顔をあげる。その目は真っ直ぐで、決意がこもっていた。
「奈々のこと、頼んだ」
僕は何も言えなかった。ただ、アヤノから向けられる信頼の目から、目を離さなかった。
それだけで満足したのか、アヤノは鼻を鳴らして去っていった。
一人取り残された僕は空を見上げる。空は梅雨入り前にふさわしく、どんよりと曇っていた。




