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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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第九章 遠い家

 文が届いたのは、晴れた朝のことだった。

 千歳が台所で澄江の仕事を手伝っていると、紅葉が入ってきた。手に、細長い文を持っていた。

「千歳様、実家からお文が届いています」

 千歳は手を止めた。

 実家から。

 予感がなかったわけではない。ここへ来て十日ほどが経った。連絡がないのは、忘れたわけでも、縁が切れたわけでもないだろうと思っていた。ただ、向こうの都合で来ていないだけだと。

「ありがとうございます」

 千歳は手を拭いてから、文を受け取った。

 表書きは、恒一の筆跡だった。


 部屋に戻って、千歳は一人で文を開いた。

 丁寧な書き出しだった。

 千歳の道中の無事を喜ぶ言葉から始まり、冬の寒さへの気遣い、屋敷での暮らしが不自由でないかという問いかけ。読んでいるだけでは、心のある兄からの便りのように見えた。

 千歳は最後まで読んだ。

 文の末尾近くに、こんな一文があった。

 ――なお、おまえがこの辺境の地で日々何をしているかを、家も気にかけている。折を見て知らせるように。

 千歳は、その一文をもう一度読んだ。

 気にかけている。

 それが本当なら、嬉しい言葉だったはずだ。でも千歳には、気にかけているのが千歳自身ではなく、千歳が何をしているかのほうだと分かった。

 何をしているか、を知りたい。

 それはつまり、千歳の力が神域でどう作用しているかを、家は知りたいのだ。

 千歳は文を膝の上に置いた。

 窓の外では、昨日より少し雪が緩んでいた。屋根から垂れた氷柱が、先端からゆっくりと滴を落としている。

 驚きはなかった。

 こういうものだと、千歳には分かっていた。あの家は、千歳のことをそういうふうにしか見ない。

 でも。

 文を閉じながら、千歳は思った。

 以前なら、この文を読んで、自分が確かめた通りだったという冷たい諦めだけがあっただろう。でも今日は、違うものがある。

 怒りとも悲しみとも違う、もっと静かなもの。

 もうここは、わたしの家ではない。そういう確信のようなもの。


 昼前に、紅葉がまた来た。

「お文の内容は」

「形式的な気遣いと……様子を知らせるようにという一文が」

「そうですか」

 紅葉は少し間を置いた。

「千歳様は、返事を書かれますか」

「書くべきでしょうか」

「書く義務はありません。ただ、書かないことで向こうがどう動くかは、少し考えておいた方がいいかもしれません」

「動く、というのは」

「直接こちらへ来る、ということも、ないとは言えませんから」

 千歳は少し考えた。

「朔様は、ご存じですか?」

「文が届いたことは、お伝えしました」

「何かおっしゃいましたか」

「……応じる必要はないと」

 千歳は少し笑った。

 先日、千歳が朔に経緯を聞いたとき、朔は直接的に話してくれた。そのときとは別の場面で、また同じような言葉を言っていた。

「朔様らしいですね」

「そうですね」

 紅葉も少し笑った。

「千歳様はどうされたいですか」

「返事は、書きます。でも向こうが知りたいことは書きません。ここでの暮らしが穏やかなこと、それだけ」

「それでよろしいかと思います」


 返事を書くことにして、千歳は文机の前に座った。

 筆を持ったが、しばらく動かせなかった。

 何を書けばいいか分からないのではなかった。書こうとすると、都の屋敷のことが浮かんできて、それが少し重かった。

 廊下を歩いても誰も見てくれなかった朝。

 食卓で、自分の声が誰にも届かなかった夜。

 庭の隅で一人でいるとき、風だけが傍にあった時間。

 千歳はそれらを、怨んではいない。

 でも忘れているわけでもない。

 ただ今は、それが遠い場所のことに感じられる。

 この屋敷に来て、まだ十日あまりだ。それなのに都の屋敷が、もうずっと昔のことのような気がしている。

 それはなぜだろうと思った。

時間の問題ではないと思った。短くても、深く変わることがある。浅くても、長く同じ場所に留まることもある。

 ここでは、毎日何かが変わっている。

 少しずつ、少しずつ。

 千歳は筆を動かした。

 短い返事だった。

 道中が無事だったこと、神域の冬は深いが穏やかなこと、屋敷の方々が良くしてくださっていること。それだけを書いて、末尾に一文だけ添えた。

 ――ここでの暮らしは、わたしには過分なほど温かいものです。ご心配なく。

 書き終えてから、千歳はそれを読み返した。

 過分なほど温かい。

 それは本当のことだった。


 午後、千歳は朔を探した。

 書院に行くと、いた。

 文机の前に座って、何か書いていた。千歳が障子を開けると、顔を上げた。

「少し、よろしいでしょうか」

「入れ」

 千歳は部屋に入って、少し離れた場所に座った。

「実家から文が届きました。返事を書きました」

「紅葉から聞いた」

「朔様が、応じる必要はないとおっしゃったそうで」

「ああ」

「でも返事は書くことにしました。ただ、向こうの知りたいことは書きませんでした」

 朔は千歳を見た。

「……それでいい」

「はい。それからひとつ、お聞きしてもよろしいですか」

「何だ」

「実家が、もし直接ここへ来ようとした場合、どうなりますか」

 朔は少し間を置いた。

「来ることは、できる。神域は、人を拒む場所ではないから」

「では、来た場合」

「俺が対応する」

「わたしに直接話させるつもりはないということですか」

「……おまえが会いたければ、会えばいい。会いたくなければ、俺が断る」

 千歳は朔の言葉を、冷静に受け取った。

 会いたければ会えばいい。会いたくなければ断る。

 それはつまり、千歳の意思を尊重するということだった。家の都合でも、神域の都合でもなく、千歳がどうしたいかによって、朔が動く。

「ありがとうございます」

「礼はいらない」

「でも、嬉しかったので」

 朔は何も言わなかった。

 視線を文机に戻したが、筆は動かなかった。


 書院を出て、千歳は中庭へ向かった。

 梅の木の前に立って、枝を見上げた。

 この数日で、枝の先の芽がまた少し膨らんでいた。まだ花には遠いが、確かに近づいている。

「ちとせ」

 後ろから声がした。

 振り返ると、志乃がいた。

「どうしたの」

「千歳のにおいが、少しかなしかったから」

「そう見えましたか」

「においで分かる」

 志乃は千歳の隣に来て、一緒に梅の枝を見上げた。

「おうちから、文きたんだって」

「紅葉さんから聞いたの」

「うん」

「悲しくはないんですよ、そんなに。ただ、少し重くて」

「重い?」

「あの家のことを思い出すと、重いものがある。過去のことなのに、まだ体に残っている感じで」

 志乃はしばらく黙っていた。

「あの石の場所と、おなじかな」

「え?」

「千歳が感じた、ずっとそこにいるもの。終わりにしてもらえなかったから、いるもの」

 千歳は少し驚いた。

「わたしの中に、そういうものがある、ということ?」

「終わりにしてもらえなかったことが、まだいる。千歳の中に」

 千歳は梅の枝を見たまま、黙った。

 志乃の言い方は子どもらしく、でも核心に近かった。

 終わりにしてもらえなかったこと。

 都の屋敷で積み重なってきたもの。誰にも届かなかった声。透明なように扱われた時間。それが千歳の中に、まだある。

「それは、どうすれば終わりにできるのかな」

「志乃にはわからない。でも」

 志乃は千歳を見上げた。

「あの石は、千歳が来て、少し軽くなった。千歳も、誰かが来たら軽くなるんじゃないかな」

「誰かが来たら」

「うん。千歳のそばに、ちゃんといてくれる誰かが」

 千歳はその言葉を、冷静に受け取った。

 誰かがちゃんとそばにいてくれる。

 それがどういうことか、千歳にはまだ完全には分からない。でも、雪丸が毎晩来ること、紅葉が毎日気にかけてくれること、志乃が匂いで千歳の気持ちを感じ取ること、そして朔が廊下で足音を遅くすること。

 それは全部、そういうことかもしれない。

「志乃は、難しいことを言うね」

「難しくない。かんたんなこと」

「志乃にとってはね」

 千歳は少し笑った。

 志乃もつられて笑った。


 その日の夕方、朔が神域の見廻りから戻ってきたとき、千歳は縁側にいた。

 朔は渡り廊下を通りながら、千歳を見た。立ち止まりはしなかったが、歩く速度が少し落ちた。

「寒くないか」

「大丈夫です。少し考えたいことがあって」

「そうか」

 朔はまた歩き出した。

 通り過ぎる際に、一言だけ言った。

「冷えすぎる前に中へ入れ」

「はい」

 足音が遠ざかっていく。

命じるようでいて、その実いちばんやさしい声だった。


 千歳は空を見上げた。

 夕暮れの空が、橙から赤に変わっていた。雪の上にその色が落ちて、白かった庭が淡く染まっている。

 冷えすぎる前に入れ。

 さりげない言い方だった。命令でもなく、心配を露わにするわけでもなく、ただ事実として言う。

 でも千歳には、その言葉の中にあるものが、少し見えてきていた。

 言葉が少ない人は、言葉にしない部分に、多くを入れる。

 千歳はそれを、少しずつ読めるようになってきていた。


 夕餉の時間に、朔が先に広間にいた。

 千歳が入ると、朔はちらりとこちらを見た。

「縁側から来たか」

「はい。中に入ってから少し経ちます」

「そうか」

 それだけだった。

 でも、確かめた。縁側にいた千歳が、ちゃんと中に入ったかどうかを、確かめた。

 千歳は膳の前に座りながら、少し温かい気持ちになった。

 雪丸が足元に来て、前足を乗せた。

「ちとせ、きょうはどう?」

「今日は、少し重かったけど、今は大丈夫です」

「ほんと?」

「ほんとです」

 志乃が千歳の隣に座って、千歳の顔をじっと見た。

「においが、さっきよりかるい」

「そうですか」

「うん。さっきより、だんぜんかるい」

 紅葉が膳を並べながら、微笑んだ。

「それは良かった」

 朔は黙って食べていたが、今夜もよく箸が動いていた。

 千歳はその横顔を、ちらりと見た。

 実家から文が来た。重いものが届いた。でも今ここには、温かいものがある。

 天秤にかけるものではないかもしれない。過去は過去として、ある。でも今日の重さは、今日ここにあるものが、少し引き受けてくれた気がした。


 夜、千歳は文机の前に座って、今日書いた返事を見直した。

 過分なほど温かい。

 本当にそうだ、と思った。

 温かさに値するものが自分にあるかどうかは、まだ分からない。でも今日ここにある温かさは、確かに本物だった。

 雪丸がいつものように入ってきた。

「ちとせ、もうねる?」

「もう少しだけ」

「じゃあ、ぼくもおきてる」

「一緒にいてくれるの」

「うん」

 雪丸は千歳の足元に座って、目をぱちぱちさせながら起きていようとしていた。でも三分もしないうちに、目が閉じていった。

 千歳は少し笑った。

 行灯の火が、静かに揺れている。

 文机の上の返事の文は、明日発てる使いに渡す。

 あの家へ届く。

 あの家では、千歳が書いた言葉を読むだろう。温かいとはどういう意味かと、不思議に思うかもしれない。あるいは、意味のある情報がないと、つまらなく思うかもしれない。

 でも千歳には、もうそれがどう受け取られるかはあまり関係がなかった。

 書いたのは本当のことだ。

 

 廊下で、足音がした。

 今夜も、部屋の前でわずかに遅くなった。

 千歳は行灯の火を見たまま、その足音を聞いていた。

 遅くなって、また遠ざかっていく。

 千歳は小さく息を吐いた。

 今夜は起きていると知ったら、朔はどうするだろう。

 入ってくるだろうか。それとも、やはり何も言わずに通り過ぎるだろうか。

 答えは分からない。

 でも今夜は、その問いを持ったまま眠れる気がした。

 行灯を落として、布団に入った。

 雪丸の寝息が、すぐそこにある。

 外では風もなく、静かな夜だった。

 都の屋敷から届いた文は、文机の上にある。でもそれよりずっと大きく、今夜の部屋には温かいものが満ちていた。

 千歳は目を閉じた。

 明日も、ここにいる。

 それが今の千歳には、一番確かなことだった。


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