第八章 花嫁の務め
雪が、三日続けて降った。
屋敷の中庭は膝まで積もり、渡り廊下の屋根から垂れ下がった氷柱が、朝になるたびに長くなっていった。外へ出ることも難しく、千歳は屋敷の中で過ごす時間が続いた。
それでも、退屈ではなかった。
台所で澄江の仕事を手伝い、志乃と一緒に刺繍をして、紅葉に頼んで屋敷の蔵にある古い書物を借りた。この土地の歴史を記したものや、神域の記録らしきものが何冊かあって、千歳は時間をかけてそれを読み進めた。
書物の文字は古く、読みにくいところもあったが、辛抱強く読んでいくと、この辺境の地がどういう場所だったかが少しずつ分かってきた。
かつてはもっと人が多かった。
山を越えた先にある集落とも行き来があって、この神域には季節ごとに人が集まり、祭事が行われていた。それが時代とともに変わり、人の足が遠のいていった。
記録はそこで途切れていた。
途切れた後に何があったのかは、書かれていない。でも千歳には、その続きが分かる気がした。あの石の場所で感じたものが、記録の空白を埋めていた。
四日目に、雪がやんだ。
青空が戻って、屋敷の中が一気に明るくなった。澄江が「この後晴れが続くなら、里の者たちが来るかもしれません」と言っていた。
その言葉のとおり、昼前に紅葉が千歳の部屋を訪ねてきた。
「千歳様、少しよろしいですか」
「はい」
「近隣の里から、何人か神域へ来る予定があります。今日の午後のことですが」
「どういった方々が」
「毎年この時期に、白狼神への挨拶に来られる方々です。顔ぶれはだいたい決まっていて、古くからの縁のある家の方々や、山仕事をされている方々、それから里の長老の方が一人」
紅葉は少し間を置いた。
「千歳様には、朔様の花嫁として、同席していただきたいのです」
「花嫁として、同席」
「はい。これまでこの神域に花嫁はいませんでしたから、皆さん気にされているだろうと思います。何か特別なことをしていただく必要はありません。ただ、そこにいてくださるだけで十分です」
千歳は少し考えた。
そこにいるだけでいい、という言葉は、以前なら素通りしていただろう。でも今は、それが本当にそれだけで済むのかどうか、千歳には判断がつかなかった。
「朔様は、ご存じですか」
「はい。朔様もご同席です」
「分かりました。では、そのようにします」
「では晴れ着の準備をいたします。都からお持ちになったものを」
千歳はうなずいた。
昼過ぎ、里の人々が神域へやってきた。
十人ほどの一団だった。山仕事をしている男たちが数人、その妻らしい女性が二人、それから年老いた男が一人。子どもも二人いて、大人の陰に隠れながらこちらをじっと見ていた。
朔は表の広間で迎えた。
千歳は朔の少し後ろに、紅葉と並んで座っていた。
晴れ着は、都から持ってきた薄紅の小袖だった。着慣れていないから少し窮屈だったが、紅葉が丁寧に着付けてくれた。
里の人々は、入ってきた瞬間、千歳を見た。
朔を見てから、千歳を見た。それからまた朔を見て、また千歳を見た。
千歳はその視線を、冷静に受け止めた。
逃げたいとは思わなかった。ただ、場違いでないといいと思っていた。
「白狼神様、この度はご挨拶の機会をいただきありがとうございます」
長老らしい老人が頭を下げた。朔は短く頷く。
「変わりはないか」
「おかげさまで。今年の雪は深うございますが、獣の被害もなく、皆健やかにおります」
「そうか」
朔の言葉は少なかった。でも里の人々は慣れているらしく、誰も戸惑っていなかった。この無口な神と、長いつきあいがあるのだろう。
「こちらのお方が、新しいお花嫁様でいらっしゃいますか」
長老が千歳を見た。
「はい。千歳と申します」
千歳は丁寧に頭を下げた。
「遠くからいらしたのでしょう。この辺境は寒くて不便な土地ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。皆様のお話を、色々お聞きしたいと思っていました」
長老は少し驚いた顔をした。それから、目を細めた。
「やわらかい方ですな。白狼神様にも、こういうお方が必要だったかもしれません」
朔は何も言わなかった。
でも千歳は、隣に座っている朔の気配が、わずかに変わった気がした。
挨拶が一段落してから、里の人々は広間でしばらく過ごした。
朔は早々に席を外したが、千歳は残って話を聞いた。
山仕事の男たちは最初こそ遠慮がちだったが、千歳が食事や天候のことを尋ねると、少しずつ話すようになった。妻たちは千歳の晴れ着を褒めて、子どもたちは最初は隠れていたが、雪丸が現れたとたんに目を輝かせた。
「わあ、こいぬ!」
「子どもではありません。眷属の雪丸です」
「なでていい?」
「雪丸に聞いてみてください」
子どもたちが雪丸を囲むと、雪丸はしっぽを全力で振って、子どもたちの顔を次々と舐めた。子どもたちが笑い声を上げて、広間が一気に賑やかになった。
千歳はその様子を見ながら、この場所が少し変わった気がした。
白狼神の神域、と聞けば、誰もが畏れ多い場所を想像するだろう。実際に来るまでは千歳もそう思っていた。でも今この広間では、子どもたちが笑っていて、妻たちが話していて、老人が温かい茶を飲んでいる。
こういう場所でも、あっていい。
そう思った。
人々が帰り支度を始めた頃、一つの出来事があった。
山仕事をしている男たちのうちの一人、若い男が、千歳のそばへ来た。
「あの、お花嫁様」
「はい」
「少し、お願いがあって」
男は言いにくそうにしていた。後ろで、その妻らしい若い女が心配そうにしている。
「子どもが、ずっと体の調子が良くなくて」
「お子さんが?」
「今日は留守番をさせているんですが……もう半年近く、食が細くて、顔色が悪いままで。医者に見せても、特に悪いところはないと言われるんですが」
男は言葉を選ぶように続けた。
「神域の花嫁様なら、何か分かるかもしれないと思って。無理なお願いだとは分かっているんですが」
千歳は少し考えた。
自分に何ができるかは分からない。でも、何もできないとも言い切れない。
「今ここには来ていないのですね、お子さんは」
「はい」
「次にここへいらしたとき、一緒に連れてきていただけますか。それまでに、わたしにできることがあるか考えておきます」
男はほっとした顔をした。妻もそっと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お役に立てるかどうか分かりませんが、できることはしたいと思っています」
人々が帰ってから、千歳は着替えを終えて縁側に出た。
夕方の空が橙から紫へと変わっていく。雪の上に長い影が伸びて、梅の古木がその影をくっきりと地面に落としていた。
紅葉が茶を持ってきた。
「お疲れでしょう」
「いいえ、楽しかったです」
「楽しかった、ですか」
「皆さん、最初は緊張されていたのに、雪丸のおかげで場がほぐれて。子どもたちはかわいかったし、長老の方のお話は面白かったし」
紅葉は千歳の隣に座って、一緒に空を見た。
「千歳様は、人と話すのがお好きなのですね」
「そうかもしれません。都では、あまり機会がなかったので」
「あの若い男性から、お願いごとをされていましたね」
「はい。お子さんの体のことを。わたしにできることがあるか、まだ分かりませんが」
「千歳様ならきっとできます」
紅葉は穏やかに言った。
「そう思いますか」
「あの祠の石が変わったことを、わたくしは見ています。あれは千歳様の力です。人の体の穢れも、土地の穢れも、根は同じものだと志乃が言っていました」
「志乃が」
「ええ。千歳様が来てから、志乃はよく話すようになりましたよ。あの子はもともと、人とはあまり話さなかったのです」
千歳は少し驚いた。
「志乃が? いつも気さくに来てくれるから、そういう子だとばかり」
「千歳様だから、ですよ」
紅葉は微かに笑った。
その夜の夕餉に、朔が珍しく早めに来た。
千歳が膳の前に座ると、朔はすでに上座にいた。
「今日は早いですね」
紅葉がさりげなく言うと、朔は何も答えなかった。
今日の夕餉は、澄江が少し手をかけた料理が並んでいた。里の人々が来た日だから、と澄江が張り切ったらしい。
食べ始めてしばらくして、朔が口を開いた。
「今日の客は、どうだった」
千歳は少し驚いた。朔から、出来事の感想を尋ねてくるのは、初めてだった。
「皆さん、良い方々でした。長老の方が昔の神域の話を少し聞かせてくれて、蔵の書物に書いてあった時代のことが少し繋がった気がしました」
「蔵の書物を読んでいるのか」
「紅葉さんに許可をいただいて。読みにくいところも多いのですが」
「何が知りたい」
「この土地が、どういう場所だったのかを。来た以上、知りたいと思って」
朔はわずかに間を置いた。
「書物に書かれていないことは、俺が知っている」
「……教えていただけますか」
「気が向いたら」
素っ気ない言い方だったが、千歳は少し嬉しかった。
気が向いたら、ということは、いつか話してくれる気があるということだ。
「楽しみにしています」
朔は何も言わなかった。
でも箸が、止まらずに動いていた。
夕餉の後、千歳が片付けを手伝っていると、志乃が袖を引いた。
「千歳、あのこどもたちのこと」
「知っていたの」
「うん。志乃には、においで分かる。あの男の人のこどもが体弱いこと、さっきの話で分かった」
「志乃にも感じるものがあるのね」
「うん。でも志乃には直せない。千歳ならできるかも」
「どうすればいいか、分からないのだけれど」
「触れればいい。千歳が触れると、重いものが動く。土地でも、人でも、たぶん同じ」
千歳は少し考えた。
「怖くはないの。そういうことを、わたしがするのが」
「怖い?」
「力があると言われているけど、自分ではよく分からないから。うまくできなかったら、と思って」
志乃は真顔で千歳を見た。
「千歳は、できる。志乃には分かる」
「どうしてそんなに確信があるの」
「千歳が触れると、そこにあるものが、ちゃんと息をしはじめるから。土地でそうだったから、人でもそう」
千歳は志乃の目を見た。
水色の、澄んだ目だった。嘘をつく目ではない。
「……ありがとう、志乃」
「お礼はあとで。できてから言って」
志乃はそれだけ言って、するりと廊下の奥へ消えていった。
夜、千歳は部屋で今日のことを思い返していた。
花嫁として同席した。
最初はただそこにいるだけのつもりだった。でも実際には、人と話して、子どもたちと一緒に雪丸を囲んで、若い夫婦の相談を聞いた。
役目を果たした、という感じではなかった。
ただ、自分がそこにいることで、何かが変わった。それが不思議だったし、嬉しかった。
都の屋敷では、千歳がいることで場が変わることはなかった。いるのに、いないようなものだった。でもここでは違う。
長老が言っていた言葉を思い出した。
白狼神様にも、こういうお方が必要だったかもしれません。
必要だったかもしれない。
力のためだけではなく、こういう意味でも、必要だと言ってもらえたのかもしれない。
千歳は行灯の火を見た。
今日、朔は千歳を紹介するとき、何も言わなかった。でも席を外す前に、一度だけ千歳の方を見た。何かを確かめるような、あるいは何かに安堵しているような、ごく短い視線だった。
あれは何だったのだろう。
雪丸が入ってきて、千歳の膝に乗った。
「ちとせ、きょうたのしかった?」
「楽しかったです」
「ぼくも」
「子どもたちに囲まれて、嬉しかったでしょう」
「うん。こどもたち、ぼくのことすきだった」
「みんな雪丸のことが好きですよ」
「ちとせも?」
「もちろん」
雪丸はうれしそうに目を細めた。
「さくも、きょうちがった」
「違った?」
「いつもより、おちついてた。ちとせがうまくやってたから」
「朔様が落ち着いていたのは、わたしのせいではないと思いますよ」
「ちとせのせい。ぼくにはわかる」
千歳は答えなかった。
でも、もしそれが本当なら、と少し思った。
朔が落ち着いていたのが、千歳のせいなら。
それはとても、不思議で、嬉しいことだった。
深夜に近い時間、廊下で足音がした。
朔の足音だと、千歳にはすぐ分かった。
今夜も、部屋の前でわずかに遅くなった。
千歳は行灯を落としていたから、部屋の中は暗かった。暗いから、起きているとは思われないだろう。
足音は、また遠ざかっていった。
千歳は暗い中で、目を開けたまま天井を見ていた。
子どもの体のこと。あの若い夫婦の顔。蔵の書物の記録。今日見た、たくさんのものが、頭の中に並んでいた。
この土地で、自分にできることがある。
それが今日、少しだけ見えた気がした。
力があるとか、役目があるとか、そういうことではなく、ただここにいることで、何かができる。
千歳はそっと右手を見た。
暗くて見えなかったが、確かにそこにある。
朔が握っていた手が、今日は違うものを感じていた。
子どもたちと雪丸を囲んでいたときの、小さな手の温もり。若い母親が頭を下げたときの、その手の震え。長老が茶を飲んでいたときの、皺だらけの穏やかな手。
たくさんの手が、今日この場所に集まった。
千歳はその一つひとつを、受け取った。
それが、花嫁の務めなのかもしれないと、今日初めて思った。
朔が守る土地に、千歳がいる。
それだけで、こんなにも違う。
行灯のない暗い部屋で、千歳はそっと目を閉じた。
雪丸の寝息が、すぐそばにある。
外の雪が、青白く夜を照らしていた。




