第七章 白狼神の手
熱は、翌朝には下がっていた。
目が覚めると体が軽く、昨日の重さが嘘のようだった。雪丸は千歳の足元で丸くなったまま、まだ眠っている。障子の向こうが白く明るいのは、雪の照り返しか、あるいは今日は晴れているのかもしれない。
千歳はそっと身を起こした。
頭が痛くもなく、体がだるくもない。ただ、夢をたくさん見た後のような、少し夢と現実の境目が曖昧な感覚がある。
夢を見ていた。
内容は薄かったが、温かかった。誰かの手が傍にある夢だった。
千歳は自分の額に触れた。
昨夜、朔がここに手を置いた。ひんやりとしていて、でも落ち着く温度だった。夢の中の手が、それと同じ感触をしていた気がした。
気のせいかもしれない。
でも今朝の千歳には、それが夢だったのか現実だったのか、少し判断がつかなかった。
紅葉が朝食を運んできたとき、千歳は既に着替えを済ませて座っていた。
「熱は下がりましたか」
「はい。おかげさまで」
「顔色もいいですね。ならよかった」
紅葉は膳を置きながら、千歳の顔をさっと見た。何かを確かめるような目だったが、すぐに視線を膳に戻した。
「あの、紅葉さん」
「はい」
「昨夜、朔様がいらしてくださいましたよね」
「はい。わたくしが呼びに行きました」
「しばらく、部屋にいてくださって」
「……そうですか」
紅葉の答え方が、少し慎重だった。
「どのくらい、いらしたのでしょう」
「さあ。わたくしは廊下で控えておりましたから、詳しくは」
千歳は紅葉の顔を見た。
何かを知っていて、言わない顔をしていた。
「紅葉さん」
「はい」
「教えてもらえないのですか?」
「何を、でしょう」
「朔様が、いつまでいらしたのか」
紅葉はしばらく黙った。
それから、ゆっくりと答えた。
「千歳様がお眠りになってから、しばらくの間はいらっしゃいました。それだけ申し上げておきます」
それだけで、千歳は満足だった。
眠った後も、朔はそこにいた。
用件があって来たなら、千歳が眠ったところで帰ればいい。でも帰らなかった。眠るのを確かめてから、それでもしばらくいた。
「……そうですか」
「それ以上は、ご自分でお確かめください」
紅葉はそれだけ言って、膳の前から退いた。その横顔に、かすかな微笑みがあった。
朝食の後、千歳は縁側に出た。
今日は晴れていた。
雲が少なく、冬の青空が広がっている。雪の上に日差しが落ちて、あちらこちらで光が散っていた。梅の古木の枝も白く輝いて、枝の先が細く尖って見えた。
昨日とは全然違う空だった。
千歳はしばらく、その景色を見ていた。
昨夜のことを考えていた。
朔が傍にいた。眠るまで、あるいは眠ってからもしばらく。それが何を意味するのかを、千歳はまだうまく整理できない。
でも、温かかった。
それだけは確かだった。
人の温かさとは少し違う。神のそれだから当然かもしれないが、ただそこにいてくれるだけで、体の中の不安が除かれていく感じがあった。
「ちとせ!」
雪丸が縁側を駆けてきた。勢いよく飛びついてきて、千歳は慌てて受け止めた。
「起きてた! よかった」
「昨日より元気ですよ」
「ほんと?」
「本当です」
雪丸は千歳の顔を覗き込んで、鼻をすんすんさせた。
「においが、もどってる」
「においが?」
「熱があると、においがかわる。ちとせのがなくなって、あつい感じのにおいになる。でも今日は、ちとせのにおいがする」
「そういうことが分かるの」
「うん。ぼく、においでいろいろわかる」
「昨夜、雪丸もそこにいてくれましたよね」
「うん。ずっとちとせのそばにいた」
「ありがとう」
「さくもいた」
千歳は、雪丸の頭を撫でる手を少し止めた。
「知っています」
「さく、ながくいた」
「……そうですか」
「ちとせのてを、にぎってた」
千歳の手が、止まった。
「雪丸、今なんと言ったの」
「さくが、ちとせのてを、にぎってた」
あっさりと繰り返した。
千歳は自分の手を見た。
右手だった。昨夜から、何となく右手が温かい気がしていた。夢の中で手の感触があったのも、右手だった気がする。
夢ではなかった。
朔が、千歳の手を握っていた。
いつからいつまでかは分からない。千歳が眠り落ちた後のことだから、千歳には何も分からない。でも、あの感触が夢ではなく現実のものだったなら。
顔が、少し熱くなった。
「雪丸、それは本当ですか」
「うん。ほんと。ぼく、ちゃんとみてた」
「見ていたの」
「うん。さく、ちとせのて、そっとにぎって、ながいあいだいた。それから、ゆっくりはなして、かえった」
千歳は何も言えなかった。
朔が。あの無口で、必要以上のことは何も言わない朔が。
眠っている千歳の手を、そっと握っていた。
「雪丸、そのことを朔様は知っているの。あなたが見ていたこと」
「しらないとおもう。ぼく、ねたふりしてた」
「ねたふり」
「うん。おきてたら、さく、しないとおもって」
千歳は雪丸を見つめた。
この仔狼は、思っていたよりずっと、何かを分かっている。
「……雪丸、あなた、なかなか策士ですね」
「さくし?」
「賢いということです」
「ほめてる?」
「褒めています」
雪丸はしっぽをパタパタと振った。
昼前に、紅葉から外出の許可が出た。
屋敷の中庭までなら、という条件付きだったが、千歳には十分だった。昨日は外へ出られなかったから、体を動かしたかった。
中庭に出ると、梅の木の前でしばらく立った。
枝の先を、じっと見る。
まだ芽は固い。でも、ほんの少しだけ、膨らみが増した気がする。気のせいかもしれないが、朔が毎年必ず咲くと言っていたから、きっと咲くのだろう。
朔のことを考えていた。
昨夜のことを、どう受け取ればいいのか、千歳にはまだ分からなかった。
花嫁が病に倒れたから、様子を見に来た。それは分かる。でも、眠った後まで手を握っていたのは。
役目のためとは、少し違う気がした。
でも違うと思うのは、千歳が思いたいからそう思うのかもしれない。自分の都合のよい解釈かもしれない。
千歳はそこで、自分の考えに気がついた。
思いたい、と思っている。
朔が、役目のためではなく、自分を心配してくれたと、思いたいと思っている。
それはつまり。
千歳は梅の枝から目を離して、遠くの空を見た。
雲のない青が、どこまでも続いていた。
夕餉は、また皆で広間に揃った。
昨日は熱で食べられなかったから、今日は久しぶりの食卓だった。
朔は少し遅れてやってきた。千歳と目が合うと、一瞬だけ何かを確かめるような目をして、それからゆっくりと上座に座った。
「体は」
「はい。すっかり良くなりました」
「そうか」
それだけだった。
でも昨夜のことを知っている今の千歳には、その短い問いかけが、昨日とは違って聞こえた。
紅葉が膳を並べながら、さりげなく言った。
「今日は千歳様のご回復を祝って、少し良いものを用意しました」
「回復を祝って、というのは大げさでしょう」
「そんなことはありません。昨日の千歳様の顔色は相当でしたから」
志乃が千歳の隣でうなずいた。
「千歳、まっしろだった」
「そんなに悪かったのですか」
「しらべみたいな色だった」
「雪みたいな、でしょう」
「そう。しろくて、とおかった」
雪丸が足元から言った。
「ぼく、しんぱいした」
「ごめんなさい、心配させて」
「もうしないで」
「気をつけます」
賑やかなやり取りが続いて、千歳は少し笑った。
ふと気づくと、朔がこちらを見ていた。
すぐに視線を外したが、確かに見ていた。千歳が笑ったのを、見ていた。
昨日、雪丸が言っていた。千歳が来てから、朔がこちらを見るようになった、と。
今がまさに、そういう瞬間だったと思った。
「朔様」
千歳は声をかけた。
朔はゆっくりとこちらを向いた。
「昨夜は、ありがとうございました」
「……何のことだ」
「来てくださったこと。そばにいてくださったこと」
朔は何も言わなかった。
視線を、膳の上に落とした。
「花嫁が倒れたのだから、当然だ」
「そうですね。でも……嬉しかったです」
朔はわずかに、体が固まった気がした。ほんの一瞬のことで、すぐに元に戻ったが、千歳には見えた。
「……そうか」
「はい」
それきり、朔は黙った。
でも今夜は、食事が進んでいた。昨日より箸が動いていた。
紅葉が横でまた、ひっそりと微笑んでいた。
夕餉の後、千歳は一人で部屋へ戻った。
廊下を歩きながら、少し遠回りをした。
書院の前を通ったとき、灯りがついていた。朔がいるのだろう。障子の向こうに、人の影が見える。文机に向かっているらしく、動かずにいる。
千歳は少しの間、そこで立っていた。
昨夜、あの人は千歳の手を握っていた。
眠っているから分からないと思って、握っていた。誰にも見られていないから、していた。
それはつまり、誰かに見られてしまったら、しないことだ。
隠していること、ではないかもしれない。ただ、意識的にしていることでもない。もしかしたら朔自身も、自分がそうしていたことを、どう説明していいか分からないのかもしれない。
千歳は廊下をそっと歩いて、部屋へ向かった。
書院の前を通り過ぎる際、中の影が少し動いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも千歳は、歩きながら自分の右手を、そっと左手で包んだ。
昨夜の温度が、まだそこにある気がした。
部屋に戻ってから、千歳は行灯の前に座った。
刺繍の布を取り出したが、今日は針を動かせなかった。
考えていた。
朔のことを。
この五日でも七日でもない、もっと長い時間をかけて、この人を知りたいと思っている自分がいる。それがどういう感情なのかを、千歳はまだ言葉にできない。
都の屋敷では、誰かのことを知りたいと思ったことがなかった。知ろうとしても、千歳が近づくと相手が遠のいていったから。
でも朔は、遠のかない。
距離はある。言葉も少ない。でも、遠のいていかない。
それどころか、昨夜は手を握っていた。
千歳は布を膝に置いたまま、行灯の火を見た。
揺れているのに、消えない。
あの梅の木みたいだ、と思った。
寒い冬の中で、毎年必ず咲く。
千歳には、そういうものが何もなかった。変わらずそこにあるものが、何もなかった。
でも今、この行灯の火が揺れているのを見ながら、何かが変わらずそこにある気がした。
朔が握っていた右手の感触。
それがまだ、ここにある。
雪丸がやってきて、千歳の膝に頭を乗せた。
「ちとせ、なにかんがえてる」
「秘密です」
「ひみつ?」
「大人の秘密です」
「ぼく、おとなだよ」
「雪丸は子どもです」
「こどもじゃない」
「では、こっそり教えます」
千歳は雪丸に顔を近づけて、耳元でそっと言った。
「朔様のことを、考えていました」
雪丸はしっぽをパタパタと振った。
「しってた」
「なぜ」
「においでわかる」
「どんな匂いがしていたの」
「あたたかいにおい」
千歳は少し笑った。
温かい匂い。
自分でも気がつかないうちに、そういう気持ちが滲み出ていたのかもしれない。
夜が深くなってから、廊下で足音がした。
朔の足音だと、千歳にはもう分かった。この屋敷の誰とも違う、静かで均一な歩き方。
足音は千歳の部屋の前で、わずかに遅くなった。
止まりはしなかった。遅くなっただけで、またすぐに遠ざかっていった。
でも確かに、遅くなった。
千歳は行灯の火を見つめたまま、耳を澄ませた。
足音が遠ざかって、聞こえなくなった。
それから千歳は、そっと右手を胸の前に持ってきた。
昨夜、朔がここを握っていた。眠っている千歳には分からないように、でも確かに握っていた。
それが今の千歳には、何よりも雄弁に思えた。
言葉の少ない人が、言葉にしないことの中に、伝えているものがある。
千歳にはそれが、少しずつ見えてきていた。
行灯を落として、布団に入った。
今夜は夢を見ないかもしれない、と思った。
昨夜の夢の続きが、もう現実の中にあるから。
外の風が、細く鳴いていた。
雪丸の寝息が、部屋に満ちていた。
千歳は右手を、胸の上に置いたまま目を閉じた。




