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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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7/12

第七章 白狼神の手

 熱は、翌朝には下がっていた。

 目が覚めると体が軽く、昨日の重さが嘘のようだった。雪丸は千歳の足元で丸くなったまま、まだ眠っている。障子の向こうが白く明るいのは、雪の照り返しか、あるいは今日は晴れているのかもしれない。

 千歳はそっと身を起こした。

 頭が痛くもなく、体がだるくもない。ただ、夢をたくさん見た後のような、少し夢と現実の境目が曖昧な感覚がある。

 夢を見ていた。

 内容は薄かったが、温かかった。誰かの手が傍にある夢だった。

 千歳は自分の額に触れた。

 昨夜、朔がここに手を置いた。ひんやりとしていて、でも落ち着く温度だった。夢の中の手が、それと同じ感触をしていた気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも今朝の千歳には、それが夢だったのか現実だったのか、少し判断がつかなかった。


 紅葉が朝食を運んできたとき、千歳は既に着替えを済ませて座っていた。

「熱は下がりましたか」

「はい。おかげさまで」

「顔色もいいですね。ならよかった」

 紅葉は膳を置きながら、千歳の顔をさっと見た。何かを確かめるような目だったが、すぐに視線を膳に戻した。

「あの、紅葉さん」

「はい」

「昨夜、朔様がいらしてくださいましたよね」

「はい。わたくしが呼びに行きました」

「しばらく、部屋にいてくださって」

「……そうですか」

 紅葉の答え方が、少し慎重だった。

「どのくらい、いらしたのでしょう」

「さあ。わたくしは廊下で控えておりましたから、詳しくは」

 千歳は紅葉の顔を見た。

 何かを知っていて、言わない顔をしていた。

「紅葉さん」

「はい」

「教えてもらえないのですか?」

「何を、でしょう」

「朔様が、いつまでいらしたのか」

 紅葉はしばらく黙った。

 それから、ゆっくりと答えた。

「千歳様がお眠りになってから、しばらくの間はいらっしゃいました。それだけ申し上げておきます」

 それだけで、千歳は満足だった。

 眠った後も、朔はそこにいた。

 用件があって来たなら、千歳が眠ったところで帰ればいい。でも帰らなかった。眠るのを確かめてから、それでもしばらくいた。

「……そうですか」

「それ以上は、ご自分でお確かめください」

 紅葉はそれだけ言って、膳の前から退いた。その横顔に、かすかな微笑みがあった。


 朝食の後、千歳は縁側に出た。

 今日は晴れていた。

 雲が少なく、冬の青空が広がっている。雪の上に日差しが落ちて、あちらこちらで光が散っていた。梅の古木の枝も白く輝いて、枝の先が細く尖って見えた。

 昨日とは全然違う空だった。

 千歳はしばらく、その景色を見ていた。

 昨夜のことを考えていた。

 朔が傍にいた。眠るまで、あるいは眠ってからもしばらく。それが何を意味するのかを、千歳はまだうまく整理できない。

 でも、温かかった。

 それだけは確かだった。

 人の温かさとは少し違う。神のそれだから当然かもしれないが、ただそこにいてくれるだけで、体の中の不安が除かれていく感じがあった。

「ちとせ!」

 雪丸が縁側を駆けてきた。勢いよく飛びついてきて、千歳は慌てて受け止めた。

「起きてた! よかった」

「昨日より元気ですよ」

「ほんと?」

「本当です」

 雪丸は千歳の顔を覗き込んで、鼻をすんすんさせた。

「においが、もどってる」

「においが?」

「熱があると、においがかわる。ちとせのがなくなって、あつい感じのにおいになる。でも今日は、ちとせのにおいがする」

「そういうことが分かるの」

「うん。ぼく、においでいろいろわかる」

「昨夜、雪丸もそこにいてくれましたよね」

「うん。ずっとちとせのそばにいた」

「ありがとう」

「さくもいた」

 千歳は、雪丸の頭を撫でる手を少し止めた。

「知っています」

「さく、ながくいた」

「……そうですか」

「ちとせのてを、にぎってた」

 千歳の手が、止まった。

「雪丸、今なんと言ったの」

「さくが、ちとせのてを、にぎってた」

 あっさりと繰り返した。

 千歳は自分の手を見た。

 右手だった。昨夜から、何となく右手が温かい気がしていた。夢の中で手の感触があったのも、右手だった気がする。

 夢ではなかった。

 朔が、千歳の手を握っていた。

 いつからいつまでかは分からない。千歳が眠り落ちた後のことだから、千歳には何も分からない。でも、あの感触が夢ではなく現実のものだったなら。

 顔が、少し熱くなった。

「雪丸、それは本当ですか」

「うん。ほんと。ぼく、ちゃんとみてた」

「見ていたの」

「うん。さく、ちとせのて、そっとにぎって、ながいあいだいた。それから、ゆっくりはなして、かえった」

 千歳は何も言えなかった。

 朔が。あの無口で、必要以上のことは何も言わない朔が。

 眠っている千歳の手を、そっと握っていた。

「雪丸、そのことを朔様は知っているの。あなたが見ていたこと」

「しらないとおもう。ぼく、ねたふりしてた」

「ねたふり」

「うん。おきてたら、さく、しないとおもって」

 千歳は雪丸を見つめた。

 この仔狼は、思っていたよりずっと、何かを分かっている。

「……雪丸、あなた、なかなか策士ですね」

「さくし?」

「賢いということです」

「ほめてる?」

「褒めています」

 雪丸はしっぽをパタパタと振った。


 昼前に、紅葉から外出の許可が出た。

 屋敷の中庭までなら、という条件付きだったが、千歳には十分だった。昨日は外へ出られなかったから、体を動かしたかった。

 中庭に出ると、梅の木の前でしばらく立った。

 枝の先を、じっと見る。

 まだ芽は固い。でも、ほんの少しだけ、膨らみが増した気がする。気のせいかもしれないが、朔が毎年必ず咲くと言っていたから、きっと咲くのだろう。

 朔のことを考えていた。

 昨夜のことを、どう受け取ればいいのか、千歳にはまだ分からなかった。

 花嫁が病に倒れたから、様子を見に来た。それは分かる。でも、眠った後まで手を握っていたのは。

 役目のためとは、少し違う気がした。

 でも違うと思うのは、千歳が思いたいからそう思うのかもしれない。自分の都合のよい解釈かもしれない。

 千歳はそこで、自分の考えに気がついた。

 思いたい、と思っている。

 朔が、役目のためではなく、自分を心配してくれたと、思いたいと思っている。

 それはつまり。

 千歳は梅の枝から目を離して、遠くの空を見た。

 雲のない青が、どこまでも続いていた。


 夕餉は、また皆で広間に揃った。

 昨日は熱で食べられなかったから、今日は久しぶりの食卓だった。

 朔は少し遅れてやってきた。千歳と目が合うと、一瞬だけ何かを確かめるような目をして、それからゆっくりと上座に座った。

「体は」

「はい。すっかり良くなりました」

「そうか」

 それだけだった。

 でも昨夜のことを知っている今の千歳には、その短い問いかけが、昨日とは違って聞こえた。

 紅葉が膳を並べながら、さりげなく言った。

「今日は千歳様のご回復を祝って、少し良いものを用意しました」

「回復を祝って、というのは大げさでしょう」

「そんなことはありません。昨日の千歳様の顔色は相当でしたから」

 志乃が千歳の隣でうなずいた。

「千歳、まっしろだった」

「そんなに悪かったのですか」

「しらべみたいな色だった」

「雪みたいな、でしょう」

「そう。しろくて、とおかった」

 雪丸が足元から言った。

「ぼく、しんぱいした」

「ごめんなさい、心配させて」

「もうしないで」

「気をつけます」

 賑やかなやり取りが続いて、千歳は少し笑った。

 ふと気づくと、朔がこちらを見ていた。

 すぐに視線を外したが、確かに見ていた。千歳が笑ったのを、見ていた。

 昨日、雪丸が言っていた。千歳が来てから、朔がこちらを見るようになった、と。

 今がまさに、そういう瞬間だったと思った。

「朔様」

 千歳は声をかけた。

 朔はゆっくりとこちらを向いた。

「昨夜は、ありがとうございました」

「……何のことだ」

「来てくださったこと。そばにいてくださったこと」

 朔は何も言わなかった。

 視線を、膳の上に落とした。

「花嫁が倒れたのだから、当然だ」

「そうですね。でも……嬉しかったです」

 朔はわずかに、体が固まった気がした。ほんの一瞬のことで、すぐに元に戻ったが、千歳には見えた。

「……そうか」

「はい」

 それきり、朔は黙った。

 でも今夜は、食事が進んでいた。昨日より箸が動いていた。

 紅葉が横でまた、ひっそりと微笑んでいた。


 夕餉の後、千歳は一人で部屋へ戻った。

 廊下を歩きながら、少し遠回りをした。

 書院の前を通ったとき、灯りがついていた。朔がいるのだろう。障子の向こうに、人の影が見える。文机に向かっているらしく、動かずにいる。

 千歳は少しの間、そこで立っていた。

 昨夜、あの人は千歳の手を握っていた。

 眠っているから分からないと思って、握っていた。誰にも見られていないから、していた。

 それはつまり、誰かに見られてしまったら、しないことだ。

 隠していること、ではないかもしれない。ただ、意識的にしていることでもない。もしかしたら朔自身も、自分がそうしていたことを、どう説明していいか分からないのかもしれない。

 千歳は廊下をそっと歩いて、部屋へ向かった。

 書院の前を通り過ぎる際、中の影が少し動いた気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも千歳は、歩きながら自分の右手を、そっと左手で包んだ。

 昨夜の温度が、まだそこにある気がした。


 部屋に戻ってから、千歳は行灯の前に座った。

 刺繍の布を取り出したが、今日は針を動かせなかった。

 考えていた。

 朔のことを。

 この五日でも七日でもない、もっと長い時間をかけて、この人を知りたいと思っている自分がいる。それがどういう感情なのかを、千歳はまだ言葉にできない。

 都の屋敷では、誰かのことを知りたいと思ったことがなかった。知ろうとしても、千歳が近づくと相手が遠のいていったから。

 でも朔は、遠のかない。

 距離はある。言葉も少ない。でも、遠のいていかない。

 それどころか、昨夜は手を握っていた。

 千歳は布を膝に置いたまま、行灯の火を見た。

 揺れているのに、消えない。

 あの梅の木みたいだ、と思った。

 寒い冬の中で、毎年必ず咲く。

 千歳には、そういうものが何もなかった。変わらずそこにあるものが、何もなかった。

 でも今、この行灯の火が揺れているのを見ながら、何かが変わらずそこにある気がした。

 朔が握っていた右手の感触。

 それがまだ、ここにある。

 雪丸がやってきて、千歳の膝に頭を乗せた。

「ちとせ、なにかんがえてる」

「秘密です」

「ひみつ?」

「大人の秘密です」

「ぼく、おとなだよ」

「雪丸は子どもです」

「こどもじゃない」

「では、こっそり教えます」

 千歳は雪丸に顔を近づけて、耳元でそっと言った。

「朔様のことを、考えていました」

 雪丸はしっぽをパタパタと振った。

「しってた」

「なぜ」

「においでわかる」

「どんな匂いがしていたの」

「あたたかいにおい」

 千歳は少し笑った。

 温かい匂い。

 自分でも気がつかないうちに、そういう気持ちが滲み出ていたのかもしれない。


 夜が深くなってから、廊下で足音がした。

 朔の足音だと、千歳にはもう分かった。この屋敷の誰とも違う、静かで均一な歩き方。

 足音は千歳の部屋の前で、わずかに遅くなった。

 止まりはしなかった。遅くなっただけで、またすぐに遠ざかっていった。

 でも確かに、遅くなった。

 千歳は行灯の火を見つめたまま、耳を澄ませた。

 足音が遠ざかって、聞こえなくなった。

 それから千歳は、そっと右手を胸の前に持ってきた。

 昨夜、朔がここを握っていた。眠っている千歳には分からないように、でも確かに握っていた。

 それが今の千歳には、何よりも雄弁に思えた。

 言葉の少ない人が、言葉にしないことの中に、伝えているものがある。

 千歳にはそれが、少しずつ見えてきていた。

 行灯を落として、布団に入った。

 今夜は夢を見ないかもしれない、と思った。

 昨夜の夢の続きが、もう現実の中にあるから。

 外の風が、細く鳴いていた。

 雪丸の寝息が、部屋に満ちていた。

 千歳は右手を、胸の上に置いたまま目を閉じた。

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