第六章 雪兎の導き
その朝、志乃が千歳の部屋の前に立っていた。
朝食の前だった。千歳が身支度を終えて障子を開けると、廊下の真ん中に志乃がいて、じっとこちらを見ていた。
「志乃、どうしたの」
「千歳に、見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「神域の奥の、朔さまも行かない場所。志乃だけが知ってる」
千歳は少しためらった。
古い祠のことがある。あの時は体に力が入らなくなって、朔に支えてもらった。同じことになっては、また迷惑をかける。
「遠いの?」
「遠くない。でも、普通の人には見えない道を通る」
「わたしには見えるの」
「たぶん。千歳はふつうじゃないから」
志乃は確信を持って言う。
千歳は少し考えてから、頷いた。
「朔様には、一言伝えてから行っていいですか」
志乃はうれしそうに笑った。
朔は早朝から見廻りに出ていて、留守だった。
紅葉に伝えると、紅葉はわずかに眉を寄せた。
「志乃に連れられてどこかへ、というのは少し心配ですね。この前もありましたから」
「今度は遠くないと言っていました。それに前回のこともありますから、無理だと思ったら戻ってきます」
「……では、これを持っていってください」
紅葉は部屋へ戻って、小さな布袋を持ってきた。
「温めた石が入っています。体が冷えたら握ってください。それと」
紅葉は千歳をまっすぐに見た。
「少しでも変だと思ったら、すぐ戻ること。志乃の感覚は正しいことが多いですが、土地の奥は何があるか分かりません」
「はい」
「約束してください」
「約束します」
紅葉はもう一度だけ千歳を見てから、頷いた。
志乃に連れられて、千歳は屋敷の外へ出た。
表の門からではなく、北の端にある小さな潜り戸を抜けた。扉は古く、蝶番が軋んだが、鍵はかかっていなかった。
外は、屋敷の中とは全然違う空気だった。
冷たさが鋭い。肌に直接触れてくるような、刃物じみた冷気だ。でも不快ではなかった。澄んでいて、一息吸うたびに肺の中が洗われるような感覚がある。
「こっち」
志乃が歩き出した。
雪の上に、道らしい道はなかった。でも志乃は迷いなく進んでいく。木々の合間を縫うように、時には雪の吹き溜まりを避けるように、軽い足取りで歩いていった。
千歳も後をついた。
しばらく進むと、景色が変わってきた。
屋敷の周辺には手入れされた木々があったが、ここは違う。太い幹が不規則に立ち並び、枝が複雑に絡み合って、空を狭めている。それでも雪は降り込んでいて、古い落ち葉の上に白が積もっていた。
「ここは、神域の中ですか」
「うん。でも朔さまの管理が届きにくい場所」
「なぜ届きにくいの」
「昔のことが、たくさん沈んでいるから。重すぎて、手を入れにくい」
志乃はそれだけ言って、また歩き出した。
千歳はその言葉を、心の中で繰り返した。
昔のことが沈んでいる。
古い祠で感じた、あの重さと同じものだろうか。それよりも深く、あるいは広く、この場所に染み込んでいるものがある。
足の裏から、じわりと伝わってくるものがあった。
重い。でも今日は、前回よりも自分の中で落ち着いている気がした。慣れたのかもしれないし、覚悟ができているからかもしれない。
「もうすぐ」
志乃が言った。
木々が途切れた先に、開けた場所があった。
円形に近い形で、直径は十間ほどだろうか。周囲を古い木に囲まれていて、まるで自然に作られた小さな広場のようだった。雪が深く積もっていて、足首を超えるほどある。
中心に、石があった。
大きな、平たい石だった。祠でも碑でもなく、ただの石なのに、それがそこにあることで場所の意味が変わって見える。石の上の雪だけが、不思議と薄かった。
「ここ」
志乃は千歳の隣に並んだ。
「ここが、何なの」
「むかし、神さまがいた場所」
「朔様とは別の神様?」
「うん。ずっとむかし、この土地を守っていた神さま。でも、いなくなった」
「なぜいなくなったの」
志乃は少し黙った。
「人が来なくなったから」
静かな答えだった。
「人が来なくなったから、神様がいなくなった……」
「神さまは、人の祈りで生きてる。祈りがなくなると、少しずつ薄れていく。消えるんじゃなくて、薄れていくの」
「それが、この土地の穢れと関係しているの」
「うん。薄れていった神さまの痛みが、土地に残ってる。朔さまが来てから、それ以上ひどくならないように抑えてくれてるけど、根っこはまだある」
千歳は石を見た。
近づきたいと思った。触れてみたいと思った。でも前回のことを思って、少し自分を抑えた。
「近づいても、大丈夫だと思う」
志乃が言った。
「ここはあの祠より、穏やかだから。痛みがあるけど、叫んでない」
「叫んでない」
「うん。祠のはもっと強かった。ここのは、ただしんみりと悲しんでる感じ」
千歳は一歩、また一歩と、石へ近づいた。
足元の雪が深く、踏み込むたびに沈む。それでも確かめながら進んで、石の前まで来た。
傍らに立つと、伝わってくるものがあった。
志乃の言ったとおり、叫んでいるような激しさはなかった。ただ、長い時間をかけて積み重なってきた静かな重さがある。雨の日に濡れた土が重くなるように、少しずつ少しずつ、積もってきたものの重さ。
「……悲しいね」
千歳は思わず声に出した。
「うん」
志乃が隣に立った。
「だれも来ないのに、ここにいる。ずっと、ここにいる」
「志乃は、ここに来ることがあるの」
「たまに。来るたびに、少し重くなってる気がする。でも志乃にはどうしてあげることもできないから」
志乃の声は、いつもより静かだった。
千歳は石に手を伸ばした。
今度は急がなかった。指先でそっと、石の表面に触れる。
流れ込んでくるものがあった。
前回の祠のように激しくはなかった。ゆっくりと、水が砂に染み込むように伝わってくる。
映像ではなかった。
感覚だった。
祈りの感触。誰かが手を合わせる、その温もりのようなもの。たくさんの人が来て、この石の前で頭を垂れていた。その記憶が、石の中に薄く残っている。
それがだんだん、減っていく。
一人、また一人と来なくなる。石の前に供えられていた花が枯れて、そのままになる。灯篭の火が消えて、誰も点け直しに来ない。
その間中、石はここにある。
動くこともなく、消えることもなく、ただここにある。誰も来なくても、ここにあり続けている。
千歳の目の奥が、熱くなった。
泣きそうだと気がついたとき、すでに一筋、頬を伝っていた。
「……千歳、ないてる」
志乃の声がした。
「ごめんなさい、少し」
「泣いていい。悲しい場所だから」
千歳は指を離さないまま、目を拭った。
石から伝わってくるものは、続いていた。でも触れていると、何かが少しずつ変わっていく気がした。
固く閉じていたものが、ほんの少し、息をする。
重さが、少しだけ軽くなる。
それは千歳が何かをしているというよりも、千歳が触れていることで、石の中のものが誰かに届いたと感じているような、そういう感覚だった。
聞いてもらえた、と感じているような。
千歳はしばらくそのまま立っていた。
指先が冷たかったが、離したくなかった。
どのくらいそうしていたのか、分からない。
志乃が千歳の袖を引いた。
「千歳、顔が白い」
言われて、千歳は石から手を離した。
体が、少し揺れた。前回ほどではないが、足元がふわりとする感覚がある。
「座る。あそこ」
志乃が木の根元を指さした。
千歳は志乃に支えられるようにして、根元の雪をはいた場所に腰を落とした。紅葉にもらった温かい石を取り出して、両手で包む。熱が手のひらに伝わってきた。
「ありがとう、志乃」
「だいじょうぶ?」
「はい。今日は前よりずっとましです」
「そう。でも休んで」
志乃は千歳の隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
木々の合間から、風が細く通り過ぎていく。雪の粒が、さらさらと枝から落ちた。
「志乃」
「なに」
「あの石の中に、誰かがいたの」
「いた、というより……残ってる、かな。ここにいた神さまの、かけら」
「そのかけらが、まだここにいる」
「うん。行けないんだと思う。祈りがなくなって、薄れて、でも消えきれなくて、ここにいる」
「消えきれない理由は」
「……分からない。でも志乃は、思うんだけど」
志乃は少し考えるような顔をした。
「誰かに、ちゃんと終わりにしてもらえなかったから、じゃないかな。誰も来なくなって、でも誰も、終わりにしてあげなかった。だからここにいる」
千歳は石を見た。
誰かに終わりにしてもらえなかった。
「終わりにする、というのは」
「ちゃんとお別れすること。ありがとうって言うこと。それだけでいいと思う。でも誰もしなかった」
千歳は、その言葉がどこかに刺さる感覚を覚えた。
終わりにしてもらえなかったものが、ここにいる。
それは、千歳が都の屋敷に置いてきたものと、少し似ていた。
誰にも別れを告げてもらえなかった。誰かがちゃんと、千歳がそこにいたことを見届けてくれなかった。
それが自分には関係のないことだと思っていたのに、この石の重さを感じていると、なぜか自分のこととして伝わってくる。
「千歳に、会えてよかった」
志乃が言った。
「急に、どうして」
「ここに来られる人、いなかったから。朔さまも近づけないし、紅葉も来ない。でも千歳は来られた。ここのかけらも、きっとよかったと思ってる」
千歳は石をもう一度見た。
さっきより、何かが軽くなっている気がした。気のせいかもしれない。でも、来る前と確かに違う。
「また来てもいいですか、ここに」
「いつでも。志乃が連れてきてあげる」
屋敷に戻ったのは、昼少し前だった。
潜り戸をくぐって中へ入ったとき、廊下の向こうから足音が来た。
朔だった。
見廻りから戻ったばかりらしく、羽織の肩に雪がついている。千歳と目が合った瞬間、朔は足を止めた。
一瞬だけ、何かを確かめるように千歳を見た。
「……どこへ行っていた」
「志乃に連れられて、神域の奥へ。朔様が管理されていない場所があると聞いて」
「奥の、円形の場所か」
「はい」
朔の表情は変わらなかった。でも、目の奥が少し動いた気がした。
「体は」
「少し疲れましたが、今日は大丈夫です。前回のようにはなりませんでした」
「そうか」
朔は千歳の顔をもう一度見てから、歩き出した。
通り過ぎる際、一言だけ言った。
「顔が冷えている。温かいものを飲め」
それだけだった。
千歳は朔の背中を見てから、自分の頬に触れた。
確かに冷たかった。
昼餉の後、千歳は部屋で横になった。
疲れてはいるが、眠れなかった。
天井を見ながら、今日のことを思っていた。
あの石の中にいたもの。長い時間、誰も来ない場所でただそこにあり続けていたもの。志乃は終わりにしてもらえなかったから、と言った。
千歳に、何かできることがあるだろうか。
力があると言われている。でも何をすれば終わりにしてあげられるのか、千歳にはまだ分からない。触れることで少し楽になるなら、また来ればいい。それだけでも、意味があるかもしれない。
雪丸が入ってきた。
「ちとせ、ねてた?」
「起きてます」
「かおいろ、わるい」
「そうですか」
「さく、しんぱいしてた」
「また朔様が?」
「うん。ちとせが外から帰ってきたとき、ずっとみてた」
「朔様は、わたしのことが心配なのではなくて、花嫁が無事かを確認しているのだと思いますよ」
「ちがう」
雪丸は断言した。
「ちがうの?」
「さくは、ちとせのこと、みてる。ちとせのことが、しんぱい」
「どうして分かるの」
「ぼくには、わかる」
それだけ言って、雪丸は千歳の腹の上に乗ってきた。重かったが、暖かかった。
千歳は目を閉じた。
朔が心配している。
それが本当かどうかは分からない。でも、雪丸がそう言うなら、何か根拠があるのだろう。
今朝、書院に朔はいなかった。でももし戻ってから、千歳がいないことを知って、確認しに来たなら。
顔が冷えている、温かいものを飲め。
あの言葉は、そういうことだったのだろうか。
夕方、熱が出た。
最初は少し体が重いだけだと思っていた。夕餉の支度を手伝おうと立ち上がったとき、足元がふらついた。
紅葉にすぐ見つかった。
「顔が赤い。熱があります」
「少し出てしまったみたいで」
「少し、ではないですね」
紅葉は千歳を部屋に戻らせて、布団に寝かせた。
「やはり、今日の外出が早かったかもしれません」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです。ただ……朔様に言わなければなりませんね」
「言わなくても」
「言います」
紅葉はきっぱりと言った。
「朔様はこういうことに厳しいのです。花嫁が体を壊したとなれば」
「わたしのためではなく、花嫁としての役目のためですよね?」
千歳が問いかけると、紅葉は少し黙った。
「……今はそういうことにしておいてください」
意味深な言い方だった。
千歳は布団の中で、それ以上追わないことにした。
夜になって、朔が来た。
部屋の外で紅葉と話す声が聞こえた。それから障子が開いて、朔が入ってきた。
千歳は体を起こそうとしたが、朔が手で制した。
「そのままでいい」
「ご迷惑を……」
「黙れ」
乱暴な言い方ではなかった。ただ、余計なことを言うなという、静かな圧があった。
朔は千歳の傍らに座った。
千歳は横になったまま、朔の顔を見上げた。いつもより近い。金の瞳が、千歳を見ている。
「どこへ行った」
「朝、志乃に連れられて。神域の奥に、円形の開けた場所があって、そこの石に触れたら」
「力を使ったか」
「使ったというより、触れたら伝わってくるものがあって。前回ほどではなかったのですが」
「それで熱が出た」
「はい。すみません」
「謝るなと言っている」
朔は短く言ってから、千歳の額に手を置いた。
大きな手だった。ひんやりとしていて、でもそこから何か落ち着くものが伝わってきた。前に、倒れかけた千歳を支えたときと同じ感触。
「……熱い」
「そうですか」
「あの場所に何があったか、分かるか」
「志乃から聞きました。昔、この土地を守っていた神様のかけらが残っていると」
朔は黙った。
「知っていたのですか」
「……ああ」
「ずっと、そこにあるのを知っていた」
「知っていた。だが俺には、どうすることもできなかった」
朔の声に、珍しく何かが混じっていた。
悔いのような、諦めのような、それでいてまだ手放していないような、複雑な色だった。
「千歳は、あの場所で何かしたか」
「触れただけです。でも……少し、楽になった気がしました。あそこにあるものが」
朔はわずかに目を細めた。
「そうか」
「わたしにできることがあれば、また行きたいのですが」
「今はだめだ」
「でも」
「体が戻ってからだ。それまでは行くな」
千歳は反論しかけて、やめた。
体が戻ってからだと言った。つまり、回復したら行くことは許してくれるということだ。
「……分かりました」
朔は千歳の額から手を離した。でも立ち上がらなかった。
しばらく、黙ったまま傍にいた。
千歳は少し意外だった。用件を伝えたなら、帰るだろうと思っていた。でも朔はそこにいた。
「朔様」
「なんだ」
「なぜ、ここにいらっしゃるのですか」
朔は答えなかった。
少しの間があって、
「……うるさい」
と言った。
千歳は目を丸くした。それから、少し笑いそうになった。
うるさい、という言葉の意味が、この場合よく分からない。でもその言い方は、照れているときに言葉を見つけられない人の、そういう感じがした。
「すみません」
「眠れるか」
「はい、たぶん」
「眠れ。夜中に何かあれば雪丸が気がつく」
「はい」
朔は立ち上がった。
障子へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
「無理をするな、と言った」
「はい」
「聞いていなかったのか」
「……ちゃんと聞いていました。でも、あそこにあるものを放っておけなくて」
朔は千歳を見た。
長い沈黙だった。
「……そういうやつだったか」
独り言のような言い方だった。
怒っているのでも、呆れているのでもなく、何か確かめたことがあったような、そういう声だった。
それから朔は障子を開けて、出ていった。
廊下に朔の足音が遠ざかっていく。
雪丸がどこからか現れて、千歳の布団の上に乗ってきた。
「さく、おこってた?」
「怒っていたのかな、あれは」
「ちがうとおもう」
「そうね。わたしも、違うと思う」
千歳は目を閉じた。
額に、まだ朔の手の感触が残っていた。
ひんやりとしていて、でも確かに温かかった。そういうものが、あの人の手にはある。
外では風が出てきて、雪が窓を叩いていた。
でも今夜の寒さは、最初の夜より遠かった。
雪丸の重みを感じながら、千歳はゆっくりと眠りに落ちていった。




