第五章 閉ざされた心
朝、千歳は夢を見た。
都の屋敷の廊下を歩いている夢だった。
長い廊下で、どこまで行っても終わりがない。歩いても歩いても同じ景色が続いて、すれ違う人は皆、千歳の存在に気づかない。声をかけても聞こえていない。触れようとすると、するりと手をすり抜けていく。
自分はここにいる、と言いたかった。
でも言葉が出なかった。
目が覚めたとき、部屋は薄暗かった。夜明け前らしく、障子の向こうがまだ深い青をしている。足元では雪丸が丸くなって眠っていて、その小さな寝息だけが聞こえていた。
千歳はしばらく天井を見ていた。
夢の感触が、まだ体に残っていた。あの廊下の冷たさと、誰にも届かない声の感覚。
でも今、足元には雪丸がいる。
千歳はそっと手を伸ばして、白い毛並みに触れた。温かかった。雪丸は目を覚まさず、ただ小さく鼻を鳴らした。
それで、夢の残滓が少し薄れた。
朝食の後、千歳は朔を探した。
正確には、探したというより、話しかける機会を待っていた。
昨日から考えていたことがあった。この屋敷に来て五日が経ち、ある程度の暮らしには慣れてきた。紅葉や雪丸や志乃とも、少しずつ打ち解けてきている。でも、朔のこととなると、千歳にはまだ何も分からないままだった。
なぜ自分が選ばれたのか。
それを、聞こうと思っていた。
紅葉には「力と無関係ではないだろう」と言われた。でも全てではないとも言っていた。朔本人に聞いてみなければ、本当のことは分からない。
朔は午前中、書院にいることが多い。紅葉にそう聞いていた。
千歳は廊下を進み、書院の前で足を止めた。
障子越しに、気配がある。
「朔様、よろしいでしょうか」
少しの間があった。
「入れ」
千歳は障子を開けた。
朔は文机の前に座っていた。広げた書物に目を落としていたが、千歳が入ると顔を上げた。金の瞳が、こちらを向く。
「何か用か」
「少し、お聞きしたいことがあって」
「聞け」
短い許可だった。
千歳は敷居の内側に入り、少し離れた場所に座った。
「わたしが、ここへ嫁ぐことになった経緯を……教えていただけますか」
朔は何も言わなかった。
書物に視線を戻すでもなく、かといって千歳を見続けるでもなく、どこか中間の場所を見ている。
「家からは、辺境の神のもとへ嫁ぐようにとだけ言われました。なぜわたしが選ばれたのかは、教えてもらえなくて」
「……それを、俺に聞くのか」
「朔様が選ばれたのであれば、朔様が一番ご存じだろうと思いまして」
また間があった。
今度は長かった。
朔は千歳から視線を外して、窓の外を見た。書院の窓からは、雪に覆われた裏の庭が見える。枯れた草の上に白が積もり、何もない景色が広がっていた。
「……おまえの家から話があった。この神域の花嫁として、娘を差し出すと。条件は、神域の安定に寄与できる者であること」
「寄与できる者、というのは」
「鎮めの力を持つ者だ」
千歳は冷静に、朔のその言葉を受け取った。
「わたしにそういう力があることを、家は知っていたのですか?」
「おそらくは。知っていて、厄介払いと合わせて寄越した」
直接的な言い方だった。
千歳は胸の中に何かが落ちる感触を覚えた。痛みとは少し違う。確かめたくなかったことが確かめられた、そういう感触だ。
「そうですか」
「……傷つくか」
千歳は少し驚いた。朔がそういう問いかけをするとは、思っていなかった。
「傷つく、というより……やはりそうだったかと思っています」
「知らないほうが良かったか」
「いいえ。知りたかったから聞いたのですから」
朔は千歳をまた見た。
何かを測るような目だった。
「朔様は、わたしをここへ迎えることに、異存はなかったのですか?」
「……それは、どういう意味だ」
「力のある花嫁を寄越すと言われて、受け入れた。でも朔様自身は、どう思っていらしたのか」
朔は少しのあいだ、黙った。
「神域に必要だと判断した」
「それだけですか」
「……それだけだ」
答えは明確だった。
千歳は頷いた。それ以上は聞かなかった。
神域に必要だから迎えた。力があるから必要だ。家が厄介払いに寄越したのと、動機の根は変わらない。千歳はここでも、役に立てるから置いてもらえる。
分かっていたことだ。
分かっていたのに、なぜか今日はそれが、少し重かった。
「失礼しました」
千歳は頭を下げて、立ち上がりかけた。
「千歳」
朔が呼んだ。
千歳は動きを止めた。
「何でしょう」
「……無理はするな」
それだけだった。
前に一度、同じ言葉を言われた気がした。意味が同じなのか違うのか、千歳には判断できない。でも朔が言い添えたのは、何か言わなければならないと思ったからだろう。
「はい」
千歳はそう返して、書院を出た。
廊下を歩きながら、千歳は自分の気持ちを整理しようとした。
悲しいのか、と問えば、そこまでではない。
失望したのか、と問えば、それも違う。
ただ、やはりそうだったか、という静かな確認だった。
役目があるから、ここにいる。力があるから、必要とされる。それは都の屋敷と形は違えど、根は似ていた。
でも、と千歳は思う。
紅葉が言っていた。力があることと、ここにいることは別のことだと。
雪丸は理由を言わずに懐いてくれる。志乃は一緒に刺繍をしたいと言った。澄江は千歳の提案を喜んで受け入れてくれた。
朔は、今日も「無理はするな」と言った。
神域の花嫁が消耗してはならないという意味かもしれない。でも。
千歳は廊下の窓から、中庭を見た。
梅の古木が、いつもと変わらず立っている。
あの木は、どんな冬でも必ず花を咲かせると、朔は言っていた。
それを、あの人はどんな目で見てきたのだろう。
長い時間、ひとりでこの土地を守りながら、変わらず咲く梅を見てきたのだろうか。
午後、紅葉が千歳の部屋を訪ねてきた。
千歳が刺繍の続きをしていると、障子を開けて、茶を持って入ってきた。
「少しよろしいですか」
「はい、どうぞ」
紅葉は千歳の向かいに座って、茶を置いた。
「朔様のところへ行かれていましたね」
「……見ていらしたのですか」
「廊下ですれ違いましたから」
千歳は茶を受け取った。温かかった。
「お聞きになりましたか、嫁入りの経緯を」
「はい」
「そうですか」
紅葉は自分の茶に視線を落とした。
「朔様は、正直に答えられましたか」
「はい。率直に」
「それは……朔様らしい」
紅葉の言い方に、少し複雑なものが混じっていた。
「紅葉さん」
「はい」
「朔様は、本当にそれだけなのでしょうか。神域に必要だから、それだけ」
紅葉は少しのあいだ、沈黙した。
「朔様がそうおっしゃったなら、今はそういうことなのでしょう」
「今は、というのは」
「今の朔様にとっては、そう整理されているということです。千歳様」
紅葉は千歳を見た。
「朔様は長いあいだ、誰かを特別に思うということをされてきませんでした。する必要がなかった、というより、する余裕がなかったと思います。ひとりで土地の穢れを抑え続けてきた方ですから」
「それは……」
「だからといって、これからもそうだとは言っていません」
紅葉は茶を一口飲んだ。
「千歳様は、ここへ来て何日ですか」
「五日です」
「五日で、朔様を知ろうとするのは、少し急ぎすぎかもしれません」
それは正論だった。
「そうですね。焦っていたかもしれません」
「焦ることは悪いことではありませんが……千歳様、ひとつだけ聞いてよいですか」
「はい」
「なぜ知りたいと思われたのですか」
千歳は少し考えた。
「最初は、自分の立場を確かめたかったのだと思います。役目として来た以上、その役目の中身を知りたかった」
「最初は、と言われましたが」
「……今は、少し違うかもしれません」
「どう違いますか」
千歳は窓の外を見た。
「朔様が、どういう方なのかを知りたい気がして。役目とは別に」
言ってから、少し恥ずかしくなった。会って五日の相手に、こんなことを思うのは早すぎる。
でも紅葉は笑わなかった。
「そうですか」
ただそれだけ言って、茶を飲んだ。
その目が、少しだけ穏やかになった気がした。
夕方近く、千歳は縁側で雪丸と一緒に日の暮れるのを見ていた。
今日は珍しく雲が少なく、西の空が薄い橙に染まっていた。雪の上に夕日が伸びて、白かった庭が淡く金色に変わっていく。
雪丸が千歳の膝の上で、眠そうに目を細めていた。
「ねえ、雪丸」
「なに」
「朔様は、ひとりでいることは寂しくないのかな」
雪丸はしばらく考えるような顔をした。
「さく、さびしいかは、わからない」
「分からないの」
「でも、まえより、すこしちがう」
「何が違うの」
「ちとせが来てから、さく、ときどきこっちみる」
「こっちって、わたしを?」
「うん。ちとせのいるほうを、みてる。むかしはしなかった」
千歳は何も言えなかった。
雪丸は特に意味を込めた様子もなく、あくびをして目を閉じた。素直に言葉にするから、かえって重みがある。
朔がこちらを見ている。
千歳は気づいていなかった。でも雪丸には分かるのだろう。眷属として長く傍にいるから、主人の小さな変化に気がつく。
どういう意味で見ているのかは、分からない。
ただの確認かもしれない。花嫁として迎えた存在が、どう馴染んでいるかを確かめているだけかもしれない。
でも、と千歳は思った。
見ていてくれる人がいる。
それだけで、少し違う気がした。
その夜の夕餉に、珍しいことが起きた。
食事を終えた後、皆がまだ広間にいる時間に、朔が席を立たなかった。
いつもは食べ終えると早々に書院か自室へ戻っていく。その夜は違った。茶を手にしたまま、どこかを見ていた。
雪丸が朔の傍らへ寄っていき、前足をその膝に乗せた。朔は視線を下げて、雪丸の頭に無言で手を置いた。
志乃が千歳の横で、こそりと言った。
「珍しい」
「何が」
「朔さまが残ってる」
「いつもは行かれるのですか」
「すぐ行く。でも今日はいる」
千歳はそっと朔を見た。
朔は雪丸の頭を撫でながら、視線を上げた。千歳と目が合った。
千歳はとっさに視線を逸らしかけて、でも踏みとどまった。
逸らすことはない。ただ目が合っただけだ。
朔は何も言わなかった。
でも視線を外す前の一瞬、その金の瞳の中に、昨日まで見たことのない何かがあった気がした。
言葉にできないものだった。
温度、と言えば近いかもしれない。冷たくも熱くもない、でも確かにある、静かな温度。
「千歳様」
紅葉が茶を注ぎ足しながら言った。
「今日はいろいろとお疲れでしょう。ゆっくりお休みください」
「はい。ありがとうございます」
千歳は席を立った。
広間を出る前に、もう一度だけ振り返った。
朔はまだそこにいた。
雪丸の頭に手を置いたまま、今度は窓の外を見ている。夜の庭を見ているのか、それとも何か別のものを見ているのか。
千歳には分からない。
でも今日初めて、あの人のことを、もう少し知りたいと素直に思った。
役目として、ではなく。
居場所として、でもなく。
ただ、朔がどういう人なのかを。
部屋に戻ってから、千歳は行灯の前に座った。
今日聞いたことを、ゆっくりと整理した。
力があるから選ばれた。神域に必要だから迎えられた。それは事実で、否定できない。
でもそれだけが全てではないかもしれない、という気持ちも、今日ではじめて芽生えた。
紅葉の言い方、雪丸の言葉、そして広間で朔が残っていたこと。
一つひとつは小さなことだ。意味を読みすぎているだけかもしれない。
でも、千歳はここに来てから、少しずつ変わっている気がした。
ここにいたい、とまでは、まだ言えない。
でも、ここにいてはいけない理由も、今は見つからない。
千歳は行灯の火を見つめた。
揺れているのに、消えない。細い火なのに、ちゃんとここにある。
雪丸が今夜も廊下から顔を出して、そのまま入ってきた。
「ちとせ、かおがかたい」
「そうですか」
「むずかしいこと、かんがえてた?」
「少し」
「むずかしいことは、あした」
「そうですね」
雪丸は千歳の足元に転がった。すぐに目を閉じる。
千歳はその背を撫でてから、行灯を落とした。
暗くなった部屋に、雪丸の寝息と、遠くで風が過ぎていく音だけが残った。
明日もここにいる。
それだけを、今夜は思うことにした。




