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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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第四章 やさしい食卓

 翌朝、千歳は台所の前で立ち止まった。

 通り過ぎようとして、中から聞こえる音に足が止まったのだ。

 包丁の音。鍋の中で何かが煮える音。それから、小さな鼻歌のようなもの。誰かが料理をしながら、無意識に声を出している。

 千歳はしばらくそこに立っていた。

 都の屋敷では、台所は千歳が近づく場所ではなかった。家人の食事と千歳の食事は別に用意され、千歳が台所を覗くことは、なんとなく歓迎されていなかった。理由を言われたわけではない。ただ、近づくたびに使用人たちの動きがぎこちなくなるから、自然と足が向かなくなっていた。

「千歳様?」

 台所の中から、紅葉の顔が出てきた。

「こんなところで何を」

「あ、いえ、通りかかっただけです。音が聞こえたので」

「よろしければ中へどうぞ。ちょうど今日の献立を考えているところです」

 紅葉は特に驚いた様子もなく、手招きをした。

 千歳は少しためらってから、台所へ入った。


 中は思っていたより広かった。

 かまどが三つ並び、その前に年配の女が一人、鍋の番をしている。棚には乾物や味噌の壺が整然と並び、梁には干した薬草や根菜が吊るされていた。どこを見ても用途のないものがなく、でも窮屈な感じはしない。

「こちら、料理番の澄江です」

 紅葉が紹介すると、かまどの前の女が振り返った。五十がらみで、丸い顔に人のよさそうな目をしている。

「これはこれは、千歳様。お噂はかねがね」

「澄江さん、毎日ありがとうございます。お料理、どれも美味しくて」

 千歳が言うと、澄江はぱっと顔を明るくした。

「まあ、ありがとうございます。そう言っていただけると張り合いがございます」

「お出汁が特に。何を使っていらっしゃるのですか」

「この辺りで取れる昆布と、山で獲れる川魚でございます。都のものとは少し違うかもしれませんが」

「違いますけれど、こちらのほうが深い気がします。土地のものを使っているからでしょうか」

 澄江は嬉しそうに笑った。

「そうかもしれません。この土地の水が良いのだと思います。どんなに疲れた土地でも、水だけはまだ力があるとかで」

 千歳はその言葉を、小さく心に留めた。

 どんなに疲れた土地でも、水だけはまだ力がある。

 この屋敷に住む人たちは、皆そういうことを自然と知っている。長くここにいるから、土地の状態が体に染み込んでいるのだろう。

「何かお手伝いできることはありますか」

 気がついたら、そう言っていた。

 紅葉と澄江が、揃ってこちらを見た。

「千歳様がお手伝いを?」

「差し出がましいでしょうか」

「そんなことはありませんが……慣れていらっしゃるのですか」

「家では台所に入ることがなかったので、慣れてはいないのですが」

 千歳は正直に言った。

「ただ、何もしないでいるのが、少し苦手で」

 紅葉と澄江が顔を見合わせた。それから澄江が、にこりと笑った。

「では野菜を洗っていただけますか。切るのはわたくしがしますので」

「はい。喜んで」


 結局、千歳は朝食の仕度が終わるまで台所にいた。

 野菜を洗い、椀を並べ、膳を運ぶのを手伝った。不慣れな動きで、何度か紅葉に笑われたが、意地悪な笑い方ではなかった。

「千歳様は、思い切りが良いですね」

 紅葉が膳を並べながら言った。

「そうでしょうか」

「台所に入りたいと思っても、言い出せない方が多いですよ。立場というものがありますから」

「わたしには、あまりそういう感覚がなくて……」

 千歳はそこで言葉を止めた。

 都の屋敷では、千歳に立場というものがなかった。だから逆に、立場を気にする習慣もなかった。それが今になって、こういう形で作用するとは思っていなかった。

「それは良いことだと思いますよ」

 紅葉は特に深追いせず、そう言った。


 朝食の膳が整ったとき、広間に朔が来た。

 今日は見廻りの前に食事をとるらしく、珍しく皆が揃った状態で朝餉が始まった。雪丸は千歳の足元に陣取り、志乃はいつの間にか千歳の隣に座っている。

 千歳は膳を前にして、ふと思った。

 これが、この屋敷の朝の顔なのだと。

こんなふうに同じ膳を囲む朝が、自分にも来るのだとは思っていなかった。

 誰かが誰かを急かすわけでもなく、余計な気遣いで場が固まるわけでもない。ただそれぞれが自分の場所にいて、一緒に食べている。そういう、あたりまえのことが、千歳にはずっとなかった。

「今日の吸物、いつもより色が濃いですね」

 千歳が言うと、紅葉が少し驚いた顔をした。

「気がつかれましたか。昆布を少し長めに引いてみたのです」

「美味しいです。深みが増した気がします」

「では澄江にそう伝えます」

 志乃が椀を両手で抱えて、すん、と匂いを嗅いだ。

「志乃も好き。あったかい」

「志乃は何でも好きですね」

「だって美味しいもん」

 雪丸が足元から顔を上げた。

「ぼくも、ほしい」

「雪丸は後でね」

 千歳が言うと、雪丸は渋々という顔で頭を引っ込めた。

 朔は黙って食べていた。

 いつもと変わらないように見えるが、千歳は少しだけ違いに気がついた。朔の箸が、確かに動いている。昨日の昼のように、上の空で食器を持ったまま止まっているのではなく、今日はちゃんと食べている。

 なぜだろうと思いながら、千歳も椀を手に取った。

「千歳」

 朔が言った。

「はい」

「昨日は無理をした」

 問いかけではなかった。確認でもなく、どちらかといえば、言っておかなければならないことを言っている、という感じだった。

「……すみません、ご迷惑を」

「迷惑とは言っていない」

「では、何と」

 朔はわずかに間を置いた。

「あの祠には、また行くな」

「はい」

「一人ではなく、志乃と一緒でもだ」

「……でも朔様、志乃と一緒だったから千歳様がご無事で」

 紅葉が口を挟みかけると、朔がちらりとそちらを見た。紅葉はそこで言葉を止めた。

「行くなと言っている。今は、だ」

 今は、という言葉が、千歳には少し引っかかった。

 ずっと禁じているのではない。今は、だめだと言っている。それはつまり、いつかは行けるようになるかもしれないということで、その時を朔なりに測るつもりがあるということだろうか。

「分かりました」

 千歳は素直に頷いた。

 朔はそれ以上何も言わず、椀を持ち上げた。

 志乃が千歳の耳元で、こそりと言った。

「朔さま、昨日から千歳のこと、こわい顔でみてる」

「こわい顔で?」

「しんぱいしてるとき、そういう顔になる」

 千歳は朔の横顔をそっと見た。

 どこがこわい顔なのか、千歳にはよく分からなかった。いつもと同じように見える。ただ、目が少しだけ、どこかを見ていない気がした。


 昼になると、空が少し明るくなった。

 雪雲の合間から、薄い日差しが差し込んでくる。中庭の雪が白く光って、梅の古木の枝に小さな影を落としていた。

 千歳は縁側に座って、刺繍の続きをしていた。

 都から持ってきた布と糸がある。手を動かしていると、余計なことを考えずに済む。没頭できるほどの技術はないが、それでも集中している間は、頭の中が静かになった。

 しばらくして、雪丸が転がり込んできた。

「ちとせ、何してる」

「刺繍です」

「なにそれ」

「布に絵を描くようなものです」

 雪丸は千歳の手元を覗き込んだ。布の上に、細い糸で小さな梅の花が刺してある。まだ途中で、花びらが三枚しかない。

「うめ?」

「そう。中庭の梅を見ていたら、刺したくなって」

「きれい」

「まだ途中ですけれど」

 雪丸は満足したように頷いて、千歳の膝に乗った。やや邪魔だったが、千歳は何も言わなかった。

 そのうち志乃もやってきて、縁側の端に腰かけた。

「志乃もそういうの、できる?」

「刺繍ですか? 志乃さんは指が細いから、うまくできるかもしれません」

「やってみたい」

「今度一緒にしましょう」

 志乃はうれしそうに笑った。笑うと、年相応の子どもらしい顔になる。

「ねえ、千歳」

「はい」

「千歳のおうちは、どんなところだった?」

 千歳は少しだけ手を止めた。

 どんなところ。

「都の、大きな屋敷でした」

「楽しかった?」

「……そうですね」

 正直に言えば、楽しくはなかった。でも子どもに、都の屋敷が冷たい場所だったとは言いたくなかった。

「志乃は、ずっとここにいるのですか」

「うん。生まれた時からここ。千歳のおうちみたいなところは、知らない」

「この神域が、お家なのですね」

「そう。ここが一番すき」

 志乃は当たり前のように言った。

 千歳はその言葉を、少し羨ましいと思った。

 生まれた時からいる場所が好きだと言える。それがどれほど、豊かなことだろう。

「千歳は、ここすき?」

 志乃が聞いた。

 千歳は少し考えた。

「……まだ来て間もないですから」

「でも、きらいじゃない?」

「きらいでは、ないです」

「じゃあ、いつか好きになる」

 志乃は確信を持って言った。根拠はないだろうに、言い方が迷いなかった。

 千歳は微笑んで、刺繍の続きに目を落とした。


 夕餉は、その日も広間で皆が揃った。

 昼間に澄江と少し話して、今日の献立に一つだけ提案をしていた。千歳が都で覚えた、豆腐と葛を合わせた小さな椀物のことを話したら、澄江が興味を持ってくれたのだ。

 膳が運ばれてきたとき、いつもより椀がひとつ多かった。

「これは?」

 朔が問うた。

「千歳様のご提案です」

 紅葉が答えると、朔は千歳を見た。

「わたしが都で食べていたものです。澄江さんに教えたら、作ってくださって……お口に合うかどうか分かりませんが」

 朔は何も言わずに、椀を取った。

 一口飲んで、それきり黙っている。

 千歳はどう反応してよいか分からず、自分の椀に箸をつけた。

 志乃がすぐに飲んで、目を輝かせた。

「おいしい! とろとろしてる」

「葛でとろみをつけているのです」

「なにこれ、あったかい。体の中まであったかい」

「そう言ってもらえると嬉しいです」

 雪丸が足元から声を上げた。

「ぼくも!」

「雪丸には後で別に持ってきてもらいます」

「ほんと?」

「本当です」

 賑やかなやり取りが続いて、千歳はふと気づくと笑っていた。

 声を出して笑うほどではないが、口元がほぐれて、胸の中が軽くなっている。こういう感覚は、久しぶりだった。

 いや、久しぶりというより、初めてかもしれなかった。

 食卓でこんなふうに笑ったことが、かつてあっただろうか。

「千歳」

 朔の声がした。

「はい」

「この椀物、……良い」

 短かった。ただそれだけの言葉だったが、朔が自分から食べ物の感想を言ったのを、千歳は初めて聞いた。

「ありがとうございます」

「都の料理か」

「はい。寒い夜に、よく出ていたものです」

「そうか」

 それきりだったが、朔はその後、椀を二度お代わりした。

 紅葉が横でひっそりと微笑んでいるのを、千歳は横目で見た。


 夕餉の後、千歳は部屋で一人になった。

 行灯の明かりの中で、昼間の刺繍の続きをする。梅の花びらがようやく五枚揃って、次は細い枝を刺していく。

 今日はよく動いた気がした。

 台所を手伝って、縁側で志乃と話して、夕餉を皆と食べた。それだけのことなのに、体の中が満ちている感覚がある。

 疲れているはずなのに、重くない。

 雪丸が今夜も廊下から鼻先を覗かせて、そのまま入ってきた。すでに眠そうな目をしている。

「今日もここで寝るの」

「いい?」

「いいです」

 雪丸は千歳の足元にうずくまった。すぐに目を閉じる。早い。

 千歳は刺繍に目を戻しながら、今日のことを思い返していた。

 朔が椀物を良いと言った。

 たったそれだけのことなのに、なぜか嬉しかった。褒められたとか、認められたとか、そういうことではなく、ただ自分が関わったものを、あの人がちゃんと受け取ってくれたという感じがした。

 それは、千歳にはあまりなかった経験だった。

 都の屋敷では、千歳が何かをしても、それが誰かに届いているという感覚がなかった。存在しているのに、透明なような。ここにいるのに、いないような。

 でも今日、ここでは、ちゃんと届いた気がした。

 指先が、糸を持ったまま止まった。

 ここにいてもいい。

 三日前に思ったことが、今日はもう少し確かになっていた。

 まだ信じきれない。まだ怖い。でも、このまま目立たず消えようと思っていた心が、少しずつ変わってきている。

 それに気づいたとき、千歳は少しだけ自分が怖かった。

 期待すれば、裏切られる。

 ここは良い場所だと思えば、それを失うのが怖くなる。

 でも、と思う。

 雪丸が眠っている。志乃が笑っていた。紅葉が丁寧に世話をしてくれる。澄江が料理を作ってくれる。そして朔が、あの無口な朔が、良いと言った。

 これを怖がって閉じてしまうのは、何かに対して失礼な気がした。

 千歳は刺繍の続きに戻った。

 梅の枝が、少しずつ形になっていく。

 外では、今夜も雪が降り始めていた。

 白銀の屋敷は静かで、でも今夜の静けさは、最初の夜とは少し違う種類のものだった。孤独な静けさではなく、皆がそれぞれの場所で息をしている、そういう静けさだった。

 行灯の火が、ゆらりと揺れた。

 千歳はそれを見てから、また針を動かした。

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