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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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第三章 神域の息づかい

 朝から、空が重かった。

 雪雲が低く垂れこめて、日差しはなく、屋敷の白い壁も庭の木々も、どこか薄墨で塗ったように色を失っていた。それでも雪は降っていなくて、風もなく、ただしんと静まり返った朝だった。

 千歳は縁側に出て、中庭を眺めていた。

 梅の古木が、灰色の空の下にひっそりと立っている。朔があの木は毎年必ず咲くと言っていた。今はまだ硬く閉じた枝ばかりだが、その枝の一本一本に確かに命があるのだと思うと、不思議と落ち着く気持ちになった。

「千歳様、朝から外へ出ておられたのですか」

 背後から紅葉の声がした。

「少し空気を吸いたくて」

「寒くはありませんか」

「大丈夫です。この寒さ、だいぶ慣れてきました」

「それは何よりです。でも足元だけは気をつけてください。昨日の雪が凍っているところがありますから」

 紅葉はそれだけ言って、朝の仕事へ戻っていった。

 千歳はもう少しだけ外の空気を吸ってから、部屋へ引き返した。


 朝食を終えた頃、また一人現れた。

 はじめはどこから来たのか分からなかった。気がついたら、廊下の隅に立っていた。

 少女の姿をしていた。

 歳のほどは七つか八つくらいに見えるが、肌が透き通るように白く、瞳は薄い水色で、人間の子どもとは何かが違う。髪は腰まで届くほど長く、白みがかった銀色をしている。着ている小袖は古風な意匠で、見ているとどこか遠い時代のもののような気がした。

「あなたは」

 千歳が声をかけると、少女はふわりと笑った。

「志乃。ここの精霊」

「志乃……精霊なのね」

「うん」

 志乃は千歳の顔をまじまじと見た。不躾だが、悪意はない。ただ純粋に、興味があるという目をしている。

「千歳、ふつうじゃない」

「……ふつう、じゃない?」

「においが、違う。人のにおいだけど、なんか、もっとほかのものが混じってる」

 千歳は何と答えていいか分からなかった。

 志乃は気にした様子もなく、千歳の隣にするりと並んだ。

「いいもの、見せてあげる」

「いいもの?」

「神域の奥に、朔さまが誰も連れていかない場所がある。でも志乃は知ってる。千歳、来る?」

 断る理由が思い浮かばなかった。


 志乃に連れられて、千歳は屋敷の奥へと進んだ。

 母屋から離れるほど、人の気配が薄くなっていく。渡り廊下を三つ抜けて、小さな木戸をくぐると、そこは手入れの行き届いていない庭だった。

 石畳がところどころ割れ、苔が厚く積もっている。木々は大きく育ちすぎて互いに枝を絡め合い、空を狭めている。雪の積もり方も、他の庭とは違った。うっすらと白が乗っているだけで、なぜか深く積もっていない。

「ここは……」

「昔、朔さまがよく来てた場所。でも今はあんまり来ない」

「なぜ」

「しんどいから、かな」

 志乃はあっさりと言った。

 千歳は足を止めて、周囲を見回した。

 空気が、重い。

 中庭で感じた土地の疲れとは、また違う種類の重さだった。あちらがゆっくりとした眠りのようなものだとすれば、ここはもっと締まったような、凝り固まった痛みのような感触がある。

 足の裏から伝わってくる。

「この先に、祠がある」

 志乃が歩き出した。

 千歳はためらいながらも、後をついた。

 木々の合間を抜けると、石造りの古い祠があった。中庭にあるものより古く、よほど年を経ている。屋根は苔に覆われ、扉は木の膨張で歪み、隙間から暗い内側が見えていた。前には石の台があったが、供え物は何もない。長いあいだ、誰も来ていないのだろうと思った。

「ここ、穢れが一番強い」

 志乃は静かな声で言った。

「朔さまが毎日抑えてるけど、ここだけは根っこが深くて、なかなかきれいにならない」

「根っこ……」

「うん。土の下に、すごく古いものが眠ってる。それが時々、目を覚ます」

 千歳は祠の前に立った。

 近づくほど、重さが増した。足元から、胸の中心へ向かって、何かがじわじわと這い上がってくるような感触がある。不快とは少し違う。痛みとも違う。強いて言えば、泣き疲れて眠っている人の傍らにいるような、そういう感覚だった。

「千歳、だいじょうぶ?」

 志乃が隣に寄ってきた。

「……だいじょうぶです。ただ、感じるものがあって」

「どんな?」

「痛い、というより、疲れている感じ。長い時間をかけて、ゆっくり傷ついてきたような」

 志乃は目を丸くした。

「千歳、それが分かるの?」

「気のせいかもしれませんが……」

「気のせいじゃない。そういうの、ふつうの人には分からない。千歳はやっぱり、ふつうじゃない」

 志乃はきっぱりと言った。千歳は何も言えなかった。

 ふつうじゃない。

 それは昔から言われてきた言葉だったが、こういう文脈で使われたのは初めてだった。いつもは悪い意味を帯びていたのに、志乃の言い方にはそういう色がない。ただ事実を告げているだけの、穏やかな声だった。

 千歳はゆっくりと手を伸ばした。

 祠の石の台に、指先で触れる。


 その瞬間、何かが流れ込んできた。

 映像とも音ともつかないものだった。

 雪のない、夏の神域。青々と茂った木々の合間を、誰かが走っている。笑い声が聞こえる。祠の前に花が供えられ、小さな灯篭が灯されている。土地が生きていた、遠い昔の記憶のようなものだった。

 それがいつの間にか変わっていく。

 色が褪せて、声が消えて、祠の前の花が枯れていく。誰も来なくなった境内。地面が固く乾いて、木の根が地表に浮き上がってくる。土地が少しずつ、痛みを蓄えていく様子が、まるで自分の体に起きていることのように伝わってきた。

 千歳は思わず手を引いた。

 息が、少し乱れていた。

「……千歳!」

 志乃が駆け寄ってきた。

「だいじょうぶ? 顔、まっ白」

「は、い……何か見えた気がして」

「見えた?」

「この土地の、昔のことだと思います。人がいて、賑やかだった頃の……それがだんだん、変わっていく、そういう」

 志乃はしばらく千歳の顔を見ていた。

 それからゆっくり、頷いた。

「土地の記憶。千歳には、それが見える」

「こんなことは、初めてで……」

「ここが一番、濃いから。千歳の力に引っ張られたんだと思う」

「わたしの、力」

「うん」

 志乃は当然のように言う。千歳には、まだその言葉の意味がよく分からなかった。力、と言われても、自分に何か特別なものがあるとは思えない。ただ感じるだけで、何もできないのに。

 でも、と思った。

 触れた指先が、さっきまでと違う感触をしていた。

 冷えているのに、何か温かいものが通り抜けていったような。石台の、触れた部分だけが、わずかに色を変えているように見える。

 気のせいかと思って目を凝らすと、そうでもなかった。

 長年苔に覆われていた石の面に、ほんの掌ほどの範囲だが、苔の緑がわずかに明るくなっていた。枯れかけていたものが、少し戻ったような。

「あ」

 志乃が、はっと息を呑んだ。

 いつもは幼い顔に浮かぶ無邪気さが、その一瞬だけ消えていた。

「……ほんとうに、戻ってる」

 呆然としたような声だった。

 その場に落ちた沈黙は短かったはずなのに、千歳にはひどく長く感じられた。

 朔様は石台ではなく、千歳の指先を見ていた。

 金の瞳がわずかに細められる。

 初めて見るものを前にしたような、静かな緊張が、その横顔にはっきりと浮かんでいた。

「やっぱり。千歳には、鎮める力がある」

「鎮める……?」

「穢れを、静かにする力。傷ついた土地に触れて、少し楽にしてあげられる力。千歳、それ持ってる」

 千歳はもう一度、石台を見た。

 たったこれだけのことが、自分にできるとは思えなかった。でも、変わっていた。確かに、何かが変わっていた。

「志乃……これは」

「すごいことだよ」

 志乃は真顔で言った。

「朔さまが長いあいだ一人でやってきたこと、千歳は少し手伝えるかもしれない」

 千歳は答えられなかった。

 自分がこの土地に何かをもたらせるとは、まだ信じられない。でも指先に残る感触は、確かに今まで経験したことのないものだった。


 気がつくと、足元が揺らいでいた。

 立っているのに、地面がどこかへ遠のいていく感覚。

「千歳!」

 志乃の声が遠くなる。

 千歳は膝をついた。雪の冷たさが膝から伝わってくるが、体がうまく動かない。視界の端が白く霞んでいた。

 どこかで、足音が聞こえた。

 速い、迷いのない足音だった。

 誰かが屈む気配がして、千歳の背に、大きな手が触れた。

「……立てるか」

 低い声だった。

 千歳は顔を上げた。

 朔が、すぐそこにいた。

 金の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。神域の見廻りから戻る途中だったのか、羽織の肩に雪の粒が散っていた。

「朔、様」

「無理に動くな」

 短く言って、朔は千歳の状態を確かめるように、肩と背に手を添えた。触れているだけなのに、そこから何か安定したものが流れ込んでくる気がした。神としての力なのか、ただ体温なのか、千歳には判別がつかなかった。

「志乃が呼びに来た」

「……ご迷惑を、おかけして」

「迷惑かどうかは後で言え。今はじっとしていろ」

 千歳は黙って頷いた。

 しばらくそうしていると、視界の霞が薄れてきた。足元の感覚が戻ってくる。朔の手が肩にあることで、どこかが安定している。

「少し、よくなりました」

「立てるか」

「はい、たぶん」

 朔は千歳の腕を取って、立ち上がるのを支えた。

 体が、ちゃんと地面を踏んでいる感触が戻ってくる。千歳は小さく息を吐いた。

「ありがとうございます」

 朔は何も言わなかった。

 ただ、腕を放してから、石台を見た。

 苔の色が変わった部分を、じっと見ている。

「これは……おまえがやったのか」

「……触れたら、こうなっていました。わたしが意図したわけではなくて」

「そうか」

 朔の声は、平坦だった。

 感情が読めない。驚いているのか、それとも何か別のことを考えているのか、金の瞳はただ石台を見ていた。

「朔さま」

 志乃が傍らで言った。

「千歳には、鎮めの力がある。志乃には分かる」

「……ああ」

 朔は短く答えた。

 千歳は朔の横顔を見た。

 何かを考えているのは分かった。でも何を考えているのかは、まるで分からない。この人の中で何が動いているのかを、千歳はまだ読む術を持っていなかった。

「屋敷へ戻れ」

 やがて朔が言った。

「今日はこれ以上、ここにいるな。体に余計なものが入りすぎている」

「はい」

「一人で歩けるか」

「歩けます」

 朔はそれを聞いてから、千歳から視線を外した。

 もう終わり、という雰囲気だった。

 千歳は頭を下げてから、志乃と一緒に来た道を戻り始めた。木戸をくぐる手前で、一度だけ振り返った。

 朔はまだそこに立っていた。

 石台を見ているのではなく、今は土地の向こうのどこかを見ているような、遠い目をしていた。

 ひとりで何年も、この土地の痛みを引き受けてきた人の目だと、千歳は思った。


 部屋に戻ると、紅葉がすでに待っていた。

「志乃から話は聞きました。横になってください」

「そこまでひどくは……」

「横になってください」

 有無を言わさぬ声だった。

 千歳は素直に床に入った。

 紅葉が温めた布を持ってきて、千歳の額に乗せた。ひんやりとした感触の後に、じわりと温もりが広がる。

「千歳様」

「はい」

「今日のことを、叱るつもりはありません。志乃の誘いは断れるものでもないし、千歳様が好奇心から動いたとも思いませんから」

「……はい」

「ただ、今後のために聞かせてください。祠に触れたとき、何か感じましたか」

 千歳は少し考えてから、正直に話した。

 流れ込んできた映像のこと。土地の記憶のようなものが見えたこと。触れた後、石台が少し変わっていたこと。

 紅葉は口を挟まず、最後まで聞いていた。

「そうですか」

 話し終えると、紅葉は穏やかに言った。

「千歳様がそういう力をお持ちだということは、朔様も感じていたのだと思います。今日のことで、それが確かになった」

「朔様が感じていた……? それは、花嫁に選ばれた理由、ということですか?」

 紅葉はわずかに間を置いた。

「すべてではないと思いますが……関係はしているでしょう」

「そうですか」

 千歳は天井を見た。

 やはり、役目があってここへ来たのだ。力があるから選ばれた。それは分かっていたことで、分かっていたはずのことで、でも少し、胸のどこかが重くなった気がした。

「千歳様」

 紅葉の声が、少しやわらかくなった。

「力があるから選ばれたことと、千歳様という存在がここにいることは、別のことですよ」

「……どういう意味でしょうか?」

「始まりがどうであれ、ここにいる千歳様は千歳様です。力だけではない何かを、皆すでに感じていますから」

 千歳は紅葉の顔を見た。

 くだらない慰めを言う人には見えない。この人は、思ってもいないことを口にするような質ではないと、数日でも分かってきた。

「……ありがとうございます」

「お礼はよろしい。休んでください」

 紅葉は席を立ちながら、ふっと笑った。

「ところで志乃が言っていましたが、祠の石台、二十年ぶりに苔の色が戻ったそうですよ」

 それだけ言って、障子を閉めた。


 千歳は横になったまま、天井を見ていた。

 二十年ぶり。

 それは、小さなことかもしれない。でもこの土地にとっては、何か意味があることだったのだろう。

 指先に、さっきの感触が残っていた。

 石台の冷たさと、その奥にあった長い痛みと、そして触れた後に何かが少しだけ軽くなったような気配。

 自分にそんな力があるとは思えない。でも、あった。確かに、あった。

 雪丸が廊下から鼻をすんすんさせながら入ってきて、千歳の顔の隣に寝転んだ。

「ちとせ、ねてる?」

「起きてます」

「よかった。しんぱいした」

「心配してくれたの」

「うん。さくも、しんぱいしてた」

 千歳は目を丸くした。

「朔様が?」

「うん。もどってきたとき、すごいはやかった。ちとせのとこ、すごいはやく来た」

 雪丸はそれだけ言って、目を閉じた。すぐに寝息を立て始める。

 千歳はその小さな体を、そっと見ていた。

 朔が、速く来た。

 自分が倒れかけているのを知って、駆けてきた。あの人がどういう気持ちでそうしたのかは分からない。千歳のためなのか、それとも花嫁を失ってはならないという判断なのか。

 でも。

 肩に触れた手の重さは、確かだった。

 支えてくれた力は、確かだった。

 千歳はそっと目を閉じた。

 この土地は疲れていて、傷ついている。自分にできることがあるなら、したいと思った。それが役目であろうとなかろうと、この場所に少しでも楽になってもらいたいと、純粋にそう思った。

 それは、いつかここを去るつもりでいた千歳には、似合わない感情かもしれなかった。

 でも確かに、そう思っていた。

 外では、曇っていた空から、夕方になってようやく細い日差しが差し込んできた。

 雪の上に、光が伸びた。

 白銀の屋敷が、ほんのわずかに輝いた。


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