第二章 白銀の屋敷
翌朝、千歳は鳥の声で目を覚ました。
都では聞いたことのない声だった。高く細く、しかし力強く、雪の中でもちゃんと生きているものがいるのだと知らせるような鳴き方をしている。
千歳はしばらく天井を見つめてから、ゆっくりと身を起こした。
夢を見ていた気がするが、内容は覚えていない。ただ、眠りは深かった。都の屋敷では、夜中に何度も目が覚めることが多かった。誰かの声が聞こえるような気がして、あるいは自分がここにいてよいのかと考え始めて、気づけば夜明けになっていることが珍しくなかった。
ここでは違う。
なぜだろうと思いながら、千歳は着替えの小袖を手に取った。
髪を指先で整えながら、千歳は鏡に映った自分を見た。
黒に近い濃い髪は、光の加減でわずかに藍を含んで見える。顔立ちは淡く、目元はやわらかいのに、伏せたときだけどこか翳りが濃くなる。華やかなつくりではない。けれど、静かに見つめていると、白い肌の薄さとまっすぐな黒い瞳が、不思議と心に残る顔だった。
障子の向こうが、白く明るい。雪の照り返しで、曇りの日でもここは明るいのかもしれない。
身支度を整えてから、千歳はそっと廊下へ出た。
屋敷の朝は静かだった。使用人の気配はあるが、足音が小さく、誰もが心得た動き方をしている。廊を歩いていると、台所のほうから白湯の温かい匂いが流れてきた。
「おはようございます、千歳様」
振り返ると、紅葉が廊の端に立っていた。昨日と変わらず、きちんと髪を結い上げている。
「おはようございます。紅葉さん」
「よく眠れましたか」
「……はい。思っていたより」
正直に答えると、紅葉はわずかに目を細めた。驚いたのか、それとも何か別のことを思ったのか、その表情はすぐに元の穏やかな微笑みに戻った。
「それは良うございました。まずは朝食をお持ちしますね。その後、屋敷の中をご案内いたします。昨夜はご説明が足りませんでしたから」
「ありがとうございます。でも……朔様は」
「朔様は早くにお出になりました。神域の見廻りが日課でいらっしゃいますので、昼前にはお戻りになりますよ」
千歳は小さく頷いた。
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。昨日の金の瞳をまた正面から受け止める覚悟が、まだ出来ていなかった。
朝食は、豆腐の吸物と白飯、それから干物と漬物だった。
質素だが、出汁がよく取れていて、体の芯から温まる味がした。千歳は最後まで残さず、黙って食べた。
都の屋敷では、千歳の膳はいつも他の家人より一回り小さかった。料理が足りないわけではない。ただ、誰が決めたわけでもなく、自然とそうなっていた。それが普通だと思っていたから、こうして整った膳を出してもらうことが、何となく落ち着かなかった。
「お口に合いましたか」
「はい。とても美味しゅうございました」
「それは良かった。料理番に伝えておきます」
紅葉は膳を下げながら、さらりとそう言った。
千歳には、家人の意見を料理番に伝えるという習慣がなかった。都の屋敷では、食事に文句を言う者はいても、満足を告げる者はいなかった。
「あの……伝えるのですか」
「当然ではないですか。美味しいと聞けば、作った者も励みになりますから」
紅葉の言い方は淡々としていて、それでも少し不思議そうだった。千歳が驚いたことを、むしろ不思議に思っているらしい。
そうか、とだけ千歳は思った。
こういう屋敷もあるのか、と。
朝食の後、紅葉の案内で屋敷の内を巡った。
白銀の屋敷は、思っていたより広かった。
母屋を中心に、渡り廊下でいくつもの棟が繋がっている。台所、湯殿、蔵、祠のある中庭、そして北の端には朔が使う広間と書院がある。
「朔様のお部屋へは、用のない限り近づかなくて構いません。というよりも、近づかないほうがよろしいかと」
「……それは、入ってはいけないということですか」
「禁じているわけではありませんが」
紅葉はすこし考えるような間を置いた。
「あの方は、人が近くにいると疲れてしまわれる質でして。悪意があるわけではなく、そういう性分なのです」
「人が、疲れてしまう」
「神と人とでは、感覚が違いますから。朔様にとっては、人の気配というだけで、絶えず何かを受け取り続けているようなものなのだと思います。ですから、必要以上に近づく必要はありません。千歳様が委縮なさる必要もありません」
紅葉は穏やかにそう言ったが、千歳はその言葉の中に、もう少し複雑なものを感じた。
朔は人を遠ざけているのではなく、もともと距離が必要な存在なのだ。それは冷たいのではなく、ただ、そういうものなのかもしれない。
「分かりました」
千歳は素直に頷いた。
役目だけ果たして目立たず生きていくつもりなのだから、近づかなくていいなら、それでいい。
そう思うのに、なぜか昨日見た金の瞳が、頭の隅に残っていた。
中庭に出ると、風がやんでいて、雪の上に薄く日差しが差していた。
梅の古木の近くに、小さな祠がある。屋根に雪が積もり、扉は固く閉まっているが、前に榊と白い石が供えられていた。
「この祠は」
「この神域で最も古いものです。朔様がここへおいでになる前から、もとよりあったと聞いています」
千歳はそっと足を止めて、祠の前に立った。
土の下から、昨日感じた気配がまた伝わってくる。疲弊したような、長く眠り続けているような、そういう感覚。
都でも時々、こういうことはあった。古い寺の石段に触れたとき、あるいは神社の大木の根元に手をついたとき、何か重いものが流れ込んでくるような気がして、それを気のせいだと思って引っ込めていた。
でも、ここではそれが、やけに濃い。
「千歳様?」
紅葉の声に、千歳は顔を上げた。
「何でもありません。少し、感じるものがあって」
「感じる?」
「土地が……疲れているような気がして。ただの気のせいかもしれませんが」
紅葉は少しのあいだ、千歳を見た。その目に何かが過ぎった気がしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「よく気がつかれますね。この神域は長いあいだ、穢れにさらされてきた土地です。朔様が守ってくださっているから今があるのですが……土地そのものは、まだ疲れています」
「それは、治せるものなのですか」
「それが分かれば、苦労はないのですが」
紅葉は深刻にはならず、しかし軽くも扱わない笑い方だった。
千歳は祠の前で手を合わせてから、踵を返した。
午前のうちに、もうひとつ出会いがあった。
湯殿の脇を通りかかったとき、廊下の隅にうずくまっている小さな影があった。
白かった。
「雪丸」
声をかけると、仔狼はぱっと顔を上げた。
「ちとせ!」
昨日よりも元気よく名前を呼ばれて、千歳は思わず口元がほぐれた。雪丸は駆け寄ってきて、千歳の足元をぐるりと回り、しっぽをいっぱいに振っている。
「こんなところにいたの。何をしていたの」
「まってた」
「待っていた? 誰を」
「ちとせを」
あっさりと言われて、千歳は言葉に詰まった。
この仔狼は、昨日初めて会ったばかりのはずだ。なのに、待っていた、と言う。
「どうしてわたしを待っていたの?」
「……すき、だから」
雪丸は当然のように言った。
千歳は少しのあいだ、その場に立ち尽くしていた。
好き。
そんなふうに言われたのは、いつぶりだろうと思った。家では、千歳を好きだと言う人間はいなかった。いや、いたとしても、それは千歳の役立つ部分に向けられた言葉であって、ただ千歳がいるから好きだ、というものとは違った。
「……雪丸は、変なことを言うね」
「へん?」
「昨日会ったばかりなのに」
「でも、すき」
雪丸はそれで終わりだという顔をしていた。
千歳は屈んで、その白い頭をそっと撫でた。柔らかい毛が手のひらに触れる。雪丸は気持ちよさそうに目を細めて、今度は千歳の手に頭を押しつけてきた。
これが、あの白狼神の眷属なのか。
千歳は少し可笑しくなった。
怖い神の屋敷だと思っていたのに、こんな無邪気なものがいる。
「紅葉さん。雪丸は、いつもこんな感じなのですか」
「そうですね。懐くと決めた相手には、とことん懐きますよ。千歳様を気に入ったようですね」
「……そうみたいです」
雪丸はそのまま、千歳の足元にぴたりとくっついて離れなかった。
昼前に、朔が戻ってきた。
千歳は中庭の縁に腰かけて、雪丸と一緒に日向ぼっこをしていた。冬の日差しは弱かったが、それでも降り積もる雪の上では眩しいくらいに白く光っていた。
気配がして顔を上げると、渡り廊下の向こうに朔が立っていた。
外から戻ったばかりらしく、白銀の髪に細かな雪の粒が散っている。千歳と目が合うと、朔はわずかに足を止めた。
止まっただけで、何も言わなかった。
千歳もどう声をかけていいか分からず、とりあえず頭を下げた。
「……お帰りなさいませ」
「ああ」
朔は短く答えて、廊下を歩き続けた。
書院の方角へ消えていく背中を見ながら、千歳は小さく息を吐いた。
「さく、つめたい」
雪丸が千歳の膝の上でそう言った。
「そうじゃないと思うけど」
千歳は自然とそう答えていた。
自分でも少し驚いた。庇うつもりはなかったのに、なぜかそういう言葉が出た。
紅葉が言っていたとおり、朔は人が疲れてしまう質なのかもしれない。冷たいのではなく、距離の取り方がそもそも違うのだ。
それは、千歳にも覚えのある感覚だった。
上手く人と関われなくて、どう言葉を出せばいいか分からなくて、だから黙っているしかない。そういうことは、千歳にもあった。
違うのは、千歳の場合はそれを「感じの悪い子」と言われてきたことだが。
「雪丸」
「なに」
「朔様は、ずっとひとりでここにいらっしゃったの」
「うん」
「そう……」
千歳は膝の上の仔狼をゆっくり撫でながら、書院のある方角を見た。
ずっとひとりで、この白い土地を守ってきた。それがどういうことなのか、千歳には想像することしかできない。
でも少し、分かる気がした。
誰もいない場所にいることと、誰かのそばにいても孤独なこととは、違う。後者のほうが、ずっとつらい。
昼餉は初めて、広間で皆と一緒にとった。
といっても、朔は途中まで書院から出てこなかった。千歳と紅葉と雪丸の三人で食べ始めたところへ、遅れて朔が姿を現した。
「失礼します」
千歳は軽く頭を下げた。朔はちらりとこちらを見てから、黙って上座に座った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
食器の音だけが、静かな広間に響く。千歳は行儀よく箸を動かしながら、横目でそっと朔の様子を伺った。食べている、とは言えなかった。椀を手に取ったり、箸を置いたり、どこか上の空のように見える。
「朔様」
紅葉が穏やかに声をかけた。
「今日の見廻りは」
「問題ない」
「北の端のほうは」
「……少し、揺れていた。だが抑えた」
「そうですか」
揺れていた、というのは何のことだろうと千歳は思ったが、口には出さなかった。まだここに来て二日目だ。聞いてよいことと、そうでないことの境がまだ分からない。
雪丸が千歳の足元に寄ってきて、そっと前足をのせた。千歳は小さく笑って、足でその温もりを受け止めた。
「千歳」
不意に、朔が口を開いた。
千歳は背筋を伸ばした。
「はい」
「屋敷の中は見て回ったか」
「はい。紅葉さんがご案内してくださいました」
「何か不便なことはあるか」
「……いいえ、特に」
「そうか」
また沈黙が来た。
千歳はどう返せばいいか分からなかった。聞いてくれた、ということは気にかけてくれているということなのだろうか。
昼餉の後、膳を下げに来た紅葉が、火鉢の炭も湯殿の薪も、昨夜のうちに朔様が増やしておくよう言っておられたのだと、何でもないことのように教えてくれた。
あの短いやりとりの中に、そういうものまで含まれていたのかと思うと、千歳は少しだけ返事に困った。
「あの」
気がついたら、声が出ていた。
朔の金の瞳が、こちらを向く。千歳は慌てず、冷静に言葉を選んだ。
「庭の梅の木は、春になれば咲くのでしょうか?」
朔はわずかに眉を動かした。
「……なぜそれを聞く」
「古い木だったので。こういう土地でも、花が咲くのかと思って」
「咲く」
短く答えてから、朔はまた椀を手に取った。
「毎年、必ず咲く。この土地で、あの木だけは変わらない」
それきり、朔は黙った。
でも千歳は、その言い方の中に、何か大切なものが混じっているような気がした。誇りとは少し違う、愛着に近いもの。
毎年、必ず咲く。
この白い土地の中で、あの一本の梅だけは変わらない。それをこの人は、どんな気持ちで見てきたのだろう。
「楽しみにしています」
千歳がそう言うと、朔はほんの一瞬だけ、こちらを見た。
何も言わなかった。
でも、その視線は、昨日よりほんのわずかだけ、温度が違う気がした。
夕方、千歳は部屋で一人、窓の外を見ていた。
空は暗くなりかけていて、雪雲がゆっくりと流れている。今夜もまた降るだろうと、空の色が告げていた。
都から来た文は、まだひとつもない。
当然だろうと思った。送り出した側は、もう千歳のことを考えていないはずだ。遠くへやった、それで終わりなのだ。
でも今日一日、ここで過ごして思うのは、そのことへの悲しさよりも、思いのほか穏やかだということだった。
紅葉は丁寧で、少し辛口だけれど悪い人ではない。
雪丸は理由もなく懐いてくれる。
朔は無口だが、冷たいとは少し違うのかもしれない。
そしてこの土地は、疲れてはいるけれど、息をしている。
千歳はそっと、窓枠に手をついた。
外の冷気が、板越しに伝わってくる。それと一緒に、また感じる。土の下の、長い疲れ。痛みというより、眠り続けてきたものの重さ。
指先が、わずかに温かくなった気がした。
こういうことが、以前にもあった。触れた枯れ木の根元が、夕方にはすこし色を取り戻していたことがあった。都でもどこでも、自分が触れた後だけ、何かが少しだけ変わる気がして、でもそれは気のせいだと思っていた。
気のせいかもしれない。
けれど今、窓枠を通して伝わってくる重さは、触れてからほんの少しだけ、軽くなった気がした。
「……ちとせ」
廊下から雪丸の声がした。
「入っていい?」
「どうぞ」
障子が開いて、白い仔狼が転がり込んできた。勢いよく駆けてきて、千歳の膝に飛び乗る。
「また来たの」
「いい?」
「いいよ」
雪丸はそのまま丸くなって、千歳の膝の上に収まった。温かかった。小さな命の重みが、ちゃんとある。
千歳はそっとその背を撫でた。
ここでも嫌われるわけではない、と昨夜思った。
今日一日を経て、それはもう少しだけ確かなものになっていた。
ここにいてもいいのかもしれない。
まだ信じきれはしないけれど、そう思い始めている自分がいた。
外では、また雪が降り始めていた。
白銀の屋敷は静かで、でも昨日よりも少しだけ、温かかった。




