第一章 雪の花嫁
嫁入りの日だというのに、祝う声はひとつもなかった。
白く冷えた朝だった。
庭の砂利の上にうっすら霜が降り、吐く息はすぐに冬の空へほどけていく。屋敷の門前には迎えの牛車が一台、音もなく待っていた。飾り気のない黒塗りの車体は、祝いのためというより、誰にも知られず何かを運び出すためのもののように見えた。
千歳は薄い色の小袖の袖口を、そっと握りしめた。
「急ぎなさい」
背後からかけられた声に、
「……はい」
と返す。
それだけだった。
幼い頃から住み慣れたはずの屋敷は、今日に限ってひどくよそよそしい。使用人たちも目を合わせようとはせず、廊を渡る足音まで、まるで厄を遠ざけるみたいに遠慮がちだった。
無理もない、と千歳は思う。
――災いを呼ぶ娘。
この家で、自分はずっとそう呼ばれてきた。
誰が最初に言い出したのかは知らない。熱を出した乳母が寝込み、庭の梅がひと枝だけ早く枯れ、蔵にしまわれていた古い鏡がひとりでに割れた。そんな小さな不吉が重なるたび、理由のない気味悪さは、まだ幼かった千歳の名に結びつけられていった。
泣いて否定したこともあった。
違います、と訴えたことも、一度や二度ではない。
けれど、そういう言葉ほど誰にも届かないのだと、いつからか知ってしまった。
だから今は、何も言わない。
ただ命じられたとおり、辺境の地を治める白狼神へ嫁ぐため、門へ向かって歩くだけだ。
白狼神。
雪深い北の果てを守る、人ならざるもの。
美しい姿をしているとも、恐ろしい牙を持つとも聞く。冷酷で、人を寄せつけず、これまで幾人もの花嫁候補がその名を聞いただけで震え上がったとも。
そんな存在のもとへ、自分が送られる。
家のためには、ちょうどよかったのだろう。
災いの娘を遠くへやれて、しかも相手は人ならぬ神。もし何かあっても、誰も困らない。
指先が、少しだけ冷たかった。
それでも千歳は立ち止まらない。立ち止まったところで、呼び止めてくれる人などいないと知っている。
門のそばまで来たとき、ようやくひとりだけ、こちらを見る人影があった。
恒一様だった。
ひとつ年上の義理の兄は、千歳と目が合うと、静かに頭を下げた。怒りでも哀れみでもない、どこか事務的な礼の仕方だった。
「千歳。道中、気をつけるように」
「……はい」
「これは家の決めたことだ。おまえのためでも、ある」
おまえのため。
その言葉が、どれほど空洞なのかを、恒一様はきっと知らないのだろう。いや、知っていて言うのかもしれない。どちらであっても、千歳には関係がなかった。
「ありがとうございます」
そう言って、千歳は深く一礼した。
恒一様の顔は見なかった。
牛車に乗り込む際、誰も手を貸さなかった。御者がひとり、前を向いたまま手綱を握っている。千歳はひとりで段を上がり、薄暗い車内に身を収めた。
屋敷の門が、後ろで音もなく閉まる。
それが、千歳のかつての暮らしの、最後の音だった。
牛車は半日かけて都を出、さらに二日をかけて山を越えた。
道が細くなるほど、雪が深くなっていった。
都に近い山里では枯れ草と凍った田が続いていたが、さらに北へ進むと、樹々の枝は白く覆われ、街道の両端には腰丈を超える雪が積み上がっていた。こんなにも深い雪を、千歳はこれまで見たことがなかった。
車内は狭く、寒く、揺れた。
持たされた荷は少なかった。花嫁のための晴れ着は一枚だけ、あとは着替えと身の回りのものが、小さな包みひとつに収まった。
千歳は膝の上で手を組み、外の景色を眺め続けた。
怖いかと問われれば、怖いとも言えた。
でも、それよりも、奇妙なほど冷静な気持ちでいた。
もしかすると、ずっとこうなることを予感していたのかもしれない。あの家では自分の居場所がないと、どこかで知っていたから。
――役目だけ果たして、誰にも気づかれぬように消えよう。
それが、千歳の決めたことだった。
白狼神のもとへ嫁ぎ、何か役に立てることがあれば果たして、あとは誰の迷惑にもならないよう、ひっそりと生きていく。それだけでいい。それで十分なのだと、千歳は自分に言い聞かせていた。
三日目の夕暮れ時、車が止まった。
「着きました」
御者のひとことに、千歳は小さく息を吸った。
外に出ると、冷気が全身を包んだ。
都の冬とは比べものにならない、骨まで届くような寒さだった。思わず身を縮めながら、千歳は顔を上げる。
そこに広がっていたのは、白い世界だった。
四方を低い山に囲まれた盆地の中心に、広大な屋敷がある。白塗りの築地塀がずっと先まで続き、その向こうに、いくつもの棟の屋根が重なって見えた。屋根の上にも庭の木々にも雪が積もり、すべてが白く、静かで、まるで誰も住んでいない場所のようだった。
けれど死んでいるのではない、と千歳はなぜか思った。
しんとしているのに、息をしている。
土の下に、何かが眠っているような気配。眠っているのか、傷ついているのか、それとも長い時間をかけてゆっくり消えていくのか。うまく言葉にはできないけれど、足の裏から、微かな何かが伝わってくる気がした。
こういう感覚を、千歳はときどき覚えることがあった。
土地の疲れのようなもの。あるいは、空気が滲ませる痛み。ただの気のせいだと片付けてきたけれど、この場所のそれは、今まで感じたどこよりも濃かった。
「千歳様でいらっしゃいますか」
声がした。
振り返ると、門の内側に女が立っていた。
歳のほどは二十を少し過ぎたくらいだろうか、艶のある黒髪を高く結い上げ、深い緑の小袖を纏っている。目元が切れ長で、柔らかく微笑んでいるのに、その奥にある視線は氷のようで鋭い。
「はじめまして。わたくし、この屋敷の侍女頭をしております、紅葉と申します。長旅でお疲れでしょう。どうぞ中へ」
紅葉と名乗った女は、丁寧に手招きした。
千歳は一礼して、敷地へと足を踏み入れた。
雪を踏む音が、静かな空気に溶けていく。
案内されるまま奥へ進むと、庭の中ほどに古い梅の木が一本あった。まだ花はなく、枝だけが雪の重みに少したわんでいる。それでも幹は太く、どっしりと地面に根を張っていた。
「朔様はただいまお戻りです。ご挨拶はこちらで」
紅葉に促されて、千歳は広間へ通された。
廊下を渡るあいだ、屋敷の気配を感じていた。古いが、手入れは行き届いている。板張りの廊下は磨き込まれ、至るところに白木の香りが残っていた。
障子が開けられる。
広間の中心に、人がいた。
いや、人と言っていいのかどうか。
千歳は思わず、足を止めた。
白銀の髪が、肩から背へ流れている。人の姿をしているのに、何かがまるで違う。纏う気配が、静かに、しかし確かに周囲の空気を押しのけていた。
男は千歳に背を向けたまま、縁側の外を見ていた。雪の庭を眺めているのか、それとも何か別のものを見ているのか、千歳には分からない。
「朔様。千歳様がお着きになりました」
紅葉の声に、男は振り返った。
金の瞳だった。
人間のものとは違う色をしている。獣の眼光のような鋭さがあるのに、どこか深く、落ち着いた光がある。その眼が、千歳をまっすぐに捉えた。
美しい、と思った。
声も出ない、息が詰まるような美しさではなく、見れば見るほど、この世に在ってはいけないものを見ているような気持ちになる、そういう種類の美しさだった。
千歳は視線を外さないようにして、深く頭を下げた。
「千歳と申します。この度はご縁をいただき、恐れながら参りました。どうぞよろしくお願い申し上げます」
沈黙があった。
長くはなかったが、千歳には永遠のように感じられた。
「……来たか」
低く囁くような声だった。
感情の色が、よく分からない。嬉しいわけでも、不満なわけでも、ないのかもしれない。ただ事実を確認するような、無感動な言い方だった。
「滞りなく来られたか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
朔はそれ以上何も言わず、視線を窓の外へ戻した。
千歳はもう一度頭を下げて、そっと立ち上がる。拒まれたわけでも、歓迎されたわけでもない。それが何となく、この先の暮らしを物語っているようで、千歳は小さく息を吸った。
役目だけ果たして、目立たず生きていけばいい。
分かっていたことだと、自分に言い聞かせる。
「ご案内しますね」
紅葉が寄り添うように歩き出した。
千歳に宛てられた部屋は、母屋の東端にある一室だった。
決して広くはないが、清潔に整えられ、小さな文机と行灯が置かれている。窓の外には雪を乗せた低木が見え、風がそこを通るたび、白い粒がほろほろと落ちていった。
「ご不便がありましたら何でもおっしゃってください。お着替えのお手伝いもいたします」
紅葉は用意よく、いくつかの説明をしてくれた。食事の刻限、湯の場所、禁足の区域。どれも淀みなく、しかし押しつけがましくない話し方だった。
「紅葉さんは、長くここにいらっしゃるのですか?」
千歳が問うと、紅葉はわずかに目を細めた。
「ずいぶん長く、おそばにおります」
「そうですか……朔様はその、いつもああいう感じなのでしょうか」
問いかけてから、失礼だったかと思った。けれど紅葉は特に気を悪くした様子もなく、ふっと笑みを浮かべた。
「ああいう感じ、と申しますと」
「言葉が、少ないというか……」
「はい。少ないですね」
あっさりと言われて、千歳は少し拍子抜けした。
「でも、悪い方ではありませんよ」
紅葉はそれだけ言って、部屋を出ていった。
千歳はひとり残され、文机の前に座った。
窓の外を見ると、空が暮れ始めていた。雪雲の向こうに、かすかに橙の光がにじんでいる。どこまでも静かな景色だった。
都とは全然違う。
人の声がない。馬の蹄の音も、市の喧騒も、何もない。あるのはただ、雪と風と、この土地の静けさだけだ。
そのとき、ふいに廊下のほうで小さな音がした。
とたたた、と軽い足音。
障子に、控えめな引っかき音がした。
千歳は首を傾けてから、そっと障子を引いた。
そこにいたのは、小さな白い狼だった。
成獣ではない、まだ仔と言っていいような大きさで、耳が丸くやわらかく、瞳は澄んだ灰色をしている。その仔狼は千歳を見上げると、しっぽをパタパタと振った。
「……あなたは」
千歳が屈むと、仔狼は一歩、また一歩と近づいてきた。そうして千歳の膝の上に、鼻先をのせた。
温かかった。
「ちとせ」
仔狼がそう言った。
千歳は目を丸くした。
「……今、喋りましたか?」
「うん」
仔狼はまたしっぽを振った。
「ぼく、ゆきまる。ちとせ、きた」
「雪丸……あなたは、この屋敷の?」
「さくの、けんぞく」
朔様の眷属、ということらしかった。
千歳は思わず、笑いそうになった。怖い場所のはずなのに、怖くなかった。少なくとも今この瞬間だけは、胸の中にあった固いものが、少しだけほぐれていく気がした。
「雪丸、よろしくね」
そう言って手を差し伸べると、雪丸はためらわず、そこに頭を押しつけてきた。
もふ、と柔らかい毛が手のひらに触れる。
千歳は冷静に、その温もりを受け取った。
夜が来た。夕餉は部屋まで運ばれてきた。質素ではあったが、温かく、丁寧に作られていた。千歳はひとりで箸を取り、黙々と食べた。
食べ終えてから、行灯を落として床に入る。
外はもう、完全な暗さだった。時折、風の音がする。
怖いはずなのに、そうでもない。
おかしいなと思いながら、千歳は目を閉じた。
明日から、ここで生きていく。
役目を果たして、誰の邪魔にもならないように。それだけでいい。
でも、雪丸の毛の感触が、まだ手のひらに残っていた。
ここでも、嫌われるわけではないのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら、千歳は長い一日の終わりに目を閉じた。
外では、雪が音もなく降り続けていた。
辺境の夜は深く、しんと静かで、でも千歳が思っていたよりずっと、息をしていた。




