第十章 雪明かりの宴
祭事の話が出たのは、ある朝の食卓だった。
紅葉が膳を並べながら、さりげなく言った。
「来週、神域で小さな祭事があります」
千歳は顔を上げた。
「祭事、ですか」
「毎年この時期に行うものです。冬の真ん中に、神域の安定を願って灯篭を灯す、小さな宴のようなものですね。里の方々も何人か来られます」
雪丸がぱっと顔を上げた。
「まつり!」
「そう。雪丸は毎年楽しみにしていますね」
「たのしい。ごはんがたくさんある」
「それだけではないのですが」
紅葉は苦笑してから、千歳を見た。
「千歳様にも、ぜひ参加していただきたいのです。先日の顔合わせとは違って、今度はもう少し改まった場になります。できれば一番良い晴れ着でいらしていただけると」
「分かりました。でも、わたしにできることがあれば、何でも手伝います」
「ありがとうございます。では飾りつけから一緒にしましょう」
朔は黙って食べていたが、千歳はその横顔を少し見た。
祭事、という言葉に、朔がわずかに反応した気がした。箸が一瞬止まった。気のせいかもしれないが。
祭事までの数日、屋敷の中が少し変わった。
澄江が台所で張り切り始め、普段は使わない大きな鍋や蒸篭が引っ張り出された。紅葉は細々とした準備を指図して、使用人たちが廊下を忙しそうに往き来する。
千歳も飾りつけを手伝った。
廊下の柱に紙の花を結い、灯篭の和紙を張り替えて、神域の入口には注連縄を新しくした。志乃は器用に紙を折って小さな兎を作り、それをあちこちに置いて歩いた。
「志乃、それは何の兎なの」
「雪兎。この神域の守り神みたいなもの」
「志乃が作ったものが守り神になるの」
「志乃は精霊だから」
あっさりと言われて、千歳は少し笑った。
灯篭の準備をしていると、朔が通りかかった。
千歳が和紙を張り替えているのを見て、足を止めた。
「やり方は分かるか」
「紅葉さんに教えてもらいました。合っていますか」
朔は少し屈んで、千歳の手元を見た。距離が近かった。白銀の髪が、千歳の視界に入る。
「……悪くない」
「本当ですか」
「不格好なところが一箇所ある」
「どこですか」
朔は無言で、灯篭の下の角を指した。確かに、和紙が少し浮いていた。
「ここを、もう少し押さえて貼れ」
「こうですか」
「そうだ」
朔は立ち上がった。それだけで、また歩き出した。
千歳は修正した角を見てから、少し笑った。
不格好なところが一箇所ある、と言いながら、直し方を教えてくれた。
そういう人なのだと、少しずつ分かってきていた。
祭事の前日、千歳はある訪問をした。
以前、顔合わせの日に相談してきた若い夫婦の子どもが、今日は神域へ来ることになっていた。
子どもは五つか六つの男の子だった。
父親に手を引かれて、おずおずと広間に入ってきた。色の薄い顔に、大きな目をしている。体が細く、確かに食が細そうに見えた。
千歳は子どもの目線に合わせるように、少し屈んだ。
「こんにちは。千歳といいます」
子どもはしばらく千歳を見てから、小さな声で言った。
「……ゆきまる、どこ」
「雪丸のことですか? 呼んできましょうか」
千歳が少し振り返ると、雪丸はすでに廊下の奥で待ち構えていた。名前を呼ばれるのを待っていたらしく、呼ぶより先に駆け込んできた。
「きた!」
「雪丸、この子に挨拶して」
雪丸は子どもの前に座って、しっぽを振った。子どもは最初こわごわとしていたが、雪丸が前足を差し出すと、恐る恐る手を伸ばした。
「やわらかい……」
「毎日撫でてあげると、もっと柔らかくなりますよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
子どもの顔が、少しほぐれた。
千歳はそのまましばらく、子どもと雪丸を一緒にいさせた。子どもが雪丸に夢中になっているのを見てから、そっと傍に寄った。
「少し、手を貸してもらえますか」
子どもが首を傾けると、千歳は自分の手を差し出した。
「握ってみてください」
子どもはためらいながらも、千歳の手を握った。
小さな手だった。
触れた瞬間、伝わってくるものがあった。祠の石や神域の土地で感じたものとは、また違う。土地の穢れのような深く積もったものではなく、薄く広がった、くすんだ重さのようなもの。
千歳はそれを、ただ受け取った。
何かをしようとしたわけではなかった。
しばらくして、子どもがぱっと顔を上げた。
「……おなか、あったかい」
「そうですか」
「さっきまで、ぐるぐるしてたのに」
「今はどう?」
「ぐるぐる、しない」
父親が、息を呑む気配がした。
千歳は子どもの手を、ゆっくりと離した。
「また来てください。雪丸も、来るたびに喜びますから」
子どもは雪丸を見た。雪丸はしっぽを振っている。
「うん。また来る」
夫婦が帰った後、千歳は縁側に座った。
少し疲れていた。体が重いというより、使ったものがある感じだった。
志乃が隣に来た。
「できた」
「できたかどうか、まだ分かりません」
「でも、あのこどものにおいが変わった。来たときより、ずっとかるくなってた」
「本当に」
「うん。千歳には分かる?」
「何となく……重いものが動いた気はしました。でも、これが続くかどうか」
「つづくとおもう。千歳が触れたから」
志乃は確信を持って言う。
千歳はそれを、今日は素直に受け取ることにした。
「ありがとう、志乃」
「お礼は子どもが元気になってから」
「そうします」
祭事の当日は、快晴だった。
朝から空が高く青く、風もなく、祭事のために設えたような一日だった。
千歳は紅葉に晴れ着を着付けてもらった。
都から持ってきた中で、一番良いものだった。深い藍色の小袖に、白と金の刺繍が入っている。帯は銀鼠で、髪は紅葉が丁寧に結い上げてくれた。
「よくお似合いです」
「そうでしょうか。慣れていなくて」
「似合っています。凛としていて、でも柔らかい。この神域の空気に合っています」
千歳は鏡を見た。
こんな自分を、都の屋敷で見たことはなかった。
晴れ着を着ても、いつも何か足りないような、場違いなような気がしていた。でも今日の自分は、鏡の中でちゃんとここにいる気がした。
夕方から、里の人々がやってきた。
先日の顔合わせよりも多く、二十人ほどが集まった。子どもたちも多く、雪丸はすぐに囲まれた。
神域の中庭と、屋敷の前の広場に灯篭が並べられた。日が暮れると同時に火が入れられて、あたりが柔らかい光に包まれた。
千歳は息を呑んだ。
昼間とはまるで違う景色だった。
白い雪の上に、橙の灯りが散らばっている。灯篭の光が雪面に反射して、地面も空も全部が淡く輝いているような、そういう景色だった。
梅の古木も、灯篭の光の中に浮かび上がって、枝の一本一本が黒く細く、でも確かに春を待っているように見えた。
「きれい……」
千歳は思わず声に出した。
「毎年こうなんです」
隣に来た長老が言った。
「子どもの頃から、この祭事が一番好きでした。白狼神様の神域の灯篭は、どこよりも明るく見える気がして」
「なぜでしょう」
「さあ。でも、この雪があるからかもしれませんね。雪が光を受け取って、倍にして返してくれる」
千歳はもう一度、灯篭の光を見た。
雪が光を受け取って、倍にして返す。
この土地がそういうものを持っているのだと、千歳は思った。
宴が始まって少し経った頃、千歳は人の流れから少し外れた場所に立っていた。
子どもたちが走り回って、大人たちが輪になって話している。澄江が張り切って作った料理が並べられ、皆が口々に美味しいと言っている。
賑やかだった。
こういう夜が、この神域にあるのだと知らなかった。
千歳が眺めていると、近くに気配がした。
振り向くと、朔が立っていた。
いつもの粛然とした立ち方だったが、今夜は少し違った。灯篭の光の中で、白銀の髪が橙に染まっている。金の瞳が、周囲の光を受けて揺れていた。
千歳は思わず、見てしまった。
朔は千歳の隣に立って、同じように宴を見ていた。千歳を見たのではなく、子どもたちや大人たちが灯篭の周りに集まっている様子を、そっと眺めていた。
でも千歳が視線を外すより先に、朔が千歳を見た。
目が合った。
朔は一瞬、目を細めた。
何かを言うかと思ったが、何も言わなかった。ただ視線を、また宴の方へ戻した。
千歳も前を向いた。
二人並んで、灯篭の光を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
それでも、居心地が悪くなかった。朔の隣に立っていることが、今夜はごく自然に感じられた。
「朔様」
「なんだ」
「この祭事は、毎年こんなに賑やかなのですか」
「……今年は、例年より人が多い」
「そうなのですか。なぜでしょう」
朔はわずかに間を置いた。
「花嫁が来たから、だろう」
千歳は少し驚いた。
「わたしを見に来たということですか」
「見に来たというより……変わったと思っているのかもしれない。この神域が」
「変わった、と」
「人が来て、灯りが増えた。それだけで、土地の空気は変わる」
朔の言い方は淡々としていたが、千歳にはその言葉の重みが伝わった。
千歳が来たから、変わった。
力のことだけではなく、人がいるということで、変わるものがある。
「朔様は、人が多い場所は、お苦手ですか」
「苦手、というわけではない」
「でも、疲れますよね」
朔は少し間を置いた。
「……以前は、もっと疲れた」
「以前は、というのは」
「今夜は、そうでもない」
千歳はその言葉の意味を、少し考えた。
今夜は、そうでもない。
今夜と以前の違いは何だろう。宴の規模は変わらない。人の数は今年のほうが多い。でも朔は今夜は疲れていない、と言った。
答えは言わなかったが、千歳には何となく、分かる気がした。
宴の中頃、事が起きた。
神域の外れの方向から、かすかに空気が変わった。
千歳が最初に気づいた。
楽しい空気の中に、何か違うものが混じり込んできた。土地の奥から湧き上がってくるような、重い気配。先日感じた穢れとは比べものにならない大きさではないが、確かに動いていた。
「朔様」
千歳が声をかけると、朔はすでに気づいていた。
「分かっている」
「あちらの方向から」
「神域の東の端だ。行く」
朔は宴の方向を一瞥してから、千歳を見た。
「ここにいろ」
「でも」
「ここにいろ。皆を頼む」
千歳は頷いた。
朔は素早く、人々の輪から外れた。その動きは静かで、誰も気づかなかった。
千歳は宴を見た。
子どもたちが笑っている。大人たちが話している。灯篭の光は変わらず揺れている。
ここを守ることが、今の千歳にできることだ。
千歳は長老の傍へ歩いていった。
「長老さん、少し昔の話を聞かせていただけますか。この神域の、もっと古い時代のことを」
長老は嬉しそうに顔をほころばせた。
「それはいくらでも。どんなことを聞きたいですか」
「何でも。聞きたいことがたくさんあって」
千歳は長老の隣に座って、話を聞き始めた。
宴は続いていた。
朔が戻ってきたのは、それから半刻ほどしてからだった。
表情は変わっていなかったが、千歳には少し疲れた気配があるのが分かった。
千歳はそっと、朔の傍へ寄った。
「大丈夫でしたか」
「問題ない。抑えた」
「ひどかったですか」
「……いつもより、少し強かった」
朔は短く言って、宴の方を見た。
誰も気づいていない。子どもたちはまだ走り回っていて、大人たちは話している。
「千歳」
「はい」
「皆が普通でいられているのは、おまえが普通でいたからだ」
千歳は少し驚いた。
「わたしは何もしていません。ただ話を聞いていただけで」
「それでいい。場を保てれば、それでいい」
場を保つ。朔が外れていた間、千歳が宴の中にいたことで、場の空気が保たれた。それがこの夜の、千歳の役目だったのかもしれない。
宴が終わって、里の人々が帰っていく頃、空を見上げると星が出ていた。
雲のない冬の夜の星は、鋭く、たくさんあった。灯篭の火が消えた後も、星の光だけで雪が白く見えるほどだった。
千歳は見送りを終えてから、中庭に残っていた。
梅の古木の前に立って、上を見た。
枝の先に、また芽が少し膨らんでいた。
「千歳様」
紅葉が傍に来た。
「今夜は、本当によくやってくださいました」
「何もしていないに等しいですよ」
「いいえ。千歳様が晴れ着でそこにいてくださったことで、皆さんの顔が明るかったです。それから長老がとても喜んでいらっしゃいました。あの方、昔話を聞いてくれる人がいなくて寂しかったそうで」
「そうだったのですか」
「朔様のそばに、千歳様がいることで、この神域が変わってきています」
「わたしには、まだそこまでは見えなくて」
「見えなくていいのです。続けていれば、いつか分かる」
紅葉はそれだけ言って、先に屋敷の中へ戻っていった。
千歳が部屋へ戻ろうとしたとき、廊下に朔がいた。
どこかへ行くのではなく、廊下に立って、外を見ていた。千歳が気づくと、朔も千歳を見た。
「星が出ています」
千歳が言うと、朔は窓の方を見た。
「この神域は、冬が晴れると星がよく見える」
「都では、こんなに見えなかったです」
「都は明るいからだ。暗いほど、よく見える」
「朔様は、星をよく見るのですか」
「……昔は、よく見た」
「今は?」
「見る暇がなかった」
千歳は少し考えてから、言った。
「今日は、見られましたか」
朔は千歳を見た。
少しの間があって、
「……ああ」
と言った。
短い答えだったが、
「良かったです」
千歳は満足そうにそう言って、部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、今夜の灯篭の光を思い出していた。
雪が光を受け取って、倍にして返す。
この神域にいる千歳も、少し、そういうものになれているといい。
誰かが持ってきてくれた温かさを、倍にして返せるような。
部屋に入ると、雪丸が待っていた。
「ちとせ、おそかった」
「宴の後片付けを少し手伝っていたから」
「きょう、たのしかった?」
「とても」
「ぼくも。こどもたちが、いっぱいきた」
「雪丸は子どもたちに大人気でしたね」
「うん」
雪丸は満足そうに目を細めた。
「ちとせ、きょう、きれいだった」
「ありがとうございます」
「さくも、みてた」
千歳は手を止めた。
「朔様が?」
「うん。ちとせが灯篭のそばにいたとき、ずっとみてた。ちとせが気づかないときも、みてた」
千歳は何も言えなかった。
気づかないときも、見ていた。
「……それは本当ですか」
「うん。においで分かる。さく、ちとせのことみてるとき、においがかわる」
「どんな匂いに」
「なんていえばいいか……あたたかくて、でもどこかこまってるみたいな、そういうにおい」
困っているような、温かい匂い。
千歳は少し笑った。
困っているような、というのが、いかにも朔らしかった。
自分でも持て余しているのかもしれない。千歳を見てしまうことを、どう扱えばいいか、まだ分からないのかもしれない。
それでも、見ていた。
「雪丸、ありがとう」
「なんで」
「色々、教えてくれるから」
「ぼく、ちとせとさくに、なかよくなってほしいから」
真顔で言った。
千歳は雪丸の頭を撫でた。
「そうなれるといいですね」
「なれる。ぼく、そうおもう」
晴れ着を脱いで、普段の小袖に着替えてから、千歳は行灯の前に座った。
今夜のことが、まだ体の中にある。
灯篭の光と雪の白さ。梅の枝の影。長老の話。東の端で起きた穢れを一人で抑えに行った朔の背中。そして戻ってきた朔が「千歳が普通でいたから、皆が普通でいられた」と言ったこと。
今夜の千歳には、役目があった。
でもそれは、強いられた役目ではなかった。
朔が外れている間、場を守りたいと思った。皆が楽しく過ごせるように、自分がここにいたいと思った。
そういう気持ちが、あった。
千歳は自分の手を見た。
今日、子どもの手を握った手。灯篭の和紙を張った手。長老と話しながら茶を受け取った手。
たくさんのものに触れた手が、今夜は満ちている感じがした。
からではなく、満ちている。
そういうことが、あるのだと今日知った。
行灯を落として、布団に入った。
雪丸が隣で丸くなる。
廊下で足音がした。
今夜も、部屋の前で遅くなった。
でも今夜は、少しだけ長く、そこに留まった気がした。
それから音もなく、遠ざかっていった。
千歳は目を閉じたまま、その足音を聞いていた。
今夜は少し長く、留まった。
それだけで、今夜の千歳には十分だった。
外では星が出ていた。
雪の上に、星の光だけが静かに落ちていた。




