第十一章 迎えの使者
恒一が神域に来たのは、祭事から四日後のことだった。
朝の見廻りから戻った朔が、紅葉に何かを告げているのを、千歳は廊下で耳にした。
「表に、千歳の家の者が来ている」
千歳は足を止めた。
紅葉が「千歳様に伝えますか」と問うと、朔は少し間を置いてから、「本人に聞け」と答えた。
千歳は廊下を戻って、二人の前に出た。
「聞こえていました」
「そうか」
「会います」
朔は千歳を見た。
「会うのか」
「はい。どういうつもりで来たのかを、確かめたいので」
「……俺も同席する」
「よろしいのですか」
「花嫁への来客だ。俺が同席して当然だ」
千歳は頷いた。
表の広間に通されたのは、恒一だった。
従者を二人連れていたが、広間には一人で入ってきた。こげ茶の羽織に、旅の埃が少し残っている。長い道程を経てきたのだと分かった。
千歳を見た瞬間、恒一の表情が少し動いた。
驚いたのかもしれない。千歳自身は何も変わったつもりはないが、向こうには何か違って見えたのかもしれない。
「千歳。久しぶりだな」
「恒一様。よくいらしてくださいました」
千歳は丁寧に頭を下げた。
恒一は上座に座った朔を見た。一瞬だけ、金の瞳と目が合ったのだろう、わずかに体が固まった。それでも表情は崩さず、朔に向かって深く礼をした。
「朔殿。千歳の兄の恒一と申します。妹がお世話になっております」
「……ああ」
朔の答えは短かった。
恒一はそれを気にした様子もなく、座った。
「千歳、元気そうだな」
「はい。おかげさまで」
「顔色が良い。安心した」
安心した、という言葉は、うまく作られていた。心配していた兄が、妹の元気な顔を見て安堵する。そういう絵を、恒一は自然に描いていた。
千歳はそれを見ながら、思った。
この人は昔から、こういう人だった。悪人ではない。ただ、家の論理の中で生きていて、その外側が見えない。
「遠くまでいらしたのですね。道中は」
「山を越えるのに少し手間取ったが、大事はなかった。それより、おまえのほうが心配で」
「ご心配には及びません」
「そうか。……神域での暮らしには慣れたか」
「はい。皆さんよくしてくださっています」
「そうか。それは良かった」
恒一は茶を一口飲んでから、少し声のトーンを変えた。
「実は、家からも確かめるよう頼まれてきた。おまえがここで、何をしているかを」
「文にも書きましたが、穏やかに暮らしています」
「そうではなく」
恒一は言葉を選ぶように間を置いた。
「力のことだ。おまえに特別な力があると、家では聞いている。ここでそれが、どう使われているかを」
千歳は答える前に、少し朔を見た。
朔は黙っていたが、目が千歳に向いていた。
答え方は千歳に任せる、という目だった。
「力については、まだ自分でもよく分かっていません」
「しかし何か、あるのだろう」
「あるのかもしれませんが、それをどう説明すればいいか」
「神域の役に立っているのか」
「それは、朔様がご存じでしょう」
恒一は朔を見た。
朔はわずかに間を置いてから、
「千歳はここで、必要なことをしている」
とだけ言った。
それ以上は何も言わなかった。
恒一は少し考えるような顔をしてから、また千歳を見た。
「家では、おまえのことを案じている。神のもとへ嫁いで、不自由はしていないかと」
「不自由はしていません」
「寂しくはないか」
「寂しくはありません」
答えるたびに、恒一の表情が少し変わった。
想定していた答えと、違うのかもしれない。都から遠い辺境へ嫁いだ娘が、不自由で寂しいと言う。そういう答えを期待していたのかもしれない。
「おまえが心配だ、千歳」
恒一は声を低くした。
「ここは確かに、清々しい場所だろう。だが、人の気配も少ない。おまえは都の暮らしに慣れていた。こういう場所が、本当に合っているのか」
「合っています」
「即答するな。よく考えてから言え」
「考えた上で言っています」
千歳がそう言うと、恒一は少し黙った。
「ここへ来てから、毎日何かがあります。退屈もしていないし、誰かに疎まれてもいない。それが都の屋敷と、一番違うことです」
言いすぎたかと思った。
でも取り消さなかった。
恒一の顔に、何かが過ぎた。後ろめたさに似たものかもしれなかった。でもすぐに、表情は元に戻った。
「千歳、おまえの居場所は元の家にしかない」
冷静な言い方だった。
怒鳴るわけでも、責めるわけでもない。ただ事実を告げるように言う。それが恒一のやり方だった。
「家には、おまえを必要としている者もいる」
「力を必要としているのでしょう」
「それだけではない」
「では、何を必要としているのですか」
恒一はわずかに間を置いた。
「家の名を、おまえの力で高めることができる。それはおまえ自身の価値にもなる」
千歳は冷静に、その言葉を聞いた。
家の名を高めること。それが、千歳の価値。
以前なら、そう言われると、何も言えなくなっていた。反論する言葉を持っていなかった。家の言うことが正しいのだと、どこかで思い込んでいた。
でも今は。
「恒一様」
「なんだ」
「わたしはここにいます」
短く言った。
恒一は眉を動かした。
「今は、ということか」
「ここにいることを、選んでいます」
「選ぶも何も、嫁入りは家が決めたことだ」
「嫁入りはそうです。でも、ここにいたいと思うことは、わたしが決めることです。わたしは、家の役に立つためにここへいるのではありません」
広間が、静かになった。
恒一は千歳を見た。
何かを測るような目だった。この妹がいつの間にこういう言い方をするようになったのか、という驚きが、その目の奥にあった気がした。
「……変わったな、千歳」
「そうでしょうか」
「以前はそういう言い方をしなかった」
「以前は、言う場所がありませんでした」
また沈黙があった。
恒一はしばらく黙ってから、朔を見た。
「……千歳のことは、千歳が決める」
朔様の声は低く、穏やかだった。けれど、その場の空気を押し返すには十分だった。
「ここにいるのは、誰かに差し出されたからではない。千歳が自分で選んでいる」
金の瞳が、まっすぐ恒一様を見据える。
「だから、返すつもりはない」
千歳は息を呑んだ。
返すつもりはない。
その言葉は、囲うためのものではなく、千歳の意思ごと受け取るようにして告げられた。
誰かに決められるのではなく、自分で選んだのだと。
それを、朔様が人前で口にしてくれた。
胸の奥が、かすかに震えた。
うまく言葉にはできなかったけれど、ここにいていいのだと、もう一度だけ深く許されたような気がした。
「……はい」
千歳は小さく答えた。
それだけで精いっぱいだった。
「大切にしていただいているようで、安心しました」
恒一はそこで一礼して、立ち上がりかけた。
だが、ふと何かを思い直したように動きを止めた。
そのまま、やおらに座り直す。
「……ひとつだけ、言っておく」
低い声だった。叱るようでも、責めるようでもない。ただ、家の内側にある論理だけを、そのまま運んできたような声音だった。
「おまえの力のことは、都でも少しずつ知られ始めている」
千歳は息を止めた。
「庭の木が息を吹き返したことも、古い祠の荒れがわずかに鎮まったことも、すでに噂になっている。家は、それを見過ごさない」
恒一様はまっすぐ千歳を見た。
「今のおまえは、もうただの厄介払いで済ませてよい娘ではない。家にとって、取り戻す理由のある存在になっている」
その言い方は穏やかだった。
穏やかであるぶん、その中にあるものがはっきり伝わってきた。
娘だからではない。
千歳だからでもない。
役に立つから、惜しまれているのだ。
「だからこそ、今のうちに戻れと言っている。家のためでもあるが……おまえ自身が、これ以上都合よく値踏みされる前に」
千歳は何も言えなかった。
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。
優しさのように聞こえる言葉の底にあるものが、あまりにもよく分かってしまった。
戻れと言っているのではない。
まだ値のつくうちに、家の内へ囲い直したいのだ。
「千歳、一つだけ聞かせてくれ」
「何でしょう」
「本当に、ここが良いのか」
今度は声が、少し違った。
家の代表として来た恒一ではなく、もう少し個人的な何かが混じっていた。
千歳はその目を見た。
「はい」
「後悔はないか」
「ありません」
「……そうか」
恒一は立ち上がった。
「おまえが元気なら、それでいい」
それだけ言って、広間を出ていった。
恒一が去った後、広間に千歳と朔の二人が残った。
千歳はしばらく、恒一が出ていった方向を見ていた。
朔が口を開いた。
「言いたいことは言えたか」
「……はい。思っていたより、言えました」
「そうか」
「緊張するかと思っていたのですが、不思議と落ち着いていて」
「なぜだと思う」
千歳は少し考えた。
「朔様がいたからかもしれません」
朔は何も言わなかった。
「ここに朔様がいてくださって、同席してくださっていて。それだけで、ここがわたしの場所だという気がしました」
また沈黙があった。
今度は長かった。
千歳は少し言いすぎたかと思った。でも取り消す言葉が見つからなかった。
「……そうか」
やがて朔が言った。
それだけだったが、声が、少し低かった。低く、落ち着いていて、でも何かが混じっていた。
千歳は朔を見た。
朔は前を向いていた。
その横顔に、いつもとわずかに違う何かがあった。うまく言葉にはできないが、固く閉まっていた扉が、ほんの隙間だけ開いたような。
「千歳」
「はい」
「……よくやった」
短い言葉だった。
でも千歳には、その言葉が今日一番、胸の奥まで届いた。
紅葉が茶を持ってきたとき、千歳はまだ広間にいた。
「終わりましたか」
「はい」
「お疲れでしたね」
「疲れたというより……少し、不思議な気持ちで」
「どういう」
「あの家のことを、以前よりずっと遠くに感じました。同じ人と話したのに」
紅葉は茶を置いてから、穏やかな声で言った。
「それは、千歳様がここに根を張り始めているからだと思います」
「根を張る」
「木でも草でも、根が張れば揺らがない。千歳様の根が、この神域に少しずつ張り始めている。だから外から揺らそうとされても、揺らがなかった」
千歳は紅葉の言葉を、ゆっくりと受け取った。
根が張り始めている。
「紅葉さん」
「はい」
「恒一様が、わたしに本当に帰れと言ったら、どうなっていたでしょう」
「帰る必要はありません」
「でも、家の決めたことだと言われたら」
「千歳様」
紅葉は真っ直ぐに千歳を見た。
「朔様が、あなたを手放すとは思えません」
千歳は少し驚いた。
「それは……神域のために必要だから、ということですか」
「さあ、どうでしょう」
紅葉はそれだけ言って、茶を勧めた。
夕方、千歳は中庭に出た。
梅の木の前に立って、枝を見上げた。
今日はまた、芽が少し大きくなっていた。
一日ごとに、確かに変わっている。
千歳は深く息を吸った。
今日、恒一に言った。ここにいることを、選んでいます。
それが本当のことだと、今は確信を持って言える。
都の屋敷が遠くなったのは、この神域が近くなったからだ。
朔がいて、紅葉がいて、雪丸がいて、志乃がいる。澄江が毎日料理を作ってくれて、長老が話を聞かせてくれて、里の子どもたちが雪丸に飛びつく。
全部が、千歳の毎日になっている。
「ちとせ」
雪丸が庭を走ってきた。
「どうしたの」
「さく、しんぱいしてた。ちとせのこと」
「朔様が?」
「うん。あのひとが帰ってから、ちとせのこと、ずっとみてた」
「気づきませんでした」
「ちとせがきづかないときに、みてるから」
千歳は梅の木を見た。
「雪丸、朔様に伝えてくれますか」
「なんて」
「千歳は大丈夫だと」
「ぼくがいうの?」
「お願いします」
雪丸はしっぽを振って、屋敷の中へ駆けていった。
千歳は梅の木の前で、もう少し立っていた。
夕日が雪の上に長く伸びていた。
今日、恒一は来て、帰っていった。
でも千歳は、ここにいる。
それがとても、確かなことに感じられた。
夜、廊下で足音がした。
今夜は、千歳の部屋の前で止まった。
通り過ぎず、遅くなるだけでもなく。
千歳は行灯の前で、じっとしていた。
それから障子の向こうから、声がした。
「千歳」
朔だった。
「はい」
「……体は」
「大丈夫です」
「そうか」
それだけだった。
足音が、今度はゆっくりと遠ざかっていった。
千歳は行灯の火を見た。
今夜、足音は止まった。
今まで、遅くなるだけだった足音が、今夜は止まって、声をかけてきた。
小さな変化だった。
でも千歳には、それが今日起きた全てのことの中で、一番大きなことのように感じられた。
雪丸が満足そうに目を閉じている。
千歳は行灯を落とした。
暗くなった部屋に、静けさが満ちた。
外では、また雪が降り始めていた。
でも今夜の雪は、最初の夜とは全然違う雪だった。




