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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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第十二章 帰る場所

 翌朝、千歳は夢を見た。

 都の屋敷の夢だった。

 でも今回は、廊下を歩いても終わりがある夢だった。廊下の突き当たりに、小さな窓がある。窓の外には雪が降っていて、白い庭が広がっている。

 千歳はその窓の前に立って、外を見た。

 都の雪ではなかった。

 もっと深く、もっと白い。辺境の雪だった。

 窓の向こうに、梅の古木があった。

 目が覚めたとき、部屋は青白い朝の光に満ちていた。

 千歳はしばらく天井を見ていた。

 夢の中の窓から見えた梅の木が、まだ目の奥に残っていた。都の屋敷の夢なのに、この神域の梅が見えた。

 それが何を意味するのか、千歳には言葉にできなかった。

 でも、悪い気持ちではなかった。


 朝食の席で、昨日の恒一の訪問について、誰も触れなかった。

 紅葉は普段どおり膳を並べ、雪丸は普段どおり足元に来て、志乃は普段どおり千歳の隣に座った。朔も変わらず上座にいて、変わらず無口だった。

 それが、千歳にはむしろ良かった。

 昨日のことを引きずらせない。それが皆の、無言の配慮なのかもしれないと思った。

「今日は何をするの」

 志乃が千歳に聞いた。

「蔵の書物の続きを読もうと思っています。それから、先日の子どもの様子を手紙で聞いてみようかと」

「あのこどもね。においが変わってたから、きっと元気になってるとおもう」

「そうだといいのですが」

「千歳がふれたんだから、だいじょうぶ」

 志乃は疑いを持たずに言う。

 千歳はその確信を、少し羨ましいと思いながら、茶を飲んだ。

 朔がちらりとこちらを見た。

「子どもというのは」

「先日、里から来た方のお子さんです。体の調子が悪くて、一度手を握らせてもらったのですが」

「それで、どうだった」

「少し楽になったと言っていました。でも一度だけのことで、続いているかどうか」

「志乃が言うなら、続いているだろう」

 朔はそれだけ言って、また椀を手に取った。

 千歳は少し驚いた。朔が志乃の言葉を肯定するのは珍しかった。

「朔様は、志乃を信頼していらっしゃるのですね」

「あれの感覚は、たいてい正しい」

「そうなのですね」

「外れることもあるが」

「どんなときに外れるのですか」

「自分が関わることになると、甘くなる」

 志乃がむっとした顔をした。

「そんなことない」

「ある」

「ない」

「おまえが千歳を連れて祠に行ったとき、大丈夫だと言ったか」

「……いった」

「千歳は熱を出した」

「あれは、志乃のせいじゃない。千歳が触りすぎたから」

「おまえが連れていったせいだ」

 志乃はぷくりと頬を膨らませた。

 千歳は思わず笑った。

 朔が志乃に言い返しているのを見たのは、初めてだった。無口で感情を出さない人が、こういう顔をするのかと、少し意外だった。

 朔は千歳が笑っているのに気づいて、視線を外した。

 でも箸は、ちゃんと動いていた。


 午前中、千歳は蔵で書物を読んでいた。

 昨日読んでいた続きだった。

 神域の古い記録を辿っていくと、あの円形の場所についての記述が出てきた。

 そこにはかつて、神座と書かれていた。

 神座。神が座す場所。

 土地の神が、そこに降りていたのだと書いてある。人々が集まり、祈りを捧げ、神との交わりがあった。それが盛んだった時代の記録は、どれも活気があった。

 でも記録はある時点から変わる。

 人が来なくなったのは、ある冬の出来事がきっかけらしかった。

 詳しくは書かれていなかった。ただ、その年の冬に何かがあって、それ以来、人が来なくなったとだけある。

 千歳はそのページで止まった。

 その年の冬、何があったのか。

 書物には続きがあったが、そこだけは文字が滲んでいて、読み取れなかった。

 気になったが、今日のところは分からなかった。

 千歳は書物を閉じてから、蔵を出た。


 昼前に、紅葉が来た。

「千歳様、少し話せますか」

「はい、どうぞ」

 紅葉は部屋に入って座った。

 いつもより少し、表情が真剣だった。

「昨日の恒一様のことについて、少し確認しておきたいことがあります」

「はい」

「恒一様は、千歳様に戻ってくるよう求めましたか」

「直接にはおっしゃいませんでした。ただ、居場所は家にしかないと言っていました」

「今後また来られる可能性があります。今度はもっと、直接的に戻るよう求めてくるかもしれません」

「そうですね」

「千歳様は、その場合はどうされますか」

 千歳は少し考えた。

 考えてから、思った。

 考えることでもなかった。

「戻りません」

「はっきり言えますか、ご本人に対して」

「昨日、少し言えた気がします。今ならもっと、はっきり言えると思います」

 紅葉はうなずいた。

「それを聞いて安心しました。ただ、千歳様一人で対応する必要はありません。次に来たときは、朔様も必ず同席します」

「昨日のように」

「はい。朔様は、千歳様が一人で対応しなければならない状況にはしないとおっしゃっています」

 千歳は少し驚いた。

「朔様が、そうおっしゃったのですか」

「ええ。今朝、わたくしに言いつけておりました」

 今朝。

 食卓で、普段どおり無口に座っていた朔が、今朝紅葉にそう言っていた。

「……そうですか」

「千歳様」

「はい」

「朔様はああいう方ですから、なかなか言葉に出しません。でも、動きで分かることが多いです。覚えておいてください」

「動きで」

「言葉ではなく、行動で示す方です。言葉を信じるより、何をしているかを見るほうが、朔様のことを理解できます」

 千歳は紅葉の言葉を、ゆっくりと受け取った。

 言葉ではなく、行動で。

 廊下で足音を遅くすること。病の夜に傍にいること。手を握っていること。縁側にいる千歳に、冷えすぎる前に入れと言うこと。今朝、紅葉に言いつけておくこと。

 全部が、行動だった。

 千歳は、それを少しずつ受け取ってきた。でも受け取ったことに、まだ確信が持てずにいた。

「紅葉さん」

「はい」

「それは、わたしに、ちゃんと受け取っていいということですか」

 紅葉はわずかに目を細めた。

「千歳様はいつも、受け取っていいかどうかを確かめてから受け取ろうとしますね」

「……そうですか」

「都の屋敷では、差し出されても本当ではないことが多かったから、でしょうか」

 千歳は少し黙った。

「そうかもしれません」

「ここでは、差し出されたものは本物です。少なくとも、わたくしたちが千歳様に差し出すものは。朔様のものも」

 紅葉は冷静に、でもはっきりと言った。

「受け取ってください、千歳様。遠慮なく」


 昼餉の後、千歳は一人で中庭へ出た。

 梅の木の前に立って、枝を見上げた。

 芽が、また少し膨らんでいた。

 毎日見ているから分かる。一日ごとの変化は小さいが、確かに積み重なっている。

 千歳もそうだろうか。

 この神域に来てから、毎日少しずつ、何かが変わっている。昨日、恒一を前にして「ここにいることを選んでいます」と言えた。それは一日や二日で生まれた言葉ではなかった。少しずつ積み重なってきたものが、あの場で言葉になった。

「千歳」

 後ろから声がした。

 振り返ると、朔が渡り廊下に立っていた。

 見廻りの装いではなく、屋敷の中にいるときの格好だった。今日は午後の見廻りを終えた後、書院で書物を見ていると聞いていた。

「何か?」

「いや」

 朔は廊下から中庭へ降りてきた。

 千歳の傍まで来て、一緒に梅の木を見上げた。

 しばらく、二人とも黙っていた。

「昨日のことだが」

 朔が言った。

「はい」

「よく言えた」

「……ありがとうございます。でも、朔様がいてくださったから言えたのだと思います」

「それはおまえの言葉だ。俺がいたからではない」

「でも」

「俺がいなければ言えなかったとしても、言ったのはおまえだ」

 千歳は少し考えた。

 朔の言い方は短いが、言っていることは確かだと思った。

「……そうですね」

「あの男は、また来るかもしれない」

「紅葉さんからも聞きました」

「来たとき、俺はいる」

「はい」

「おまえが望む限り、同席する」

 千歳はその言葉を、ゆっくりと受け取った。

 おまえが望む限り。

 千歳の望みを聞いている。千歳がどうしたいかによって、動くと言っている。

「朔様」

「なんだ」

「朔様はいつも、わたしがどうしたいかを聞いてくださいますね」

「……当然だ」

「当然、ですか」

「花嫁がどうしたいかを無視して、俺が決めることはしない」

 千歳は少し笑った。

「都の屋敷では、わたしがどうしたいかを聞かれることは、あまりありませんでした」

「そうか」

「だから、最初は慣れなかったのですが……今は、嬉しいと思っています」

 朔は何も言わなかった。

 梅の木を見たまま、黙っていた。

 でも耳のあたりが、ほんのわずかに赤い気がした。気のせいかもしれない。冬の冷気のせいかもしれない。

 千歳は梅の木に目を戻した。

「朔様、この木は今年もちゃんと咲くのでしょうか」

「咲く。毎年、必ず咲く」

「いつ頃ですか」

「この分なら、二週間もすれば最初の一輪が出るだろう」

「楽しみです」

「……一緒に見るか」

 朔が言った。

 千歳は少し驚いた。

 一緒に見るか、と言った。

「はい。ぜひ」

 朔は頷いた。

 それだけだったが、千歳にはそれが、とても大きなことのように感じられた。


 夕方、雪丸が興奮気味に千歳の部屋に入ってきた。

「ちとせ、きいた?」

「何を」

「さくが、いっしょにうめみるって」

「聞いていましたよ、一緒にいたから」

「すごい。さく、そういうこと、いわない」

「そうなのですか」

「いわない。ぜったいいわない。ちとせとだからだ」

 雪丸はそう言って、しっぽをいっぱいに振った。

「ちとせとだから」

「うん。ぼく、しってた。さくはちとせのこと、とくべつにおもってる」

「雪丸にはそれが分かるのですね」

「においで。さく、ちとせのそばにいると、においがちがう。やわらかくなる」

 匂いが柔らかくなる。

 千歳は少し、胸が温かくなる感じがした。

「雪丸は、おせっかいですね」

「おせっかい?」

「二人のことを、あちこちで教えてくれるから」

「だってとくべつだから。ちとせとさくは、とくべつ」

 雪丸は当然のように言う。

 千歳は雪丸の頭を撫でた。

「ありがとう、雪丸」

「なんで」

「いろいろ、気にかけてくれているから」

「ぼく、ちとせとさくに、しあわせになってほしい」

 真剣な顔で言った。

 千歳は思わず、笑いそうになった。

 でも笑えなかった。

 しあわせになってほしい、という言葉が、まっすぐに届いたから。

「……ありがとう」

 今度はそれだけ言った。


 夕餉の席で、千歳は朔の横顔を見た。

 今日も無口で、必要以上のことは言わない。

 でも千歳には、今日の朔が少し違って見えた。

 昼間に中庭で一緒に梅を見たから、ではないかもしれない。

 ただ、見える角度が変わった気がした。

 この人は言葉が少ない。でも言葉の少なさの裏に、たくさんのものがある。一緒に梅を見るか、と言えた人が、それだけのことを言うためにどれほどのものを動かしたか、千歳には少しだけ想像できた。

 不器用な人だ。

 でも、誠実な人だと思った。

 言葉ではなく、行動で示す。それは裏返せば、行動に嘘がない、ということだ。

「朔様」

「なんだ」

「今夜の吸物、美味しいですね」

 突然言ったから、朔はわずかに目を動かした。

「……ああ」

「澄江さんが、少し工夫したのだと言っていました」

「そうか」

「明日、伝えておきます。美味しかったと」

「そうしろ」

 それだけだったが、朔はその後、椀を一度お代わりした。

 紅葉がまたひっそりと微笑んでいるのを、千歳はまた横目で見た。


 夜、千歳は部屋で今日のことを思い返していた。

 紅葉の言葉。

 受け取ってください、遠慮なく。

 差し出されたものは本物だと、紅葉は言った。

 朔が同席すると言ったこと。一緒に梅を見るかと言ったこと。匂いが柔らかくなると雪丸が言ったこと。

 全部が、差し出されたものだった。

 千歳はずっと、受け取っていいかどうかを確かめてから受け取ろうとしてきた。それは都の屋敷で身についた癖だった。差し出されても、本当ではないことがあった。温かそうに見えて、条件がついていることがあった。

 でもここでは、違う。

 紅葉がそう言った。

 千歳は少し、目を閉じた。

 受け取る、ということは、差し出している人を信じることだ。

 信じていいか、と千歳は自分に問うた。

 答えはすぐに出た。

 信じていい。

 この神域で、千歳に差し出されたものは、全部本物だった。雪丸の温もりも、紅葉の気遣いも、志乃の言葉も、朔の行動も。

 全部、受け取っていいものだった。

 千歳はゆっくりと息を吐いた。

 何かが、ほどけた気がした。

 ずっと少し固く構えていた何かが、今夜、少しほどけた。


 廊下で足音がした。

 今夜も、部屋の前で止まった。

「千歳」

「はい」

「明日、里からまた人が来る。子どもの件で礼が言いたいそうだ」

「そうですか。分かりました」

「体は問題ないか」

「大丈夫です」

「そうか」

 少しの間があった。

 いつもならそこで足音が遠ざかっていく。

 でも今夜は、もう少しだけ間があった。

「……梅は、楽しみにしているか」

 千歳は少し驚いた。

「はい。とても」

「そうか」

 今度こそ、足音が遠ざかっていった。

 千歳は行灯の火を見た。

 梅は、楽しみにしているか。

 そんなことを、わざわざ確かめに来た。

 それが朔という人だった。

 言葉が少ないのに、わざわざ確かめに来る。

 千歳は微かに笑った。

 受け取っていい。

 今夜の千歳には、それがちゃんと分かった。

 行灯を落として、目を閉じた。

 暗い部屋に、雪丸の寝息が満ちていた。

 帰る場所、と千歳は思った。

 それはもうここだった。

 夢を見るとしたら、今夜もきっと、この神域の梅が見えるだろう。


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