表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/17

第十三章 きずの名残

 恒一の訪問から、六日が過ぎた朝のことだった。

 紅葉が千歳の部屋に来たとき、その顔が普段より少し硬かった。

「千歳様、表に来客があります」

「恒一様がまた?」

「いいえ……瑞葉様です」

 千歳は少し間を置いた。

 瑞葉。

 異母姉の名前を、この神域で聞くとは思っていなかった。恒一が来ると思っていた。恒一が戻って、また交渉を試みると思っていた。瑞葉が来るという想定は、していなかった。

「分かりました。通してください」

「朔様にもお声がけしますか」

「……はい。お願いします」


 広間に通された瑞葉は、千歳が知っている瑞葉だった。

 艶のある黒髪を高く結い上げ、深い緑の着物を纏っている。肌が白く、目元が涼やかで、どこへ行っても人目を引く容姿をしている。その瑞葉が、辺境の神域に来ている。

 千歳が入ると、瑞葉は立ち上がった。

 そして、深く頭を下げた。

 千歳は少し驚いた。瑞葉が千歳に頭を下げるのは、初めてのことだった。

「千歳。遠いところをお邪魔しました」

「瑞葉様。よくいらしてくださいました」

 千歳も頭を下げた。

 二人が座ったとき、朔が入ってきた。

 瑞葉は朔を見て、一瞬だけ表情が動いた。それから、丁寧に礼をした。

「朔様。千歳の姉の瑞葉と申します。妹がお世話になっております」

「……ああ」

 朔は上座に座った。

 瑞葉は朔の短い返答を、顔色ひとつ変えずに受け取った。この人はこういう方なのだと、どこかで読んでいたのかもしれない。


 茶が運ばれてから、瑞葉は千歳を見た。

「顔色が良いですね」

「ありがとうございます」

「こちらの暮らしに、慣れましたか」

「はい。おかげさまで」

「そうですか。それは良かった」

 瑞葉の言い方は穏やかだった。刺のある言い方はしていない。でも千歳は、その穏やかさの下にあるものを、少し感じていた。

 瑞葉は表向きには、非の打ちどころがない。

 それは昔からそうだった。何を言うにも品があって、何をするにも丁寧で、誰の前でも完璧に振る舞う。千歳を見下すときも、怒鳴ったり罵倒したりはしない。ただ冷静に、優越感をにじませた言葉を言う。

「千歳には少し難しいでしょうけれど」とか、「あなたは昔からそういう子だったもの」とか。

 そういう言い方が、瑞葉の流儀だった。

「恒一が帰ってから、家でも少し話し合いがあって」

 瑞葉は茶を一口飲んだ。

「千歳がここで元気にしているなら、それが一番だという話になりました」

「……そうですか」

「ただ、わたくし自身は、直接会って確かめたかったのです。文や伝言ではなく」

「それで、いらしたのですか」

「ええ」

 瑞葉は千歳を見た。

 複雑な何かを含んだ目だった。

「神域は、想像と違いましたか」

「想像していたより、ずっと温かいところでした。最初は正直、怖かったのですが」

「そうでしょうね」

「でも来てみると、良い場所で」

「朔様も、噂とは違うと」

 瑞葉は朔をちらりと見た。

 朔は黙っていたが、瑞葉の視線を受けて、わずかに眉が動いた。

「朔様は……怖くないのですか、千歳には」

「最初は少し。でも今は、そうでもないです」

「まあ」

 瑞葉は少し驚いたような顔をした。

 それから、茶を飲んだ。

「千歳は昔から、人の怖いところが見えない子でしたね」

 言い方は柔らかかった。でも千歳には、その言葉の輪郭が分かった。

 人の怖いところが見えない。それは鈍い、ということだ。あるいは、判断力がない、ということだ。瑞葉らしい言い方だった。

「そうかもしれません」

 千歳は素直に答えた。

「でも、見えなくて良かったと思うこともあります」

「どういうことかしら」

「怖いところを先に見てしまうと、その人の良いところが見えなくなることがあるから」

 瑞葉はわずかに目を細めた。

 何かを言いかけた、気がした。でも口をつぐんだ。

「千歳は、変わりましたね」

「そうでしょうか」

「ええ。昔のあなたは、こういう言い方をしなかった」

「恒一様にも同じことを言われました」

「そう。変わったのね」

 瑞葉の声は、穏やかだった。

 でも千歳には、その穏やかさの下に、何かが揺れているのが分かった。


 しばらく話が続いてから、瑞葉は少しだけ声のトーンを落とした。

「千歳、一つだけ聞いてもいいかしら」

「はい」

「あなたは本当に、ここが良いの」

「はい」

「家には戻りたくない?」

「……はい」

 瑞葉はわずかに間を置いた。

「家を捨てるということよ。分かって言っているの」

「捨てるとは思っていません。ただ、ここにいることを選んでいます」

「同じことでしょう」

「違うと思います。捨てるのは相手を拒むことで、選ぶのは自分が向かう場所を決めることですから」

 瑞葉は、千歳をじっと見た。

 今度はしばらく、黙っていた。

「あなたには、役目があるのよ」

「力のことですか」

「それだけではなく。家の娘として、家のために働くことが」

「役目のために生きることと、自分が生きる場所を選ぶことは、別のことだと思います」

「難しいことを言うのね」

「難しくはないと思います。ただ、以前は言えなかっただけで」

 瑞葉はまた黙った。

 今度の沈黙は、少し長かった。

 千歳は瑞葉を見ていた。

 瑞葉の顔が、少しだけ、普段と違った。

 完璧に保たれていたものが、ほんの少しだけ、ほつれているような。


「千歳には少し難しいでしょうね」

 昔から何度も聞いた言い方だった。千歳には難しい。千歳にはできない。千歳はそういう子。

 以前はその言葉のたびに、自分の中に小さな傷が増えた。難しいのかもしれない、できないのかもしれない、そういう子なのかもしれないと、だんだん信じるようになっていった。

 でも今は。

「そうかもしれません」

 千歳がそう言うと、

「でも、難しくてもここにいます」

 瑞葉は千歳を見た。

「……あなたはここにいると、選んだわけね」

「はい」

「何があっても」

「はい」

 瑞葉はしばらく千歳を見てから、ゆっくりと視線を外した。

 窓の外を見た。雪の庭が見えた。

「きれいなところね」

 瑞葉が言った。

 今度は、穏やかな声だった。

 批評でも、嫌味でもなかった。ただ、見たものをそのまま言葉にしたような。

「はい。毎日、きれいです」

「雪がこんなに深いのは、初めて見た」

「わたしも、来る前は想像できませんでした」

「そう」

 瑞葉はしばらく、窓の外を見ていた。

 千歳も一緒に、外を見た。

 雪の庭に、今日は日差しが差していた。梅の古木が、白い光の中に浮かんでいる。

「あの梅、咲くの」

 瑞葉が言った。

「はい。もうすぐだそうです。朔様が毎年必ず咲くとおっしゃっていました」

「そう」

 それきり、瑞葉は黙った。


 瑞葉が立ち上がりかけたとき、千歳は声をかけた。

「瑞葉様」

「なに」

「今日、来てくださってありがとうございました」

 瑞葉は少し驚いたような顔をした。

「お礼を言われるとは思わなかった」

「直接会えて、良かったと思っているので」

「わたくしが来たのは、千歳のためだけではないのよ」

「分かっています」

「それでも、礼を言うの」

「はい」

 瑞葉は千歳を見た。

 何かを言いたそうな顔をしていた。でも言葉が出てこないようだった。

「……あなたは、変わったわ」

「そうでしょうか」

「以前は、こんな顔をしていなかった」

「こんな顔、というのは」

「ここにいる顔。ここが自分の場所だという顔」

 千歳はその言葉を、少し意外に思いながら受け取った。

 瑞葉がそういうことを言うとは、思っていなかった。

「瑞葉様は、ご自分の場所がおありですか」

 聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。

 瑞葉の顔が、わずかに変わった。

 怒った顔ではなかった。

 何かが、揺れた。

「……あるに決まっているでしょう」

 言い方が、少し硬かった。

 千歳は何も言わなかった。

 瑞葉はすぐに表情を整えて、頭を下げた。

「朔様、千歳をよろしくお願いいたします。長居をして申し訳ありませんでした」

「……ああ」

 朔の短い返事に、瑞葉は今度も顔色を変えなかった。

 そのまま、広間を出ていった。


 瑞葉が帰ってから、千歳と朔が広間に残った。

 前回の恒一の後と同じ構図だったが、今日はなんとなく違う空気があった。

 朔が先に口を開いた。

「あの女は、何をしに来たのだと思う」

「……複雑なことが、いくつかあったと思います」

「複雑な?」

「家の代表として、わたしの状況を確かめに来たこと。それは確かだと思います。でもそれだけではない気がして」

「他に何がある」

「瑞葉様は、ずっと家で期待を一身に受けてきた方です。完璧であることを求められて、完璧に応えてきた。でもわたしには、そういうものがなかった。何も期待されていなかった」

「……それが」

「今になって、わたしに力があると分かって、わたしがここで場所を得て。そのことへの……複雑な感情が、あの方の中にあるのではないかと思います」

 朔は少し間を置いた。

「おまえは、それを怒っていないのか」

「怒る気持ちが、ないわけではないです。昔のことを思えば。でも今のわたしには、瑞葉様が少し気の毒に見えました」

「なぜ」

「居場所を問われたとき、あるに決まっていると言ったのですが、その言い方が……本当のことを言っているような声ではなかったので」

 朔は黙った。

 千歳は続けた。

「あの家の論理に縛られたまま、その中でしか生きられない人なのかもしれないと思って。それはそれで、つらいことだと」

「……おまえは、不思議なやつだな」

 朔が言った。

「不思議ですか」

「見下してきた相手を、気の毒に思える」

「気の毒だと思うことと、傷ついたことは、別のことです。どちらも本当のことだから」

 朔はしばらく黙っていた。

「強くなったな」

 千歳は少し驚いた。

「強く、なりましたか」

「ここへ来た最初の日のおまえとは、違う」

「最初の日は、どう見えましたか」

「静かだったが、どこかで全部を閉じていた。今は違う。静かだが、開いている」

 千歳は朔の言葉を、ゆっくりと受け取った。

 閉じていた。今は開いている。

 そう言われると、確かにそうかもしれないと思った。

「朔様のおかげです」

「俺は何もしていない」

「してくださっています。ここにいていい場所を作ってくださっていることが、わたしには大きかったです」

 朔は何も言わなかった。

 でも今日もまた、耳のあたりがほんのわずかに赤い気がした。


 夕方、千歳は一人で縁側に出た。

 今日は風がなく、冷気が静かに満ちていた。

 瑞葉のことを考えていた。

 あの人がいつも千歳に向けてきた言葉たちを、思い出していた。

 千歳には難しいでしょうね。あなたは昔からそういう子だったもの。あなたが選ばれるなんて、少し不思議ですわ。

 その言葉たちは、千歳の中に傷として残っている。消えたわけではない。今日、瑞葉の顔を見て、あの言葉たちが体の奥から浮かんできた。

 でも以前とは違った。

 以前は、その傷に触れると、信じてしまいそうになった。難しいのかもしれない。そういう子なのかもしれない。

 今は、触れても、そう思わなかった。

 傷はある。でも傷が、千歳の全部ではない。

 紅葉が「根が張り始めている」と言った。

 根が張れば、揺らがない。

 千歳は縁側の端に座って、梅の古木を見た。

 あの木も、冬の間ずっと、誰が見ていなくても枝を張っていた。花のない時期も、根を張り続けていた。

 千歳もそうありたいと思った。

 誰かに見てもらえなくても、認めてもらえなくても、根を張り続けること。

 そうしていれば、いつか花が咲く。


 雪丸が縁側に来た。

「ちとせ、きょうのひと、こわかった?」

「怖くはなかったです。ただ、少し重かった」

「おもかった?」

「昔のことが色々出てきたから」

「ちとせを、いじわるしてたひと?」

「意地悪と言うより……難しい人でした」

「ちがいがわからない」

「いじわるな人は、自分がいじわるしているとわかってやっています。瑞葉様は、自分がしていることが正しいと思ってやっているんです。そっちのほうが、難しい」

 雪丸はしばらく考えるような顔をした。

「……よくわからない」

「分からなくていいです。雪丸はそのままでいてください」

「そのまま?」

「懐いていいと思ったらすぐ懐く、雪丸のままで」

 雪丸はしっぽをパタパタ振った。

「それがいい。むずかしいのは、ちとせにまかせる」

「ありがとうございます」

「さく、さっき、しんぱいしてた」

「また?」

「うん。ちとせが縁側にいるの見て、そのままにしてていいのかって、もみじにきいてた」

「紅葉さんに聞いていたのですか?」

「うん。もみじが、たまにはひとりにさせてあげてくださいって言ってた。さくは、そうかってなった」

 千歳は少し笑った。

 心配して、でも紅葉に制されて、そうかと引いた。

 それが朔という人だった。

「朔様に、ありがとうと伝えてもらえますか」

「また?」

「また、お願いします」

 雪丸は渋々という顔をしながら、でもすぐに立ち上がった。


 夕餉の席で、朔は珍しく千歳より先に来ていた。

 千歳が入ると、朔はちらりとこちらを見た。

「顔色は」

「大丈夫です」

「そうか」

 志乃がそっと千歳の耳元で言った。

「朔さま、さっきから何度も千歳のほう、みてた」

「そうですか」

「うん。ちとせがくるまで、ずっと」

 千歳は朔を見た。

 朔は視線を外して、茶を飲んでいた。

 今夜の膳には、澄江が千歳の好みを知って作ってくれた椀物があった。千歳が先日「美味しい」と言ったものの、少し趣向を変えたものだった。

「澄江さん、覚えていてくださったのですね」

「千歳様がお好きだとおっしゃっていましたから」

 紅葉が笑顔で答えた。

 千歳は椀を手に取った。

 今日は色々あった。でも今ここにある膳は、温かかった。

 朔が、椀を手に取った。

 雪丸が足元でしっぽを振っている。志乃が隣で椀を両手で抱えている。紅葉が微笑んでいる。

 これが、千歳の毎日だった。

 瑞葉が来ても、恒一が来ても、これは変わらなかった。

 それが、千歳には何より確かなことだった。


 夜、千歳は行灯の前で刺繍をしていた。

 梅の刺繍は、だいぶ出来上がってきていた。花が五輪、枝が二本。あと少しで、一枚の絵として完成する。

 今日、瑞葉が言った言葉を思い返していた。

 ここにいる顔。ここが自分の場所だという顔。

 千歳がそういう顔をしているのだと、瑞葉の目に見えていた。

 それは千歳自身には、見えなかった。でも瑞葉が見えたなら、本当にそうなのだろう。

 千歳にはいつから、そういう顔ができるようになったのだろう。

 来た日からではない。最初の夜は、役目だけ果たして消えようと思っていた。

 でも少しずつ、何かが変わっていった。

 雪丸が懐いてきた夜から。紅葉が「受け取っていい」と言った日から。朔が梅を一緒に見るかと言った昼から。

 全部が積み重なって、今の千歳の顔になっている。

 廊下で、足音がした。

 止まった。

「千歳」

「はい」

「今日は……よく言えた」

「ありがとうございます」

「あの女に、怯まなかった」

「少し怯みましたよ、内心では」

「そうは見えなかった」

「見えないようにしていたわけでもなかったのですが」

 少しの間があった。

「……根が張ってきたな」

 紅葉と同じ言葉だった。

 千歳は驚いて、思わず聞いた。

「朔様も、そう思われますか」

「ああ」

「紅葉さんも同じことをおっしゃっていました」

「紅葉は、よく見ている」

「朔様もよく見ていらっしゃいますね」

 少しの間があった。

「……おまえのことは、見ている」

 囁くような声だった。

 千歳は行灯の火を見た。

 おまえのことは、見ている。

 それがどういう意味で言われた言葉なのか、千歳には分かった。

 ただ花嫁だから見ているのではない。朔様だから、花嫁の管理をしているのでもない。

 千歳のことを、見ている。

「……嬉しいです」

 千歳が言うと、少しの間があってから、

「そうか」

 と返ってきた。

 それから足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。

 千歳は刺繍の針を持ったまま、しばらくそのままでいた。

 おまえのことは、見ている。

 その言葉が、今夜の部屋に満ちていた。

 行灯の火が、静かに揺れていた。

 消えない。

 揺れても、消えない。

 千歳は針を動かした。

 梅の刺繍の、最後の一輪を刺し始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ