第十三章 きずの名残
恒一の訪問から、六日が過ぎた朝のことだった。
紅葉が千歳の部屋に来たとき、その顔が普段より少し硬かった。
「千歳様、表に来客があります」
「恒一様がまた?」
「いいえ……瑞葉様です」
千歳は少し間を置いた。
瑞葉。
異母姉の名前を、この神域で聞くとは思っていなかった。恒一が来ると思っていた。恒一が戻って、また交渉を試みると思っていた。瑞葉が来るという想定は、していなかった。
「分かりました。通してください」
「朔様にもお声がけしますか」
「……はい。お願いします」
広間に通された瑞葉は、千歳が知っている瑞葉だった。
艶のある黒髪を高く結い上げ、深い緑の着物を纏っている。肌が白く、目元が涼やかで、どこへ行っても人目を引く容姿をしている。その瑞葉が、辺境の神域に来ている。
千歳が入ると、瑞葉は立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
千歳は少し驚いた。瑞葉が千歳に頭を下げるのは、初めてのことだった。
「千歳。遠いところをお邪魔しました」
「瑞葉様。よくいらしてくださいました」
千歳も頭を下げた。
二人が座ったとき、朔が入ってきた。
瑞葉は朔を見て、一瞬だけ表情が動いた。それから、丁寧に礼をした。
「朔様。千歳の姉の瑞葉と申します。妹がお世話になっております」
「……ああ」
朔は上座に座った。
瑞葉は朔の短い返答を、顔色ひとつ変えずに受け取った。この人はこういう方なのだと、どこかで読んでいたのかもしれない。
茶が運ばれてから、瑞葉は千歳を見た。
「顔色が良いですね」
「ありがとうございます」
「こちらの暮らしに、慣れましたか」
「はい。おかげさまで」
「そうですか。それは良かった」
瑞葉の言い方は穏やかだった。刺のある言い方はしていない。でも千歳は、その穏やかさの下にあるものを、少し感じていた。
瑞葉は表向きには、非の打ちどころがない。
それは昔からそうだった。何を言うにも品があって、何をするにも丁寧で、誰の前でも完璧に振る舞う。千歳を見下すときも、怒鳴ったり罵倒したりはしない。ただ冷静に、優越感をにじませた言葉を言う。
「千歳には少し難しいでしょうけれど」とか、「あなたは昔からそういう子だったもの」とか。
そういう言い方が、瑞葉の流儀だった。
「恒一が帰ってから、家でも少し話し合いがあって」
瑞葉は茶を一口飲んだ。
「千歳がここで元気にしているなら、それが一番だという話になりました」
「……そうですか」
「ただ、わたくし自身は、直接会って確かめたかったのです。文や伝言ではなく」
「それで、いらしたのですか」
「ええ」
瑞葉は千歳を見た。
複雑な何かを含んだ目だった。
「神域は、想像と違いましたか」
「想像していたより、ずっと温かいところでした。最初は正直、怖かったのですが」
「そうでしょうね」
「でも来てみると、良い場所で」
「朔様も、噂とは違うと」
瑞葉は朔をちらりと見た。
朔は黙っていたが、瑞葉の視線を受けて、わずかに眉が動いた。
「朔様は……怖くないのですか、千歳には」
「最初は少し。でも今は、そうでもないです」
「まあ」
瑞葉は少し驚いたような顔をした。
それから、茶を飲んだ。
「千歳は昔から、人の怖いところが見えない子でしたね」
言い方は柔らかかった。でも千歳には、その言葉の輪郭が分かった。
人の怖いところが見えない。それは鈍い、ということだ。あるいは、判断力がない、ということだ。瑞葉らしい言い方だった。
「そうかもしれません」
千歳は素直に答えた。
「でも、見えなくて良かったと思うこともあります」
「どういうことかしら」
「怖いところを先に見てしまうと、その人の良いところが見えなくなることがあるから」
瑞葉はわずかに目を細めた。
何かを言いかけた、気がした。でも口をつぐんだ。
「千歳は、変わりましたね」
「そうでしょうか」
「ええ。昔のあなたは、こういう言い方をしなかった」
「恒一様にも同じことを言われました」
「そう。変わったのね」
瑞葉の声は、穏やかだった。
でも千歳には、その穏やかさの下に、何かが揺れているのが分かった。
しばらく話が続いてから、瑞葉は少しだけ声のトーンを落とした。
「千歳、一つだけ聞いてもいいかしら」
「はい」
「あなたは本当に、ここが良いの」
「はい」
「家には戻りたくない?」
「……はい」
瑞葉はわずかに間を置いた。
「家を捨てるということよ。分かって言っているの」
「捨てるとは思っていません。ただ、ここにいることを選んでいます」
「同じことでしょう」
「違うと思います。捨てるのは相手を拒むことで、選ぶのは自分が向かう場所を決めることですから」
瑞葉は、千歳をじっと見た。
今度はしばらく、黙っていた。
「あなたには、役目があるのよ」
「力のことですか」
「それだけではなく。家の娘として、家のために働くことが」
「役目のために生きることと、自分が生きる場所を選ぶことは、別のことだと思います」
「難しいことを言うのね」
「難しくはないと思います。ただ、以前は言えなかっただけで」
瑞葉はまた黙った。
今度の沈黙は、少し長かった。
千歳は瑞葉を見ていた。
瑞葉の顔が、少しだけ、普段と違った。
完璧に保たれていたものが、ほんの少しだけ、ほつれているような。
「千歳には少し難しいでしょうね」
昔から何度も聞いた言い方だった。千歳には難しい。千歳にはできない。千歳はそういう子。
以前はその言葉のたびに、自分の中に小さな傷が増えた。難しいのかもしれない、できないのかもしれない、そういう子なのかもしれないと、だんだん信じるようになっていった。
でも今は。
「そうかもしれません」
千歳がそう言うと、
「でも、難しくてもここにいます」
瑞葉は千歳を見た。
「……あなたはここにいると、選んだわけね」
「はい」
「何があっても」
「はい」
瑞葉はしばらく千歳を見てから、ゆっくりと視線を外した。
窓の外を見た。雪の庭が見えた。
「きれいなところね」
瑞葉が言った。
今度は、穏やかな声だった。
批評でも、嫌味でもなかった。ただ、見たものをそのまま言葉にしたような。
「はい。毎日、きれいです」
「雪がこんなに深いのは、初めて見た」
「わたしも、来る前は想像できませんでした」
「そう」
瑞葉はしばらく、窓の外を見ていた。
千歳も一緒に、外を見た。
雪の庭に、今日は日差しが差していた。梅の古木が、白い光の中に浮かんでいる。
「あの梅、咲くの」
瑞葉が言った。
「はい。もうすぐだそうです。朔様が毎年必ず咲くとおっしゃっていました」
「そう」
それきり、瑞葉は黙った。
瑞葉が立ち上がりかけたとき、千歳は声をかけた。
「瑞葉様」
「なに」
「今日、来てくださってありがとうございました」
瑞葉は少し驚いたような顔をした。
「お礼を言われるとは思わなかった」
「直接会えて、良かったと思っているので」
「わたくしが来たのは、千歳のためだけではないのよ」
「分かっています」
「それでも、礼を言うの」
「はい」
瑞葉は千歳を見た。
何かを言いたそうな顔をしていた。でも言葉が出てこないようだった。
「……あなたは、変わったわ」
「そうでしょうか」
「以前は、こんな顔をしていなかった」
「こんな顔、というのは」
「ここにいる顔。ここが自分の場所だという顔」
千歳はその言葉を、少し意外に思いながら受け取った。
瑞葉がそういうことを言うとは、思っていなかった。
「瑞葉様は、ご自分の場所がおありですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。
瑞葉の顔が、わずかに変わった。
怒った顔ではなかった。
何かが、揺れた。
「……あるに決まっているでしょう」
言い方が、少し硬かった。
千歳は何も言わなかった。
瑞葉はすぐに表情を整えて、頭を下げた。
「朔様、千歳をよろしくお願いいたします。長居をして申し訳ありませんでした」
「……ああ」
朔の短い返事に、瑞葉は今度も顔色を変えなかった。
そのまま、広間を出ていった。
瑞葉が帰ってから、千歳と朔が広間に残った。
前回の恒一の後と同じ構図だったが、今日はなんとなく違う空気があった。
朔が先に口を開いた。
「あの女は、何をしに来たのだと思う」
「……複雑なことが、いくつかあったと思います」
「複雑な?」
「家の代表として、わたしの状況を確かめに来たこと。それは確かだと思います。でもそれだけではない気がして」
「他に何がある」
「瑞葉様は、ずっと家で期待を一身に受けてきた方です。完璧であることを求められて、完璧に応えてきた。でもわたしには、そういうものがなかった。何も期待されていなかった」
「……それが」
「今になって、わたしに力があると分かって、わたしがここで場所を得て。そのことへの……複雑な感情が、あの方の中にあるのではないかと思います」
朔は少し間を置いた。
「おまえは、それを怒っていないのか」
「怒る気持ちが、ないわけではないです。昔のことを思えば。でも今のわたしには、瑞葉様が少し気の毒に見えました」
「なぜ」
「居場所を問われたとき、あるに決まっていると言ったのですが、その言い方が……本当のことを言っているような声ではなかったので」
朔は黙った。
千歳は続けた。
「あの家の論理に縛られたまま、その中でしか生きられない人なのかもしれないと思って。それはそれで、つらいことだと」
「……おまえは、不思議なやつだな」
朔が言った。
「不思議ですか」
「見下してきた相手を、気の毒に思える」
「気の毒だと思うことと、傷ついたことは、別のことです。どちらも本当のことだから」
朔はしばらく黙っていた。
「強くなったな」
千歳は少し驚いた。
「強く、なりましたか」
「ここへ来た最初の日のおまえとは、違う」
「最初の日は、どう見えましたか」
「静かだったが、どこかで全部を閉じていた。今は違う。静かだが、開いている」
千歳は朔の言葉を、ゆっくりと受け取った。
閉じていた。今は開いている。
そう言われると、確かにそうかもしれないと思った。
「朔様のおかげです」
「俺は何もしていない」
「してくださっています。ここにいていい場所を作ってくださっていることが、わたしには大きかったです」
朔は何も言わなかった。
でも今日もまた、耳のあたりがほんのわずかに赤い気がした。
夕方、千歳は一人で縁側に出た。
今日は風がなく、冷気が静かに満ちていた。
瑞葉のことを考えていた。
あの人がいつも千歳に向けてきた言葉たちを、思い出していた。
千歳には難しいでしょうね。あなたは昔からそういう子だったもの。あなたが選ばれるなんて、少し不思議ですわ。
その言葉たちは、千歳の中に傷として残っている。消えたわけではない。今日、瑞葉の顔を見て、あの言葉たちが体の奥から浮かんできた。
でも以前とは違った。
以前は、その傷に触れると、信じてしまいそうになった。難しいのかもしれない。そういう子なのかもしれない。
今は、触れても、そう思わなかった。
傷はある。でも傷が、千歳の全部ではない。
紅葉が「根が張り始めている」と言った。
根が張れば、揺らがない。
千歳は縁側の端に座って、梅の古木を見た。
あの木も、冬の間ずっと、誰が見ていなくても枝を張っていた。花のない時期も、根を張り続けていた。
千歳もそうありたいと思った。
誰かに見てもらえなくても、認めてもらえなくても、根を張り続けること。
そうしていれば、いつか花が咲く。
雪丸が縁側に来た。
「ちとせ、きょうのひと、こわかった?」
「怖くはなかったです。ただ、少し重かった」
「おもかった?」
「昔のことが色々出てきたから」
「ちとせを、いじわるしてたひと?」
「意地悪と言うより……難しい人でした」
「ちがいがわからない」
「いじわるな人は、自分がいじわるしているとわかってやっています。瑞葉様は、自分がしていることが正しいと思ってやっているんです。そっちのほうが、難しい」
雪丸はしばらく考えるような顔をした。
「……よくわからない」
「分からなくていいです。雪丸はそのままでいてください」
「そのまま?」
「懐いていいと思ったらすぐ懐く、雪丸のままで」
雪丸はしっぽをパタパタ振った。
「それがいい。むずかしいのは、ちとせにまかせる」
「ありがとうございます」
「さく、さっき、しんぱいしてた」
「また?」
「うん。ちとせが縁側にいるの見て、そのままにしてていいのかって、もみじにきいてた」
「紅葉さんに聞いていたのですか?」
「うん。もみじが、たまにはひとりにさせてあげてくださいって言ってた。さくは、そうかってなった」
千歳は少し笑った。
心配して、でも紅葉に制されて、そうかと引いた。
それが朔という人だった。
「朔様に、ありがとうと伝えてもらえますか」
「また?」
「また、お願いします」
雪丸は渋々という顔をしながら、でもすぐに立ち上がった。
夕餉の席で、朔は珍しく千歳より先に来ていた。
千歳が入ると、朔はちらりとこちらを見た。
「顔色は」
「大丈夫です」
「そうか」
志乃がそっと千歳の耳元で言った。
「朔さま、さっきから何度も千歳のほう、みてた」
「そうですか」
「うん。ちとせがくるまで、ずっと」
千歳は朔を見た。
朔は視線を外して、茶を飲んでいた。
今夜の膳には、澄江が千歳の好みを知って作ってくれた椀物があった。千歳が先日「美味しい」と言ったものの、少し趣向を変えたものだった。
「澄江さん、覚えていてくださったのですね」
「千歳様がお好きだとおっしゃっていましたから」
紅葉が笑顔で答えた。
千歳は椀を手に取った。
今日は色々あった。でも今ここにある膳は、温かかった。
朔が、椀を手に取った。
雪丸が足元でしっぽを振っている。志乃が隣で椀を両手で抱えている。紅葉が微笑んでいる。
これが、千歳の毎日だった。
瑞葉が来ても、恒一が来ても、これは変わらなかった。
それが、千歳には何より確かなことだった。
夜、千歳は行灯の前で刺繍をしていた。
梅の刺繍は、だいぶ出来上がってきていた。花が五輪、枝が二本。あと少しで、一枚の絵として完成する。
今日、瑞葉が言った言葉を思い返していた。
ここにいる顔。ここが自分の場所だという顔。
千歳がそういう顔をしているのだと、瑞葉の目に見えていた。
それは千歳自身には、見えなかった。でも瑞葉が見えたなら、本当にそうなのだろう。
千歳にはいつから、そういう顔ができるようになったのだろう。
来た日からではない。最初の夜は、役目だけ果たして消えようと思っていた。
でも少しずつ、何かが変わっていった。
雪丸が懐いてきた夜から。紅葉が「受け取っていい」と言った日から。朔が梅を一緒に見るかと言った昼から。
全部が積み重なって、今の千歳の顔になっている。
廊下で、足音がした。
止まった。
「千歳」
「はい」
「今日は……よく言えた」
「ありがとうございます」
「あの女に、怯まなかった」
「少し怯みましたよ、内心では」
「そうは見えなかった」
「見えないようにしていたわけでもなかったのですが」
少しの間があった。
「……根が張ってきたな」
紅葉と同じ言葉だった。
千歳は驚いて、思わず聞いた。
「朔様も、そう思われますか」
「ああ」
「紅葉さんも同じことをおっしゃっていました」
「紅葉は、よく見ている」
「朔様もよく見ていらっしゃいますね」
少しの間があった。
「……おまえのことは、見ている」
囁くような声だった。
千歳は行灯の火を見た。
おまえのことは、見ている。
それがどういう意味で言われた言葉なのか、千歳には分かった。
ただ花嫁だから見ているのではない。朔様だから、花嫁の管理をしているのでもない。
千歳のことを、見ている。
「……嬉しいです」
千歳が言うと、少しの間があってから、
「そうか」
と返ってきた。
それから足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
千歳は刺繍の針を持ったまま、しばらくそのままでいた。
おまえのことは、見ている。
その言葉が、今夜の部屋に満ちていた。
行灯の火が、静かに揺れていた。
消えない。
揺れても、消えない。
千歳は針を動かした。
梅の刺繍の、最後の一輪を刺し始めた。




