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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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第十四章 神域を蝕むもの

 その朝、朔の帰りが遅かった。

 見廻りはいつも昼前には終わる。でもその日は昼を過ぎても、朔は戻ってこなかった。

 紅葉は表情を変えなかったが、動きがいつもより速かった。台所へ行き、書院へ行き、使用人に何かを指示して戻ってくる。その繰り返しが、いつもより回数が多かった。

 千歳は昼餉の膳を前にして、箸を持てなかった。

「紅葉さん」

「はい」

「朔様が遅いのは、いつものことですか」

「……いつもではありません」

「何かあったのでしょうか」

 紅葉は少し間を置いた。

「神域の奥で、何かが起きているのかもしれません。朔様が見廻りを延長されることは、そういうときにあります」

「どういうときに」

「穢れが、通常より強く動いているときです」

 千歳は膝の上で手を組んだ。

 雪丸は千歳の足元で、耳を立てていた。いつもなら昼餉の時間は食べ物の匂いに集中しているのに、今日は鼻を神域の方角へ向けている。

「ゆきまる、何か感じる?」

「うん。さくのにおいがとおい。そして、いやなにおいがする」

「いやなにおい」

「どろっとした、重いにおい。雨の前みたいな、でももっとくらい」

 紅葉が雪丸を見た。

「どちらの方向?」

「きた。神域のきた、のほう」

 紅葉は立ち上がった。

「少し確認してきます。千歳様は、ここにいてください」

「一緒に行けませんか」

「今は、いてください」

 紅葉の声が、普段より少しだけ硬かった。

 千歳は頷いた。


 紅葉が戻ってきたのは、それから四半刻ほど経ってからだった。

 表情は落ち着いていたが、目に何かが残っていた。

「朔様は、神域の北の区域にいらっしゃいます。今すぐ危険ではありませんが、穢れの揺らぎがいつもより大きいようで、抑えるのに時間がかかっているようです」

「朔様は、お怪我などは」

「それは……今は分かりません」

 千歳は立ち上がった。

「行きます」

「千歳様」

「朔様のそばにいたいのではなくて、何か手伝えることがあれば、と思って」

「手伝えることが、あるかどうか」

「あるかどうかは分からないのですが、ここにじっとしているよりは」

 紅葉は千歳を見た。

 少しの間があって、

「……分かりました。ただし、わたくしも一緒に行きます」


 神域の北の区域は、屋敷から歩いて半刻ほどの場所だった。

 千歳はそこへ行ったことがなかった。志乃に連れられて行った奥の場所とは、別の方向だった。

 紅葉が先に立って、雪の中を進んだ。雪丸がその後を追い、千歳が最後についた。

 進むにつれて、空気が変わってきた。

 重くなる。ゆっくりと、でも確かに。

 千歳は足を止めずに歩きながら、その重さを感じていた。祠で感じたものとも、円形の場所で感じたものとも違う。もっと鋭い、切りつけてくるような重さだった。

「千歳様、大丈夫ですか」

「はい。歩けます」

「無理だと感じたら、言ってください」

「分かりました」

 木々が密になってきた。枝が低く垂れて、雪がかさなって、空が狭くなる。その合間を抜けると、突然開けた場所に出た。

 朔がいた。

 岩の多い、開けた場所の中心に、朔は立っていた。

 その周囲の地面が、違った。

 雪が溶けていた。溶けているのではなく、押しのけられているような。地面が黒ずんでいて、土の中から何かが滲み出ているような見た目だった。空気が、そこだけ歪んでいる気がした。

 朔は千歳たちが来たことに気づいて、振り返った。

 顔が、いつもより厳しかった。疲れているのかもしれない。金の瞳に、普段とは違う光がある。

「来るな」

 低い声だった。

「朔様」

「ここに近づくな。千歳は特に」

「でも」

「特に、と言った」

 千歳は立ち止まった。

 朔の声は命令だったが、怒りではなかった。千歳を近づけてはいけないという、強い意志だった。

「何が起きているのですか」

「穢れが、集まっている。普段は散在しているものが、今日は一箇所に集まって動いている」

「なぜ」

「……分からない。ただ、今朝からここが動き出した。原因は、まだ」

 朔の言葉が途切れた。

 地面が、低く鳴った気がした。

 音ではなかった。振動でもなかった。でも千歳の足元から、何かがじわりと伝わってきた。

 重い。

 今まで感じた中で、一番重かった。祠でも、円形の場所でも感じなかった種類の重さだった。怒りのような、憎しみのような、あるいは長い悲しみが煮詰まったような。

「千歳様」

 紅葉が千歳の腕を取った。

「顔が白い。下がりましょう」

「少し待ってください」

 千歳は地面を見た。

 黒ずんだ土の、縁の部分。そこに、かすかに何かが見えた。

 形、ではなかった。

 気配だった。

 あの円形の場所で感じたものに、似ていた。似ているが、違う。あちらは悲しんでいた。こちらは、何か別のものがある。

「朔様」

「何だ」

「あそこに、何かいます」

 朔がわずかに目を細めた。

「感じるのか」

「はい。あの円形の場所で感じたものに……似ているのですが、違います。あちらは穏やかに悲しんでいた。でもここにいるものは、もっと」

「もっと?」

「怒っています。長い時間をかけて、ゆっくりと」

 朔は千歳を見た。

 それから、黒ずんだ地面の方を見た。

「……ああ、そうだ」

 朔の声に、何かが混じった。

「俺も、それは知っている」

「ご存じだったのですか」

「ずっとここにいる。長い間、俺が抑えてきた」

「ずっと、一人で」

「俺の仕事だ」

 千歳は朔を見た。

 朔の肩が、いつもより少しだけ下がっている気がした。疲弊しているというより、長い時間をかけて重いものを背負い続けてきた人の、そういう重さのある立ち方だった。

「どのくらいの間、ここを抑えてきたのですか」

「……この神域に来てから、ずっとだ」

「それは、どのくらいの時間ですか」

「人の時間で言えば、百年ほど」

 千歳は息を呑んだ。

 百年。

 人の一生を超えるほどの時間を、朔は一人でここに立ってきた。見廻りをして、穢れを抑えて、また翌朝も同じことをして。それを百年続けてきた。

「……朔様」

「余計な顔をするな」

「余計な顔?」

「気の毒そうな顔だ」

「気の毒ではなくて」

「では何だ」

 千歳は少し考えた。

「驚いています。そして、もっと知りたいと思っています」

「何を知りたい」

「朔様のことを。この神域のことを。百年の間、ここで何があったのかを」

 朔は千歳を見た。

 長い沈黙があった。

 地面がまた、低く震えた。

「今は、それどころではない」

「はい。でも、いつか」

「……いつか、話す」

 朔はそう言ってから、また地面に向き直った。


 千歳は紅葉に引かれて、少し後ろへ下がった。

 でも立ち去らなかった。

 見ていたかった。朔が何をしているのかを。

 朔は黒ずんだ地面の前に立って、両腕を少し広げた。動きとしては小さかった。でもその瞬間、空気が変わった。

 冷たい風が吹いた。

 雪の粒が舞い上がって、朔の白銀の髪が風に揺れた。金の瞳が、光を強めた。

 朔から、何かが放たれた。

 言葉にできないものだった。力とも波動とも違う。ただ、朔という存在そのものが、その場の空気を書き換えようとしているような感じだった。

 地面の黒ずみが、ゆっくりと薄くなっていく。

 穢れが抑えられていく様子が、千歳にははっきりと分かった。土地の中に染み込んでいる重さが、少しずつ静まっていく。

 でも全部ではなかった。

 薄くはなったが、消えていない。根のところが、まだある。

 朔の肩が、少し揺れた気がした。

 千歳は一歩、前へ出た。

「千歳様」

 紅葉が止めようとした。

「少しだけ」

 千歳は紅葉の手を、そっと外した。

 一歩ずつ、朔に近づいた。

 朔は振り返らなかった。でも千歳が近づいていることには気づいているはずだった。

「来るなと言った」

「はい。でも少しだけ」

「……来るなと」

「朔様」

 千歳は朔の傍らに立った。

 そっと、朔の袖に触れた。

 触れた瞬間、何かが動いた。

 千歳の中にあるものが、朔のものと繋がる感触があった。川の流れが合流するような、あるいは凍った土が春の水を受け取るような。

 千歳には何が起きているのか、正確には分からなかった。

 ただ、地面の黒ずみが、さらに薄くなった。

「……千歳」

 朔の声が、低かった。

「はい」

「何をしている」

「わたしにできることをしています」

「力を使うな。体に触る」

「少しくらい大丈夫です」

「大丈夫ではない」

「朔様こそ、大丈夫ですか」

 朔は答えなかった。

 でも千歳が触れている袖の下に、力が入っているのが分かった。強く踏ん張っているような、体の中で何かを必死に抑えているような。

「一人でしなくていいのではないですか」

「俺の仕事だ」

「わたしも、ここにいます」

「だから来るなと言った」

「それでも、ここにいます」

 朔は千歳を見た。

 金の瞳が、近い距離で千歳を映した。

 何かを言おうとして、でも言葉が出なかったようだった。

 そのまま、また地面に向き直った。

 千歳は袖から手を離さなかった。


 どのくらいそうしていたのか、分からない。

 やがて地面の黒ずみが、ほとんど見えなくなった。完全ではないが、今日の揺らぎは収まった。

 朔が力を緩めた。

 同時に、千歳の体が傾いた。

「千歳様!」

 紅葉が駆けてきた。

 でもそれより先に、朔の手が千歳の腕を掴んでいた。

 倒れなかった。朔が支えていたから。

「言っただろう」

「はい……すみません」

「なぜ来た」

「来たかったので」

「理由になっていない」

「でも、本当のことです」

 朔は千歳を支えたまま、その顔を見た。

 千歳は立っていたが、足元がふわりとしていた。力を使い過ぎたのかもしれない。でも今は、朔の手が腕にあるから、それだけで安定していた。

「歩けるか」

「たぶん、歩けます」

「たぶん、では歩けない。俺が支える」

「でも朔様も疲れていらっしゃるでしょう」

「俺のことは関係ない」

 朔は千歳の腕を取って、歩き出した。

 紅葉と雪丸が、後をついてきた。

 雪丸が小声で言った。

「ちとせ、だいじょうぶ?」

「大丈夫です」

「さく、こわいかおしてた」

「怒っていたのかな」

「ちがう。しんぱいしてた。こわいかおはしんぱいのときのかお」

 千歳は少し笑った。

 心配のときの顔。

 朔の怖い顔は、心配の顔なのだと、雪丸は言う。


 屋敷に戻ってから、千歳は部屋に寝かされた。

 今回は熱は出なかったが、体が重かった。紅葉が温めた石を持ってきて、両手に握らせた。

「千歳様」

「はい」

「今日のことについて、叱るつもりはありません」

「そうですか」

「ただ、来るなと言われたのに行ったことについては、少し話しておきたいのですが」

「はい」

「なぜ行ったのですか」

 千歳は少し考えた。

「放っておけなかったのです。朔様が一人であそこに立っていて、百年間そうしてきたと聞いて……今日だけでも、隣にいたいと思いました」

「それは千歳様の気持ちです。でも朔様は、千歳様を近づけたくなかった」

「分かっています。でも、わたしが近づいたことで、少し楽になったと思います」

「そうかもしれません。でも千歳様の体に、余分な負担がかかりました」

「それは……承知の上でした」

 紅葉はしばらく黙った。

「千歳様は、自分を後回しにする癖がありますね」

「そうでしょうか」

「あります。来たばかりの頃は、それは自分に価値がないと思っているからだと見えました。でも最近は違う気がします。誰かのためになりたいという気持ちが、先に立っているから」

 千歳は紅葉の言葉を、ゆっくりと受け取った。

「それは、いけないことですか」

「いけなくはありません。ただ、自分の体を大切にすることも、誰かのためになります。千歳様が倒れたら、朔様はもっと心配なさいます」

 千歳は少し考えた。

「朔様が心配する、というのは……そうかもしれませんね」

「そうです。それを覚えておいてください」

 紅葉は立ち上がりかけて、止まった。

「一つだけ、良いことをお伝えします」

「何ですか」

「朔様が今日、わたくしに言いました。千歳が傍にいることで、いつもより楽に抑えられたと」

 千歳は少し目を丸くした。

「本当ですか」

「はい。朔様が自分から、そういうことをおっしゃるのは珍しいことです」

「……そうですか」

「だから、今日のことは無駄ではありませんでした。ただ、次はもう少し自分を守りながら、してほしいのです」

 紅葉はそれだけ言って、部屋を出ていった。


 夕方、志乃が部屋に来た。

「ちとせ、はなしかけてもいい?」

「どうぞ」

 志乃は千歳の傍に座った。

「今日のところ、志乃も感じた」

「感じたの?」

「うん。朝からにおいがへんだった。いやなにおい。でもちとせが行ってから、においがかわった」

「どう変わったの」

「あたたかくなった。まだいやなにおいはあったけど、あたたかいものが混じった。ちとせのにおいが混じったから」

 千歳はその言葉を、冷静に聞いた。

「志乃、あそこにいたものが何か、分かる?」

「うん」

「何だと思う」

 志乃は少し考えるような顔をした。

「あの円形のところにいるものと、おなじ種類だとおもう。でも、ちがう」

「どう違うの」

「あちらはただ、悲しんでいた。でも今日のは……誰かに、されたとおもってる」

「誰かにされた?」

「うん。見捨てられた、のとは違う。ちゃんと傷つけられた、という感じ。だから、怒ってる」

 千歳は志乃の言葉を、頭の中で繰り返した。

 傷つけられたから、怒っている。

「志乃、そのものに名前はある?」

「志乃には、わからない。でも」

 志乃は千歳を見た。

「朔さまは、しってると思う」


 夜、朔が来た。

 障子の向こうから声がした。

「千歳、入っていいか」

 千歳は少し驚いた。

 今まで、朔は中から声をかけてきたことはなかった。廊下で立ち止まって、外から声をかける。それだけだった。

「はい、どうぞ」

 障子が開いた。

 朔が入ってきた。

 部屋の中に、朔が入ってきた。

 千歳はそれだけのことに、少し心臓が動いた。

 朔は千歳の前に座った。

「体は」

「大丈夫です。熱も出ていません」

「そうか」

 朔は千歳を見た。

 何かを言おうとして、言葉を選んでいる気配があった。

「今日、来るなと言った」

「はい」

「なぜ来た」

「隣にいたかったので」

「……俺のそばにいたかったと、そういうことか」

「はい」

 朔は黙った。

 長い沈黙があった。

「千歳に何かあったら、俺は」

 そこで、言葉が止まった。

 続きが出てこなかった。

 でも千歳には、その止まった場所に何があるのかが、少し分かった。

「わたしも、朔様に何かあったらと思いました」

「俺は神だ。そう簡単には」

「でも疲れます。百年間、一人で」

 朔は千歳を見た。

「……俺のことを、気の毒に思うな」

「思いません」

「さっきはそう言ったが」

「今も同じです。気の毒ではなくて、一緒にいたいと思っています」

 朔は、何も言わなかった。

 でも今夜の沈黙は、今まで千歳が知っている沈黙とは違った。

 閉じている沈黙ではなかった。

 何かを、受け取ろうとしている沈黙だった。

「朔様」

「なんだ」

「今日のあそこにいたもの、志乃が言っていました。傷つけられたから怒っているのだと」

「……志乃がそう言ったか」

「はい。朔様はご存じですか、あれが何なのか」

 朔はしばらく黙った。

「……知っている」

「いつか、教えていただけますか」

「気が向いたら、と言ったな」

「はい」

「……近いうちに話す」

 今日は「いつか」ではなく、「近いうちに」だった。

 千歳は冷静に、その言葉を受け取った。

「ありがとうございます」

「礼はいらない」

「でも言いたいので」

 朔は少し黙ってから、立ち上がった。

「今夜は早く眠れ」

「はい」

「雪丸に言えば、側にいる」

「もういますよ、足元に」

 朔は足元の雪丸を見た。

 雪丸がしっぽを振った。

「……そうか」

 朔は障子に手をかけた。

「朔様」

「なんだ」

「今日、ありがとうございました。支えてくださって」

「当然のことだ」

「それでも」

 少しの間があった。

「……おまえこそ、今日はよくやった」

 それだけ言って、朔は出ていった。


 千歳は行灯の火を見た。

 おまえこそ、今日はよくやった。

 こんなに疲れているのに、あたたかかった。

 今日、朔が百年間ここに立ってきたと知った。一人で、この土地の痛みを引き受けてきた。それがどれほどのことか、千歳には想像しきれない。

 でも今日から、一人ではない。

 千歳がいる。

 まだ力は小さいし、倒れそうになることもある。でも隣にいることはできる。

 それだけで、少し違うと、今日朔も言っていた。

 紅葉が、千歳が傍にいることで楽に抑えられたと、朔が言ったと教えてくれた。

 千歳にできることが、ある。

 役目として、ではなく。

 この人の孤独を、少しでも終わらせたいという気持ちで。

 雪丸がそっと、千歳の手に前足を乗せた。

「ちとせ、ないてる?」

「泣いていないですよ」

「でも、そういうにおいがする」

「……少し、そうかもしれません」

「なんで」

「朔様のことを思ったら」

 雪丸は千歳の手の上に頭を乗せた。

「さくは、もうひとりじゃない」

「そうですね」

「ちとせがいるから」

「はい」

「だから、ないてもいいけど、そんなにかなしくなくてもいい」

 千歳は笑った。

 泣きそうなのに、笑った。

「ありがとう、雪丸」

「ぼく、さくとちとせに、しあわせになってほしい」

「なれますよ、きっと」

「うん。ぜったいなれる」

 雪丸は確信を持って言った。

 千歳は行灯を落とした。

 暗くなった部屋に、雪丸の温もりがあった。

 外では、風が出てきていた。

 でも今夜の風は、最初の夜の風とは違った。

 冷たくても、孤独ではない。

 何かを運んでくるような、そういう風だった。


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