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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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第十五章 あなたの隣で

 翌朝、千歳は思っていたより早く目が覚めた。

 体は昨日より軽かった。熱はなく、頭も痛くない。でも骨の奥に、薄く疲れが残っている感じはあった。

 雪丸は足元で眠っていた。

 千歳はそっと起き上がって、窓の外を見た。

 今日は曇っていた。雪雲ではなく、薄い灰色の雲が空を覆っている。でも雪は降っていなかった。庭の梅の古木が、灰色の空の下にひっそりと立っていた。

 枝の先の芽が、また少し膨らんでいた。

 もうすぐ、咲く。

 朔と一緒に見る約束をしている。

 千歳はそれを思い出して、少し胸が温かくなった。


 朝食の場に、朔はいなかった。

 紅葉に聞くと、今朝も早くから見廻りに出たという。昨日の穢れの揺らぎが、まだ完全には収まっていないからだろうと、紅葉は言った。

「朔様のお体は大丈夫なのでしょうか」

「神ですから、人のように疲れが積もるわけではないのですが……やはり、昨日のような規模のものを抑えると、多少は影響があります」

「多少、というのは」

「いつもより回復に時間がかかる、という程度です。深刻なものではありません」

 千歳は少し考えてから言った。

「今日も、見廻りに同行することはできますか」

 紅葉は千歳を見た。

「千歳様の体が、今日は」

「大丈夫です。昨日より全然ましです」

「……朔様に聞いてみてください。朔様が許可されれば」

「分かりました」


 朔が戻ってきたのは、昼前だった。

 千歳は廊下で待っていた。

 朔は千歳を見て、足を止めた。

「なぜここに立っている」

「お帰りをお待ちしていました」

「……そうか」

 朔は千歳の顔を確かめるように見た。

「体は」

「大丈夫です。昨日より楽です」

「そうか」

 千歳は少し間を置いてから言った。

「今日の見廻り、一緒に行けますか」

 朔は少し黙った。

「なぜ来たい」

「昨日のことが、気になっているのと……朔様の見廻りを、一度見てみたいと思っていました」

「見廻りは、特別なものではない」

「でも、見たことがないので」

「体に障る」

「昨日ほど深い場所には行かなければ大丈夫だと思います」

「思う、では駄目だ」

「では、途中で無理だと感じたら言います。朔様がここまでと言ったら、そこまでにします」

 朔は千歳を見た。

 長い間ではなかったが、何かを測るような目だった。

「……午後の見廻りに、同行を許す」

「ありがとうございます」

「ただし、俺が止まれと言ったら止まること。来るなと言ったら来ないこと」

「はい」

「昨日のようにはするな」

「……善処します」

「善処では、駄目だ」

「約束します」

 朔はもう一度千歳を見てから、歩き出した。


 昼餉を終えてから、千歳は見廻りの支度をした。

 雪の深い場所を歩くから、着物の裾を少し上げて、紅葉に帯を締め直してもらった。足には綿入りの靴を履いた。

「千歳様」

 紅葉が最後に確認するように言った。

「本当に大丈夫ですか」

「大丈夫です」

「昨日のことがあったばかりですから」

「だからこそ、行きたいのです」

 紅葉はしばらく千歳を見てから、頷いた。

「分かりました。ただし」

「はい」

「朔様の言うことを、今日は聞いてください」

「昨日は聞かなかったと思われているのですね」

「思っています」

 千歳は少し笑った。

「今日は、ちゃんと聞きます」


 朔は屋敷の前で待っていた。

 いつもの見廻りの装いで、羽織の紐を締めている。千歳が来ると、一瞥してから歩き出した。

「着いてこい」

 千歳は後をついた。

 雪丸も来ようとしたが、朔が「今日は留守番だ」と言うと、雪丸は渋々という顔をして屋敷へ戻っていった。

 二人で、神域の中を歩き始めた。


 見廻りは、思っていたより平穏なものだった。

 朔は特定の順路を歩いているわけではなく、その日の神域の状態に応じて、気になる場所へ足を向ける。それだけのことらしかった。

 歩きながら、朔は時々立ち止まった。

 地面に手をついたり、木の幹に触れたりする。それだけで、何かを確かめているようだった。千歳には朔が何を感じているのかは分からないが、朔の目が、土地と会話しているような動き方をしているのは見えた。

「何を確かめているのですか?」

「穢れの状態だ。昨日のものがどこまで落ち着いたか」

「今日は?」

「昨日よりは穏やかだ。でもまだ、根のところが動いている」

「根のところ、というのは」

「昨日、千歳が感じたものだ。怒っているもの」

 千歳は歩きながら、地面を見た。

 今日は昨日ほどの重さは感じなかった。でも確かに、何かがある。土の下に、ゆっくりと動いているものがある。

「朔様、昨日、近いうちに話すとおっしゃっていましたが」

「覚えている」

「今日は、その機会になりますか」

 朔は少し黙ってから、

「歩きながらでよければ」

 と言った。

「はい。十分です」


 朔は歩きながら、話し始めた。

 最初は、この神域の成り立ちから話した。

 もともとこの土地には、別の神がいた。土地の神で、人々の祈りを受けて生きていた。その神は穏やかで、人々との交わりを大切にしていた。

「それが、あの円形の場所にいるものですね」

「ああ。俺が来る前から、ここにいた」

「なぜ薄れてしまったのですか?」

「人が来なくなったからだけではない」

 朔は少し間を置いた。

「ある時代に、この土地で争いがあった。人同士の争いだ。その争いが、神域にも影響した。人々が神に祈る余裕を失い、土地は荒れた。土地の神は、その痛みを全部引き受けた」

「引き受けた」

「土地の神は、そういうものだ。土地に起きることを、自分に引き受ける。人が痛めば土地が痛む。土地が痛めば神が痛む」

「それで、薄れていったのですか?」

「ゆっくりと。長い時間をかけて」

 千歳は歩きながら、その話を聞いていた。

「では、昨日のところにいるものは」

「別のものだ」

 朔の声が、少し変わった。

「あの争いの中で、傷つけられた側のものが、土地に染み込んでいる。怒りと悲しみが、長い時間をかけて凝り固まったものだ」

「それが、穢れの根になっているのですか?」

「ああ。土地の神が薄れた後、俺がここへ来て、それを抑えてきた。でも根は、まだある」

「なぜ、根を消せないのですか?」

「消せない」

 朔はきっぱりと言った。

「ただ抑えることしかできない。怒りや悲しみは、ただ押しつぶすことはできないから」

「では、どうすれば」

「……それが、分からないままここにいる」

 朔の声に、百年という時間の重さがあった。

 分からないままここにいる。

 百年間、分からないままここに立ち続けてきた。


 二人は神域の東の端まで来た。

 ここは昨日の場所とは違う方角で、空気も違った。重さはあるが、昨日ほどの鋭さはない。低木が多く、その枝に雪が積もって、白い屋根のような景色が続いていた。

 朔が立ち止まった。

 地面に手をついて、何かを確かめる。

 千歳もその傍に立って、地面を見た。

 感じるものがあった。

 昨日のものとは違う。もっと薄い、でも確かに残っているもの。怒りではなく、どちらかといえば疲弊に近い。長い時間、同じことを繰り返してきた疲れのような。

「朔様、ここには何があるのですか」

「昔、人々が通ったところだ。里から神域へ来るための道があった」

「今は誰も来ない?」

「道が消えた。争いの後、人が来なくなって、道が雪に埋まった」

「でも、土地は覚えているのですね。人が通ったことを」

「ああ」

 朔は立ち上がった。

 千歳を見た。

「千歳は、ここで何か感じるか」

「疲弊、のようなもの。でも昨日のものほど強くはないです」

「そうだ。ここは深くはない。ただ、長い間積み重なってきたものがある」

「治せますか?」

「俺には、ここまでだ。抑えることで、これ以上悪くならないようにするのが限界だ」

「わたしには」

「……おまえが触れると、変わるかもしれない。ただし、体に余裕があるときにしろ」

「今は余裕がありますか」

「ない。昨日使いすぎた」

「そうですね」

 千歳は素直に引いた。

 朔はわずかに目を細めた。

「今日は言うことを聞くのか」

「昨日も一応は」

「一応は、聞いていなかった」

「……善処はしていました」

「同じことだ」

 朔の言い方が、少しだけ、やわらかかった。

 怒ってはいない。千歳が来なかったほうが良かったとも、思っていない。そういう声だった。


 帰り道、千歳は朔の横に並んで歩いた。

 少し遅れてついていくのではなく、並んで。

 朔は特に何も言わなかった。ただ、歩く速さを、千歳に合わせていた。

「朔様」

「なんだ」

「今日、話してくださってありがとうございました」

「約束したからだ」

「それでも。知りたかったことが、少し分かりました」

「まだ話していないことがある」

「そうですか」

祇王ぎおうのことを、まだ言っていない」

 千歳は少し驚いた。

「祇王、というのは」

「昨日のもの、怒りが凝り固まったもの。それには名がある。俺はそれを、祇王と呼んでいる」

「名前があるのですね」

「俺がつけたのではない。昔の記録にあった名だ」

「どういう名前なのですか?」

「かつて、この土地にいた神の一柱だ。争いの中で、見捨てられた」

 千歳は歩きながら、その言葉を繰り返した。

 見捨てられた神。

「見捨てられた、というのは、人に祈られなくなったということですか」

「それだけではない。争いの中で、意図的に傷つけられた。人々に利用されて、使い捨てにされた」

「それで、怒っている」

「ああ。祇王の怒りは、ただの穢れではない。傷つけられた記憶と、使い捨てにされた怒りが、長い時間をかけて根になった。だから、ただ抑えることしかできない。怒りに理由があるから」

 千歳は少し黙った。

「理由のある怒りを、消せないのは当然です」

「ああ」

「では、どうすれば祇王は、怒りをおさめるのでしょう」

 朔は歩きながら、少し間を置いた。

「……分からない。百年、分からないままだ」

「でも、朔様は考えてきたのですよね。百年間」

「考えてきた。答えは出ていない」

「一人で考えてきた」

「俺しかいなかったから」

 千歳は朔の横顔を見た。

「今は、わたしもいます」

 朔は千歳を見た。

「千歳には、関係ない問題だ」

「関係あります」

「なぜ」

「ここにいるからです。朔様がいる場所に、わたしもいるから」

 朔は何も言わなかった。

「それに、見捨てられて、使い捨てにされて、怒っているもの。わたしには、少し分かる気がします」

「千歳が」

「都の屋敷で、わたしはそれほどひどいことはされていませんでした。でも同じ方向の、小さなものは知っています。価値がないと思われること、役目が終わったら切られること、存在を軽く扱われること」

 朔は千歳を見た。

「だから、祇王のことが気になるのかもしれません。怒っているのが当然だと、思うから」

「……おまえは」

「はい」

「そういうことを、話せるようになったのか」

「最近は、少し」

 朔はまた前を向いた。

 しばらく歩いてから、

「……話してくれて、良かった」

 と言った。

「朔様が、そんなことをおっしゃるとは思わなかったです」

「なぜ」

「珍しいと思って」

「珍しくない」

「いつもはおっしゃらないではないですか」

「……思っていても、言葉にするのが、得意ではない」

 千歳は少し笑った。

「存じています」

「存じている、と言うな」

「では、知っています」

「……それも気に食わない」

「どう言えばいいのですか」

「言わなくていい」

 朔が不満そうにしているのに、なぜか楽しかった。


 屋敷が見えてきた頃、朔が呼んだ。

「千歳」

「はい」

「一つ、聞いていいか」

「はい、何でしょう」

 朔は少し間を置いて、尋ねた。

「ここへ来た最初の日、おまえは何を思っていた」

 千歳は少し考えた。

「役目だけ果たして、誰にも気づかぬように消えようと思っていました」

「消えようと」

「はい。ここでも邪魔者だろうと思っていたので。ただ役目を果たして、誰にも迷惑をかけずに、静かにいようと」

「今は」

「今は、消えたくないです」

 朔は千歳を見た。

「なぜ」

「ここにいたいから。この神域にいたいし、皆のそばにいたい。朔様の孤独を、少しでも終わらせたい」

 朔は黙った。

「大それたことを言っているのは分かっています。わたしにどこまでできるかも分からない。でも」

「でも」

「そう思っています。今は、それが本当のことです」

 朔はまた黙った。

 長い沈黙だった。

 屋敷の前まで来て、朔は足を止めた。

 千歳も止まった。

 朔は屋敷を見ていた。

 それから千歳を見た。

「……俺の孤独を、終わらせたいと言ったな」

「はい」

「それは、どういうことだ」

「朔様がひとりでなくなることです。一人で全部を背負わなくていいことです」

「千歳が、俺の隣にいるということか」

「はい」

 朔はまた黙った。

 今度の沈黙は、短かった。

「……分かった」

 それだけだった。

 でも千歳には、その「分かった」が、今まで朔が言った言葉の中で、一番重いものに感じられた。

 拒否ではなかった。

 受け取った。

 千歳が言ったことを、受け取った。

「朔様」

「なんだ」

「ありがとうございます」

「礼を言うことではない」

「でも言いたいので」

 朔はため息をついた。

 でもそれは、不満のため息ではなかった。

 どこか、力が少し抜けたような、そういうため息だった。


 夕餉の席は、いつもより賑やかだった。

 志乃が昼間に神域で珍しいものを見たと言い張って、誰も信じないのに一人で説明を続けていた。雪丸が見廻りに連れて行ってもらえなかったことをまだ根に持っていて、朔に向かって「つぎはぼくも」と主張していた。

 朔は「見廻りは仕事だ」と言い返した。

「ぼくもおしごとする」

「おまえの仕事は屋敷にいることだ」

「それはしごとじゃない」

 千歳は二人のやり取りを見ながら、笑っていた。

 紅葉が千歳の耳元で囁いた。

「朔様、今日は表情がいつもと違いますね」

「そうですか」

「何かありましたか」

「色々、話しました」

「そうですか」

 紅葉は微笑んだ。

「良かった」

 それだけ言って、茶を注ぎ足した。


 夜、千歳は刺繍の仕上げをしていた。

 梅の刺繍が、今夜完成した。

 花が五輪、枝が二本、そして根元に小さな雪が積もっている。針を置いて、離して見た。

 うまくはないかもしれない。でも、確かに梅だった。

 この神域の梅だった。

 廊下で足音がした。

 止まった。

「千歳」

「はい」

「まだ起きているのか」

「刺繍を仕上げていました。今日、完成しました」

「刺繍か」

「はい。中庭の梅を刺していたのです」

 少しの間があった。

「見せろ」

 千歳は少し驚いた。

「見てくださるのですか」

「見せたくないなら、いい」

「いいえ、見てください」

 千歳は立ち上がって、障子を開けた。

 朔が廊下に立っていた。

 千歳は刺繍の布を、朔に差し出した。

 朔は受け取って、行灯の光の下で見た。

 黙っていた。

 何かを言うかと思ったが、少しの間、ただ見ていた。

「……中庭のやつだな」

「はい、そうです」

「枝の形が似ている」

「見ていたので」

「根元の雪も入れたのか」

「いつも雪が積もっているので」

 朔はもう少し見てから、千歳に返した。

「悪くない」

「ありがとうございます」

「本物が咲いたら、見に行くぞ」

「はい。楽しみにしています」

 朔は千歳を見た。

「今日は疲れただろう」

「大丈夫です。でも今日はよく眠れそうです」

「そうか。早く眠れ」

「はい」

 朔が行きかけて、千歳は言った。

「朔様」

「なんだ」

「今日、一緒に歩けて良かったです」

 朔は少しの間、止まった。

「……俺も」

 それだけ言って、歩き出した。

 足音が遠ざかっていく。

 千歳は障子を閉めて、刺繍の布を手に持ったまま、しばらく立っていた。

 俺も、と言った。

 今日一緒に歩けて、俺も良かった。

 そういう意味だった。

 千歳は刺繍の布を、文机の上に置いた。

 梅の花が、行灯の光の中で静かに光っていた。

 本物の梅は、もうすぐ咲く。

 朔と一緒に見る。

 その日が、今日よりずっと、楽しみになっていた。

 雪丸が目を細めて、千歳を見ていた。

「ちとせ、いいかおしてる」

「そうですか」

「うん。すごくいいかお」

「雪丸のおかげです」

「ぼくのおかげ?」

「あなたがいてくれるから、わたしはここにいられるのです」

 雪丸はしっぽをいっぱいに振った。

「ぼくもだよ。ちとせがいるから、ぼくもここがすき」

 千歳は笑って、行灯を落とした。

 暗くなった部屋に、梅の刺繍と雪丸の温もりがあった。

 外では、雲の切れ間から星が出始めていた。

 朔が、昨日の星がよく見えると言っていた。

 今夜も、見えているだろうか。

 千歳は目を閉じた。

 隣にいたいと言った。

 朔は、分かったと言った。

 それが今の千歳には、何よりも確かなことだった。


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