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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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第十六章 奪われた夜

 梅が咲いたのは、それから五日後の朝だった。

 千歳が朝食の前に中庭へ出ると、梅の古木の枝の先に、小さな白い花が一輪だけ開いていた。

 まだ一輪だけだった。

 でも確かに、咲いていた。

 千歳はしばらく、その花を見ていた。

 冬の間ずっと、硬く閉じていた芽が、ついに開いた。雪の中でも、曇りの空の下でも、変わらず枝を張っていたあの木が、今朝ここに白い花を出した。

 朔と一緒に見る約束をしていた。

 千歳は屋敷の中へ戻った。


 朔は書院にいた。

 千歳が障子を開けると、朔は顔を上げた。

「梅が咲きました」

 千歳が言うと、朔はわずかに目を細めた。

「今朝か」

「はい。一輪だけですが」

 朔は立ち上がった。

 それだけで、来い、ということだと千歳には分かった。

 二人で中庭へ出た。

 梅の木の前に並んで立った。

 白い小さな花が、冬の朝の光の中に浮かんでいた。香りはまだ薄かった。でも確かに、梅の花の香りが、空気の中に溶けていた。

「毎年、ここから始まる」

 朔が言った。

「一輪が咲いてから、どのくらいで全部咲くのですか?」

「天気次第だが、五日から十日ほどで満開になる」

「それまで、毎日変わっていくのですね」

「ああ」

 千歳は花を見た。

 一輪だけの花は、小さかった。でも冬の景色の中にあると、ひどく鮮やかに見えた。

「良かった」

 千歳が言うと、朔は少し千歳を見た。

「何が」

「咲いているところを、一緒に見られて」

 朔は何も言わなかった。

 でも視線を花に戻してから、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。

 二人はしばらく、並んで梅を見ていた。


 その日の午後、千歳は蔵で書物を読んでいた。

 祇王のことが、頭から離れなかった。

 見廻りで朔から聞いた話を、何度も思い返していた。傷つけられた神が、その怒りを土地に染み込ませて、長い時間をかけて穢れの根になった。それを百年、朔が一人で抑えてきた。

 千歳にできることが、何かあるはずだった。

 祠の石に触れたとき、重さが少し軽くなった。円形の場所で、何かが少し息をした。子どもの手を握ったとき、体の中の重さが動いた。

 鎮めの力、と志乃は言っていた。

 でもそれは、何に対しても使えるものなのだろうか。傷つけられた怒りにも、使えるものなのだろうか。

 怒りを鎮める。

 それは、怒りを消すことではないと思った。

 怒りには理由がある。理由を消すことはできない。でも、怒り続けることで傷ついているものを、少しでも楽にしてあげることは、できるかもしれない。

 千歳は書物を閉じた。

 もう少し、考えなければならないことがあった。


 夕刻近くなって、志乃が千歳の部屋に来た。

「千歳、今日は外に出ないの?」

「出ようと思っていたのですが、書物を読んでいたら遅くなってしまって」

「少し、神域を歩かない? 今日は空気がきれいだよ」

「志乃が言うなら、そうなのでしょうね」

「うん。風がなくて、星が出そうな夜になる」

「それは見たいですね」

 千歳は立ち上がった。

 紅葉に一言告げてから、志乃と一緒に屋敷を出た。


 志乃の言った通り、外の空気は澄んでいた。

 風がなく、雪の上に足跡だけが残っていく。日が暮れかけていて、空の端が薄い橙に染まっていた。

 志乃は千歳の少し前を歩きながら、あちらこちらを指さした。

「あの木、今日は芽が出てる」

「本当ですね」

「この冬、初めて見た。この木、ずっと眠ってたのに」

「千歳様が来てから、変わってきているのだと志乃は思う」

「そうかしら」

「うん。土地が少しずつ、楽になってる。においが変わってきてる」

 千歳は足元の雪を見た。

 白い雪の下に、土がある。その土の下に、長い時間が沈んでいる。

 それが少しずつ、動いている。

 歩きながら、千歳は祇王のことを考えていた。

 傷つけられた神。使い捨てにされた怒り。

 千歳にも、その感覚が少し分かると、朔に言った。価値がないと思われること、役目が終わったら切られること。小さいけれど、同じ方向のものを知っている。

 だから、祇王のことが気になる。

 鎮める、ということは、向き合うことだと思った。押しつぶすのではなく、消すのでもなく、ただそこにあるものと向き合って、受け取ること。

「志乃」

「なに」

「祇王に、直接会うことはできると思う?」

 志乃が足を止めた。

 振り返って、千歳を見た。

「会う、って?」

「触れるとか、話しかけるとか。あの怒りに、直接向き合うことが」

「……それは」

 志乃の顔が、珍しく迷うような表情になった。

「できなくはないと思う。でも、危ない」

「どう危ないの」

「祇王は怒ってる。千歳が近づいたら、その怒りがぶつかってくる。千歳の鎮める力が強くても、相手が大きすぎたら」

「飲み込まれる、ということ?」

「うん」

 千歳は少し考えた。

「でも、いつかはしなければならないのではないかと思って」

「いつか、は、まだ先じゃないかな。千歳の力が、もっと安定してから」

「そうかもしれないけれど」

「朔さまは、そういうことを千歳にさせようとはしないと思う」

「でも、わたしがしたいと言えば」

「……朔さまが怒る」

「昨日のように?」

「もっと怒る」

 千歳は少し笑った。

「でも、聞いてもらえると思う」

「なんで」

「朔様は、わたしがどうしたいかを、ちゃんと聞いてくれる方だから」

 志乃はしばらく千歳を見てから、

「千歳はいつのまにか、朔さまのことよく分かるようになったね」

 と言った。

「そうかしら」

「うん。前は、朔さまのこと、よく分からないって顔してた。今は違う」

 千歳は梅の木の方向を見た。

 今朝、一緒に梅を見た。

「少しずつ、分かってきているのかもしれません」


 二人がそのまま歩いていると、神域の南の端まで来ていた。

 ここは千歳がまだ来たことのない場所だった。木々が少なく、開けていて、空が広く見える。夕暮れの最後の光が、雪の上に長く伸びていた。

「ここ、きれいでしょ」

「はい。空が広いですね」

「夜になると、ここから星がよく見える。朔さまが昔ここで星を見てたって、紅葉が言ってた」

「朔様が」

「うん。昔はよく来てたって。でも最近は来ないって」

 千歳は開けた場所を見た。

 朔がここで星を見ていた。

 一人で、百年間、この神域にいて、ここで星を見ていた。

 そのことを思うと、胸に何か温かいものと、少し痛いものが混じる。

「志乃、少しここにいてもいい?」

「うん。一緒にいる」

 千歳は雪の上に立って、空を見上げた。

 まだ完全に暗くはなかった。でも空の端に、一つ、星が出ていた。

 今夜は、たくさん見えるだろう。


 そのときだった。

 足元から、何かが動いた。

 千歳は最初、地面の揺れかと思った。でも揺れではなかった。

 もっと内側から来るものだった。

 土の中から、じわりと這い上がってくる。

 重い。

 昨日までとは、全然違う重さだった。

 鋭く、冷たく、刃物のように差し込んでくる感触。

「千歳!」

 志乃が叫んだ。

 千歳は足が動かなくなっていた。

 地面から這い上がってくるものが、千歳の体に絡みついていた。痛いわけではなかった。でも、逃げられない。

 空気が変わった。

 南の端の開けた場所に、霧のようなものが漂い始めた。白い霧ではなく、灰色の、滲むような。

 その中から、声がした。

「おまえは、望まれてなどいなかった」

 低い声だった。

 穏やかで、美しかった。でも奥に、冷たいものがある。

「どの家でも、どの場所でも、おまえは邪魔者だった」

 千歳は声のする方向を見た。

 霧の中に、人の形をしたものがいた。

 はっきりとした姿ではなかった。でも確かに、何かがいた。

「おまえの力は、使い捨てにされるためのものだ。あの白狼も、おまえを道具として迎えた。それだけだ」

 千歳は声を聞きながら、体の中で何かが揺れるのを感じた。

 違う、と思う部分と。

 そうかもしれない、と思う部分が。

「だから言っているのだ。おまえは望まれていない。どこへ行っても、結局は使い捨てにされる」

「ちがう」

 千歳は声に出した。

「違います」

「違うか? おまえの家は、力があるから寄越した。白狼は、力があるから迎えた。力がなければ、誰も見向きもしなかった」

 千歳は、その言葉が刺さる場所を感じた。

 傷がある。確かに傷がある。その傷に、正確に触れてきた。

 でも。

「雪丸は力があるから懐いたのではありません。志乃は力があるから一緒にいるのではありません。紅葉さんも、澄江さんも、長老さんも、里の子どもたちも。みんな、力のためではないです」

「それは表面だ。本質は違う」

「本質を、あなたに決めさせません」

 霧の中のものが、少し動いた気がした。

「強がるな」

「強がっていません」

「おまえはここでも、消えることを考えていた。役目だけ果たして」

 千歳は息を呑んだ。

 それは本当のことだった。

 来た最初の夜、確かにそう思っていた。

「今でも、どこかでそう思っているだろう。ここにいていいのかと。受け取っていいのかと」

「……思うことはあります」

「ならば分かるだろう。おまえは望まれていない」

「でも」

 千歳は言葉を探した。

「思うことと、本当のことは、違います」

「何?」

「不安に思うことがあっても、それがそのまま本当のことではない。わたしはそれを、ここで少しずつ学んできました」

 霧が、少し薄くなった気がした。

 でも体に絡みついているものは、まだ離れなかった。

「それでも、まだ怖いはずだ。失うことが。また捨てられることが」

「怖いです」

 千歳は素直に言った。

「怖いことは、本当です。でも怖いから行動しないのは、もう違うと思っています」

「なぜ」

「怖くても、ここにいたいから。怖くても、朔様の隣にいたいから」

 霧の中のものが、穏やかな声で言った。

「それでも、あの白狼はおまえを手放す。神はそういうものだ。人の寿命が尽きれば、次の花嫁を迎える。おまえは、また使い捨てにされる」

 千歳は、その言葉を聞いた。

 刺さった。

 痛かった。

 今まで考えないようにしていたことだったから。

「……そうかもしれません」

 千歳は言った。

「でも、今はここにいます。今ここにいることは、本物です。先のことで、今を手放すつもりはありません」

「弱い言葉だ」

「弱くてもいいです。これがわたしの本当のことだから」

 霧が、またわずかに薄くなった。

 でも体はまだ、動かなかった。

 千歳は地面に目を落とした。

 足元の雪が、暗くなってきていた。

 寒かった。

 体の中に入り込んでいるものが、重かった。

 志乃の声が遠くで聞こえた。

「ちとせ! ちとせ、こたえて!」

 答えようとしたが、声が出なかった。


 その瞬間、空気が変わった。

 鋭い、冷たい風が吹いた。

 霧が乱れた。

 足音が聞こえた。

 速い、迷いのない足音だった。

 朔だった。

 朔が、霧の中へ迷わず踏み込んできた。

 金の瞳が、千歳を見つけた。

 一瞬で傍まで来て、千歳の腕を掴んだ。

「千歳」

「朔様……」

「今すぐここを出る」

「でも、足が」

「俺が引く。離すな」

 朔は千歳の腕を引いた。

 体に絡みついていたものが、抵抗した。離れまいとした。

 でも朔の力は、それより強かった。

 引きずるように、でも千歳が転ばないように、朔は千歳を霧の外へ引き出した。

 霧の中のものが言った。

「白狼。おまえも長くはない。穢れの根が深くなれば、いずれ抑えきれなくなる。孤独のまま終わるのが、おまえの定めだ」

 朔は振り返らなかった。

「うるさい」

 低い声で言った。

 それだけで、霧が大きく揺れた。

「千歳を連れていくな。その娘はここに留まる。おまえにとって都合のいい道具として」

 今度は、朔が止まった。

 千歳の腕を持ったまま、止まった。

 そして振り返った。

「千歳は、道具ではない」

 穏やかな声だった。

 でもその声の中に、今まで千歳が聞いたことのないものがあった。

 怒りとも違う。威圧とも違う。

 もっと深いところから来る、動かない確信のようなもの。

「俺の、花嫁だ」

 霧が、大きく揺れた。

 そのまま、後退していく。

 地面の重さが、薄くなった。

 朔は千歳の腕を引いて、また歩き出した。


 霧の外に出ると、志乃が駆けてきた。

「ちとせ! 朔さま、ちとせは!」

「問題ない。少し飲まれたが」

「ちとせ、だいじょうぶ?」

「……はい。大丈夫です」

 千歳は自分の声を聞いて、少し驚いた。

 震えていると思っていたが、声は意外と落ち着いていた。

 体は重かった。足も少し震えていた。でも頭は、はっきりしていた。

「歩けるか」

 朔が聞いた。

「歩けます」

「本当に?」

「本当に」

 朔は千歳の腕を持ったまま、歩き出した。

 今度は引きずるのではなく、支えるように。

 志乃がその後をついてきた。

 屋敷に向かいながら、千歳は朔の横顔を見た。

 普段より、表情が硬かった。

 心配しているのか、怒っているのか。あるいはその両方か。

「朔様」

「何だ」

「……助けてくださって、ありがとうございます」

「感謝は後でしろ」

「でも言いたかったので」

 朔は何も言わなかった。

 でも千歳の腕を持つ手が、少しだけ強くなった気がした。


 屋敷に戻ると、紅葉がすぐに気づいた。

「千歳様、お顔が」

「少し、外で」

「朔様、何があったのですか」

「祇王が出た」

 紅葉の顔が変わった。

「それは」

「千歳が飲まれかけた。今は問題ない」

「部屋へ。すぐに」

 千歳は部屋へ連れていかれた。

 紅葉が温かい布と湯を用意して、手早く千歳の体の状態を確かめた。

「熱は?」

「今はないです」

「体の中に、何か残っている感じは」

「少し、重いですが……だいぶ外に出た気がします」

「朔様が引き出してくださったからでしょう」

 紅葉は千歳に湯を飲ませた。

 温かかった。体の中心から、温もりが広がっていく。

「志乃から話を聞いていいですか。千歳様は休んでください」

「でも」

「後でいくらでも話せます。今は、体を温めてください」

 千歳は素直に従った。


 しばらくして、朔が部屋に来た。

 障子を開けて、中に入った。

 千歳は布団に座っていた。

 朔は千歳の前に座った。

「体は」

「温まってきました」

「飲まれたとき、何を聞いたか」

 千歳は少し考えた。

「力がないと望まれない、使い捨てにされる、というようなことを」

「……そうか」

「怖かったです、正直に言うと。刺さるところが、正確だったので」

「祇王はそういう相手だ。心の欠けた部分を見つけて、そこに言葉を入れる」

「分かりました。それより」

 千歳は朔を見た。

「朔様が言ったことを、聞いていました」

「何を」

「千歳は道具ではない、俺の花嫁だと」

 朔は少し黙った。

「聞いていたのか」

「はい」

「……状況の言葉だ」

「そうですか」

「相手に言い返すための」

「そうですか」

 千歳は少し笑った。

「状況の言葉でも、嬉しかったです」

 朔は千歳を見た。

「……なぜ」

「はじめて、そう言ってもらえたから。あなたのものだと。道具でもなく、役目でもなく」

 朔は黙った。

 長い沈黙だった。

「千歳」

「はい」

「状況の言葉だと言ったが」

「はい」

「……本当のことでもある」

 千歳は、その言葉を受け取った。

 ゆっくりと、確かめながら。

「ありがとうございます」

「礼はいらない」

「でも」

「……今夜は眠れ」

 朔は立ち上がった。

「朔様」

「なんだ」

「今夜も、傍にいてくださいますか」

 朔は千歳を見た。

 少しの間があった。

「……雪丸がいる」

「雪丸ではなくて」

 また間があった。

「……うるさい」

 でも、座り直した。

 千歳は少し笑った。

 雪丸が入ってきて、千歳の隣に来た。

「ちとせ、こわかった?」

「怖かったです」

「ごめん。ちとせをひとりにした」

「志乃がいたから、大丈夫でしたよ」

「さくが、ちとせのにおいがへんになったってとんできた」

「朔様が気づいたの?」

「うん。すごいはやく」

 千歳は朔を見た。

 朔は前を向いていた。

「におい、へんになったのに気づいて、すごいかおで走ってった」

「すごい顔とは」

「こわいかお。でも、しんぱいのかお」

 千歳は朔に言った。

「朔様、ありがとうございます。気づいてくださって」

「……雪丸が言うことを真に受けるな」

「本当のことでしょう」

「……眠れ」

 千歳は布団に横になった。

 天井を見た。

 今夜、祇王の声を聞いた。

 刺さる言葉だった。心の欠けたところに、正確に入ってきた。

 でも千歳は、飲み込まれなかった。

 怖かった。でも、答えることができた。

 今ここにいることは本物だと、先のことで今を手放さないと、言えた。

 そして朔が来た。

 俺の花嫁だと、言った。

 本当のことでもある、と言った。

 千歳は目を閉じた。

 朔の気配が、部屋にある。

 雪丸の温もりが、傍にある。

 今夜は怖い夢を見そうだと思った。

 でも、朔がいる。

 だから大丈夫だと思った。

 外では、風が鳴いていた。

 でも今夜の風は、千歳を揺らさなかった。

 朔がいるから。

 それだけで、千歳の心は満たされた。


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