第十九章 白狼神の花嫁
梅が満開になったのは、それから七日後だった。
朝、千歳が中庭へ出ると、木の全体が白く覆われていた。
一輪から始まった花が、枝という枝に広がって、今朝は木全体が白い花で満ちている。香りが、庭全体に漂っていた。冬の冷気の中に、確かな春の気配がある。
千歳はしばらく、そこに立っていた。
この花が咲くところを見たくて、ここへ来た。
正確には、違う。ここへ来てから、この花が咲くのを待つようになった。
朔と一緒に見る約束をしていた。
千歳は屋敷へ戻った。
朔は書院にいた。
「梅が、満開です」
千歳が言うと、朔は筆を置いた。
立ち上がった。
二人で中庭へ出た。
梅の木の前に並んで立った。
白い花が、朝の光の中に満ちていた。香りが、二人を包んだ。
朔は黙っていた。
千歳も黙っていた。
しばらく、そのままでいた。
「毎年、咲く」
朔が言った。
「はい」
「何年見ても、同じように咲く」
「今年は、一緒に見られました」
朔はわずかに千歳を見た。
「……ああ」
それだけだったが、千歳には十分だった。
この一言の重さが、今の千歳には分かった。
百年間、一人で見ていた梅を、今年は千歳と見ている。
朔にとって、それがどういうことか。
「ありがとうございます、朔様」
「何のために礼を言う」
「一緒に見てくださったことに」
「……約束したから見ているだけだ」
「それでも」
朔は梅に目を戻した。
でも耳のあたりが、ほんの少し赤かった。
その日の昼過ぎ、神域が動いた。
最初に気づいたのは、雪丸だった。
「いやなにおい。きた、のほう」
千歳が顔を上げた。
同時に、志乃が廊下を走ってきた。
「ちとせ、朔さま! 北が動いてる!」
朔はすでに外を見ていた。
「昨日より大きい」
低い声だった。
千歳は朔の横に立った。
北の方向から、重い気配が来ていた。昨日までの揺らぎとは、比べものにならない大きさだった。
「祇王か」
「……ああ」
「今日ですか」
「今日だ」
朔は千歳を見た。
「千歳」
「はい」
「来るか」
千歳は一瞬だけ、目を閉じた。
怖い、と思った。
でも行かなければならないと、それより強く思った。
「行きます」
紅葉に告げた。
紅葉の顔が、一瞬だけ変わった。でもすぐに、頷いた。
「分かりました。雪丸と志乃は、屋敷にいてください」
「ぼくもいく!」
「雪丸は屋敷にいなさい」
「でも」
「千歳様と朔様が帰ってきたとき、ここで待っていてください。それが雪丸の仕事です」
雪丸は少し考えてから、千歳を見た。
「ちとせ、かえってくる?」
「帰ってきます」
「ぜったい?」
「ぜったい」
雪丸はしっぽを下げたまま、でも頷いた。
「……まってる」
志乃が千歳の袖を引いた。
「千歳、気をつけて」
「はい」
「祇王の言葉を、聞きすぎないで。あれは、心の欠けたところを狙ってくるから」
「分かっています」
「でも千歳には、今は欠けているところより、満ちているところのほうが多い。それを忘れないで」
千歳は志乃を見た。
「ありがとう、志乃」
「お礼はあとで。帰ってきてからにして」
朔と千歳は、北へ向かった。
歩きながら、朔が言った。
「今日のことは、千歳が無理をする必要はない」
「でも」
「聞け。今日は俺が祇王を抑える。千歳は、隙を見て、できる範囲で鎮めの力を使う。できなければ、しなくていい」
「分かりました」
「祇王の言葉は、昨夜より強く来る。聞こえても、飲み込まれるな」
「はい」
「もし飲まれそうになったら、俺の声を聞け。俺の声だけを聞け」
「朔様の声を」
「ああ。それだけに集中しろ」
千歳は頷いた。その言葉だけで、不思議なくらい足元が揺らがなくなった。
「朔様」
「なんだ」
「怖いです」
「……ああ」
「でも行きます」
「知っている」
朔は歩きながら、千歳の手を取った。
一瞬だけ、強く握った。
それからすぐに離した。
千歳は手を見た。
握られた感触が、まだある。
「行くぞ」
「はい」
北の端に着いたとき、すでに空気が変わっていた。
千歳は一度だけ深く息を吸った。
重い。でも今日は違った。
今日の千歳には、受け取る準備ができていた。
霧が来た。
灰色の、滲むような霧だった。昨夜より濃かった。でも千歳は、その霧を見て、飲み込まれる恐怖より先に、別のものを感じた。
悲しい。
この霧は、悲しいものだ。
怒っているのは本当だ。でもその根には、長い悲しみがある。
朔が千歳の前に出た。
「下がれ」
「少しだけ近づかせてください」
「千歳」
「朔様が抑えてくださる間に、わたしがします。约束通り、補助です」
朔は一瞬だけ千歳を見てから、頷いた。
霧の中から、声がした。
「また来たか、白狼」
「ああ」
「今日は連れがいる。前の娘か」
「そうだ」
「道具を連れてきたか」
「違う」
朔の声は、穏やかだった。
「俺の花嫁だ」
霧が揺れた。
「花嫁か。笑わせる。どうせまた、使い捨てにされる」
「そうはならない」
「なぜ言い切れる。おまえも、かつての者たちと同じだ。必要なときだけ傍に置いて、いらなくなれば手放す」
「俺はそうしない」
「なぜ」
「千歳がいなければ、この神域の意味がない。千歳がいなければ、俺がここにいる意味もない」
千歳は朔の背中を見た。
この人が、そういうことを言う。
霧の中のものに向かって、でも千歳に聞こえるように。
千歳は一歩、前へ踏み出した。
「祇王」
霧が動いた。
「娘か」
「はい。千歳と申します」
「名乗るか。道具が名乗るとは」
「道具ではありません」
「そうか。では何だ」
「ここにいる人間です。この神域に根を張った、一人の人間です」
霧が少し薄くなった気がした。
「おまえに、俺の何が分かる」
「全部は分かりません。でも少し分かります」
「何が」
「傷つけられたことが、ずっと残っていることが。使い捨てにされた怒りが、消えないことが」
霧の中が、動いた。
「おまえに、それが分かるのか」
「わたしにも、似たことがありました。小さいことですが。価値がないと思われること、役目が終われば切られること」
「同じではない」
「同じとは思っていません。あなたの痛みのほうが、ずっと深いと思っています」
しばらく、霧が動かなかった。
「何をしに来た、娘」
「向き合いに来ました」
「向き合う?」
「はい。あなたが傷ついたことを、ちゃんと知りに来ました」
「知ってどうする」
「知ることしか、今はできません。でも、あなたがここにいたことを、傷つけられたことを、知っている人間がいる。それだけでも、意味があると思っています」
霧が、また揺れた。
「……きれいごとを言う」
「きれいごとかもしれません。でも本当のことです」
「なぜそれが本当だと言える」
「あの円形の場所の石に触れて、感じたからです。誰にも知られないまま、長い時間そこにいたものが、少しだけ息をした。それが、知られることで変わったのだと思いました」
沈黙があった。
霧の中の気配が、わずかに変わった。
「あの石を知っているのか」
「はい。何度か触れました」
「あそこにいるものと、俺は違う」
「違うことは分かっています。あちらは悲しんでいた。あなたは怒っている」
「怒る権利がある」
「あります」
千歳は強く言った。
「あなたには、怒る権利があります。傷つけられたのだから。使い捨てにされたのだから。それは間違っていない」
霧が大きく揺れた。
今まで聞いたことのない動き方をした。
「……それを、認めるのか」
「はい」
「白狼も、ずっと抑えるだけだった。誰も、認めなかった」
千歳は朔を見た。
朔は黙っていたが、千歳に目で先を促した。
「朔様は、あなたを消そうとはしなかったはずです。ただ、抑えるしかなかった。なぜなら、あなたの怒りに理由があることを、知っていたから」
「……白狼が、そう言ったのか」
「はい」
霧が、また揺れた。
今度は、少し違う揺れ方をした。
激しくなるのではなく、波を打つような。
「娘」
「はい」
「おまえは、怖くないのか」
「怖いです」
「怖いのに来たのか」
「はい。怖くても、向き合いたかったので」
「なぜ」
「あなたを、このままにしておきたくなかったから」
「このまま、とは」
「怒り続けることで、あなた自身も傷ついているから。怒ることは正しい。でも、怒り続けることで、あなたも苦しいのではないかと思って」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
霧が、ゆっくりと動いた。
「……苦しいか」
「そう見えます」
「おかしな娘だ」
「そうかもしれません」
「俺を哀れんでいるのか」
「哀れんでいるのではありません。あなたのことが、気になっているのです」
「気になる?」
「はい。長い時間、ここにいる。怒っている。でも、消えることもできないでいる。なぜ消えることができないのか、少し分かる気がします」
「言ってみろ」
「終わりにしてもらえないから」
霧が、止まった。
「ちゃんと終わりにしてもらえなかったから、まだここにいる。それはあの円形の場所のものと同じです。ただ、あちらは悲しみで、あなたは怒りで、ここにいる」
「……分かった上で、向き合いに来たのか」
「はい」
「何ができる。娘に何ができる」
「終わりにする力は、まだわたしにはないかもしれません。でも、少しずつ向き合うことはできます。今日がその、最初です」
霧が動いた。
千歳に向かって、動いた。
朔が前に出た。
「させない」
「邪魔をするな、白狼」
「千歳を傷つけることは、させない」
「傷つけようとしたわけでは」
「千歳に直接触れることは、まだ許さない」
霧と朔が、向き合った。
千歳は朔の後ろから、霧に向かって手を伸ばした。
届かなかった。
距離がある。
でも千歳は、指先に意識を集めた。
今日、ここへ来る前に、受け取ってきたものがある。
雪丸が「かえってくる?」と聞いたときの目。志乃が「満ちているところのほうが多い」と言ったこと。紅葉が「行ってらっしゃい」と言ったこと。朔が手を一瞬だけ強く握ったこと。
それを、指先に集めた。
届けようとした。
霧の向こうへ。
何かが、動いた。
千歳にははっきりと分かった。
霧の奥にいるものが、何かを感じた。
拒絶ではなかった。
警戒だった。
誰かに何かを渡されることへの、長い時間をかけて身についた警戒。
「……なんだ、これは」
「わたしが受け取ってきたものです。ここで積み重なってきたものを、少しだけ渡しています」
「なぜ俺に渡す」
「あなたにも、受け取ってほしいから」
「俺が受け取っていいものか」
「はい」
「なぜそう言える」
「あなたが傷つけられたことは本当だから。傷ついた者が、温かいものを受け取ることを、誰も否定できない」
霧が、長い間、動かなかった。
朔も動かなかった。
千歳も動かなかった。
ただ指先に意識を集めたまま、霧の奥へ向けていた。
やがて、霧が薄くなり始めた。
少しずつ、少しずつ。
消えたわけではなかった。
でも、薄くなった。
霧の中から声がした。
「……娘」
「はい」
「また来るか」
千歳は少し驚いた。
来るか、と聞いている。
拒絶ではなく、来るかと聞いている。
「はい。また来ます」
「白狼も来るか」
「来る」
朔が言った。
「二人で来るか」
「ああ」
「……そうか」
霧が、また薄くなった。
今日はそれが限界だった。
完全に消えたわけではない。根はまだある。でも、今日の霧は退いた。
霧が消えてから、千歳は座り込みそうになった。
朔がすぐに腕を支えた。
「立てるか」
「立てます。少し」
「少し、では立てない」
「……少しだけ手を貸してください」
「分かった」
朔は千歳の腕を支えたまま、帰り道を歩いた。
千歳は歩きながら、今日のことを整理しようとしていたが、体が疲れていて頭がうまく動かなかった。
ただ、一つだけ分かっていた。
終わったわけではない。
でも、始まった。
「朔様」
「なんだ」
「また来るか、と聞かれました」
「聞いていた」
「来ますと答えました」
「聞いていた」
「良かったでしょうか」
朔はわずかに間を置いた。
「……良かった」
「そうですか」
「祇王が、来るかと聞いたことの意味が分かるか」
「受け入れた、ということですか」
「まだそこまではいかないかもしれない。でも、拒絶しなかった。それは今日が初めてのことだ」
「百年で初めてですか」
「ああ」
千歳は歩きながら、その言葉を受け取った。
百年で初めて、拒絶しなかった。
「朔様がずっと抑えてきたから、今日があったのだと思います」
「千歳が向き合ったから、今日があった」
「どちらも、です」
朔は何も言わなかった。
でも腕を支える手が、少しだけ温かくなった気がした。
屋敷に戻ると、雪丸が駆けてきた。
「ちとせ! かえってきた!」
「帰ってきました」
「ぜったいって言ったから、しんじてた」
「信じてくれてありがとう」
雪丸は千歳に飛びついてきた。千歳はよろめいたが、朔が後ろから支えた。
「雪丸、今は飛びつくな」
「でも、うれしくて」
「千歳が疲れている」
「ごめん、ちとせ」
「大丈夫です。うれしい」
志乃が廊下から顔を出した。
「どうだった?」
「今日は、始まりでした。終わりにはなっていないけれど」
「においが変わった。祇王のにおいが、少しだけやわらかい」
「そうですか」
「うん。前より、あたたかいものが混じってる」
紅葉が、二人の前に立った。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「お疲れ様でした。朔様も」
「……ああ」
「まず休んでください。詳しい話は後で」
千歳は部屋に寝かされた。
今日は熱は出なかった。でも体の奥に、深い疲れがあった。
使ったものがある。渡したものがある。それだけ消耗している。
紅葉が温かい湯を持ってきた。
「飲んでください」
「ありがとうございます」
「今日のことを、少し聞かせてもらえますか」
「はい」
千歳は、祇王が来るかと聞いたことを話した。向き合えたこと、渡せたこと、霧が退いたこと。
紅葉は最後まで聞いてから、穏やかな声で言った。
「千歳様がいなければ、今日はなかったと思います」
「朔様がいなければ、もっとそうです」
「そうですね。お二人だから、今日があった」
千歳は湯を飲んだ。
「紅葉さん、まだ終わっていないんです」
「はい。分かっています」
「またあそこへ行かなければならない。何度も」
「千歳様が行くと決めているなら、わたくしたちは待っています」
「待っていてくれますか」
「当然です。これが千歳様の家ですから」
千歳は、その言葉を受け取った。
家。
千歳の家。
「……ありがとうございます」
「お礼はよろしい。休んでください」
夕方、朔が部屋に来た。
「体は」
「大丈夫です。熱はないです」
「そうか」
朔は千歳の前に座った。
「今日のことを、少し話していいか」
「はい」
「祇王が千歳に問いかけた。おまえが怖くないかと」
「はい」
「千歳は怖いと答えた」
「本当のことですから」
「怖いのに来たと言った」
「それも本当のことです」
朔は千歳を見た。
「……俺は、千歳が今日来ることを、止めようと思った」
「止めなかったですよね」
「止めなかった。おまえが来ると決めていると、分かったから」
「はい」
「止めなかったが……怖かった」
千歳は少し驚いた。
「朔様が?」
「千歳が飲まれそうになったとき、昨夜より、怖かった。前に出るとき、手が震えそうだった」
「震えていませんでした」
「見えないようにしていた」
千歳はしばらく黙った。
「朔様」
「なんだ」
「それを教えてくれてありがとうございます」
「なぜ礼を言う」
「朔様が怖かったと教えてくれることが、嬉しいから」
「怖かったと言われて、なぜ嬉しい」
「わたしのことを、そこまで思ってくださっているということだから」
朔は黙った。
「……大げさではない。当然のことだ」
「それが嬉しいのです」
また沈黙があった。
「千歳」
「はい」
「今日、祇王に言ったことがある」
「はい」
「千歳がいなければ、この神域の意味がないと言った」
「聞いていました」
「あれは……本当のことだ」
「はい」
「状況の言葉ではない。前に状況の言葉と言ったが、今日は状況関係なく、本当のことだ」
千歳は朔を見た。
「……はい」
「千歳がいなければ、この神域は戻らない。千歳の力が必要だということもある。でもそれだけではない」
「はい」
「千歳がいなければ、俺が、困る」
千歳は少し笑った。
「困る、という言い方をするのですね」
「……他の言い方が、出てこなかった」
「十分です」
「十分か」
「朔様の言い方で、十分わかります」
朔はわずかに千歳を見て、また前を向いた。
「……それから」
「はい」
「今日、手を握った」
「はい。覚えています」
「短かったが」
「覚えています」
「……次は、もう少し長くてもいいか」
千歳は、その言葉を聞いた。
ゆっくりと、受け取った。
「……はい」
「そうか」
朔は何も言わなかった。
でも今夜の沈黙は、千歳には温かかった。
夜、行灯の前で、千歳は今日のことを冷静に思い返していた。
今日、祇王と向き合った。
終わりにはなっていない。でも、始まった。
祇王が「また来るか」と聞いた。
それは、扉が少し開いたということだった。
百年間閉じていた扉が、今日、ほんの少しだけ開いた。
それは千歳が来たから、ではないと思った。
朔が百年間ここに立ってきたから。抑え続けてきたから。消そうとしなかったから。
その百年の上に、今日があった。
千歳はただ、その百年の上に立って、向き合っただけだった。
「ちとせ」
雪丸が、千歳の足元から言った。
「なに」
「きょう、ちとせがかえってきて、ぼくうれしかった」
「ありがとう」
「またいく?」
「また行きます」
「こわい?」
「怖いです」
「でもいく?」
「でも行きます」
雪丸はしっぽをぱたりと振った。
「ぼく、まってる。いつでも」
「ありがとう、雪丸」
「さくも、まってるとおもう。心のなかで」
「朔様は見廻りに行くでしょう」
「それでも、心のなかで、まってるとおもう」
千歳は笑った。
「そうですね。そうかもしれません」
廊下で足音がした。
止まった。
「千歳」
「はい」
「今日は、よくやった」
「朔様もです」
「……俺は、いつもと変わらない」
「変わっていました。手が震えそうだったとおっしゃっていたから」
「それは言わなくていい」
「教えてくださったのは朔様です」
「……言わなければよかった」
「いいえ。嬉しかったので」
少しの間があった。
「千歳」
「はい」
「……今日は、よく眠れ」
「はい」
「明日は、今日よりましな日になる」
「どうして分かるのですか」
「今日、祇王が退いた。しばらくは静かになる。その間に、千歳が力をつける」
「はい」
「俺も、考える。次に向かうための」
「一緒に考えてください」
「……ああ」
足音が、ゆっくりと動き始めた。
でもすぐには遠ざからなかった。
「千歳」
「はい」
「今日、梅を一緒に見た」
「はい」
「……良かった」
今度こそ、足音が遠ざかっていった。
千歳は行灯の火を見た。
今日、梅を一緒に見た。
その後、祇王と向き合った。
怖かった。疲れた。でも、できた。
そして朔が「良かった」と言った。
梅を見たことが、良かった。
今日という一日が、良かった。
千歳は行灯を落とした。
暗くなった部屋に、雪丸の温もりがあった。
外では、梅の花が夜の中にあった。
満開の梅が、見えないけれど確かにある。
明日も、あそこに咲いているだろう。
千歳は目を閉じた。
今日、また一歩、進んだ。
終わりはまだ先だ。
でも朔がいる。雪丸がいる。志乃がいる。紅葉がいる。
そして千歳がいる。
それだけで、明日もここへ来られると思った。
祇王のもとへ。
この神域の、長い傷のもとへ。
また向き合いに。
鎮めの花として。




