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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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19/20

第十九章 白狼神の花嫁

 梅が満開になったのは、それから七日後だった。

 朝、千歳が中庭へ出ると、木の全体が白く覆われていた。

 一輪から始まった花が、枝という枝に広がって、今朝は木全体が白い花で満ちている。香りが、庭全体に漂っていた。冬の冷気の中に、確かな春の気配がある。

 千歳はしばらく、そこに立っていた。

 この花が咲くところを見たくて、ここへ来た。

 正確には、違う。ここへ来てから、この花が咲くのを待つようになった。

 朔と一緒に見る約束をしていた。

 千歳は屋敷へ戻った。


 朔は書院にいた。

「梅が、満開です」

 千歳が言うと、朔は筆を置いた。

 立ち上がった。

 二人で中庭へ出た。

 梅の木の前に並んで立った。

 白い花が、朝の光の中に満ちていた。香りが、二人を包んだ。

 朔は黙っていた。

 千歳も黙っていた。

 しばらく、そのままでいた。

「毎年、咲く」

 朔が言った。

「はい」

「何年見ても、同じように咲く」

「今年は、一緒に見られました」

 朔はわずかに千歳を見た。

「……ああ」

 それだけだったが、千歳には十分だった。

 この一言の重さが、今の千歳には分かった。

 百年間、一人で見ていた梅を、今年は千歳と見ている。

 朔にとって、それがどういうことか。

「ありがとうございます、朔様」

「何のために礼を言う」

「一緒に見てくださったことに」

「……約束したから見ているだけだ」

「それでも」

 朔は梅に目を戻した。

 でも耳のあたりが、ほんの少し赤かった。


 その日の昼過ぎ、神域が動いた。

 最初に気づいたのは、雪丸だった。

「いやなにおい。きた、のほう」

 千歳が顔を上げた。

 同時に、志乃が廊下を走ってきた。

「ちとせ、朔さま! 北が動いてる!」

 朔はすでに外を見ていた。

「昨日より大きい」

 低い声だった。

 千歳は朔の横に立った。

 北の方向から、重い気配が来ていた。昨日までの揺らぎとは、比べものにならない大きさだった。

「祇王か」

「……ああ」

「今日ですか」

「今日だ」

 朔は千歳を見た。

「千歳」

「はい」

「来るか」

 千歳は一瞬だけ、目を閉じた。

 怖い、と思った。

 でも行かなければならないと、それより強く思った。

「行きます」


 紅葉に告げた。

 紅葉の顔が、一瞬だけ変わった。でもすぐに、頷いた。

「分かりました。雪丸と志乃は、屋敷にいてください」

「ぼくもいく!」

「雪丸は屋敷にいなさい」

「でも」

「千歳様と朔様が帰ってきたとき、ここで待っていてください。それが雪丸の仕事です」

 雪丸は少し考えてから、千歳を見た。

「ちとせ、かえってくる?」

「帰ってきます」

「ぜったい?」

「ぜったい」

 雪丸はしっぽを下げたまま、でも頷いた。

「……まってる」

 志乃が千歳の袖を引いた。

「千歳、気をつけて」

「はい」

「祇王の言葉を、聞きすぎないで。あれは、心の欠けたところを狙ってくるから」

「分かっています」

「でも千歳には、今は欠けているところより、満ちているところのほうが多い。それを忘れないで」

 千歳は志乃を見た。

「ありがとう、志乃」

「お礼はあとで。帰ってきてからにして」


 朔と千歳は、北へ向かった。

 歩きながら、朔が言った。

「今日のことは、千歳が無理をする必要はない」

「でも」

「聞け。今日は俺が祇王を抑える。千歳は、隙を見て、できる範囲で鎮めの力を使う。できなければ、しなくていい」

「分かりました」

「祇王の言葉は、昨夜より強く来る。聞こえても、飲み込まれるな」

「はい」

「もし飲まれそうになったら、俺の声を聞け。俺の声だけを聞け」

「朔様の声を」

「ああ。それだけに集中しろ」

 千歳は頷いた。その言葉だけで、不思議なくらい足元が揺らがなくなった。

「朔様」

「なんだ」

「怖いです」

「……ああ」

「でも行きます」

「知っている」

 朔は歩きながら、千歳の手を取った。

 一瞬だけ、強く握った。

 それからすぐに離した。

 千歳は手を見た。

 握られた感触が、まだある。

「行くぞ」

「はい」


 北の端に着いたとき、すでに空気が変わっていた。

 千歳は一度だけ深く息を吸った。

 重い。でも今日は違った。

 今日の千歳には、受け取る準備ができていた。

 霧が来た。

 灰色の、滲むような霧だった。昨夜より濃かった。でも千歳は、その霧を見て、飲み込まれる恐怖より先に、別のものを感じた。

 悲しい。

 この霧は、悲しいものだ。

 怒っているのは本当だ。でもその根には、長い悲しみがある。

 朔が千歳の前に出た。

「下がれ」

「少しだけ近づかせてください」

「千歳」

「朔様が抑えてくださる間に、わたしがします。约束通り、補助です」

 朔は一瞬だけ千歳を見てから、頷いた。


 霧の中から、声がした。

「また来たか、白狼」

「ああ」

「今日は連れがいる。前の娘か」

「そうだ」

「道具を連れてきたか」

「違う」

 朔の声は、穏やかだった。

「俺の花嫁だ」

 霧が揺れた。

「花嫁か。笑わせる。どうせまた、使い捨てにされる」

「そうはならない」

「なぜ言い切れる。おまえも、かつての者たちと同じだ。必要なときだけ傍に置いて、いらなくなれば手放す」

「俺はそうしない」

「なぜ」

「千歳がいなければ、この神域の意味がない。千歳がいなければ、俺がここにいる意味もない」

 千歳は朔の背中を見た。

 この人が、そういうことを言う。

 霧の中のものに向かって、でも千歳に聞こえるように。

 千歳は一歩、前へ踏み出した。

「祇王」

 霧が動いた。

「娘か」

「はい。千歳と申します」

「名乗るか。道具が名乗るとは」

「道具ではありません」

「そうか。では何だ」

「ここにいる人間です。この神域に根を張った、一人の人間です」

 霧が少し薄くなった気がした。

「おまえに、俺の何が分かる」

「全部は分かりません。でも少し分かります」

「何が」

「傷つけられたことが、ずっと残っていることが。使い捨てにされた怒りが、消えないことが」

 霧の中が、動いた。

「おまえに、それが分かるのか」

「わたしにも、似たことがありました。小さいことですが。価値がないと思われること、役目が終われば切られること」

「同じではない」

「同じとは思っていません。あなたの痛みのほうが、ずっと深いと思っています」

 しばらく、霧が動かなかった。

「何をしに来た、娘」

「向き合いに来ました」

「向き合う?」

「はい。あなたが傷ついたことを、ちゃんと知りに来ました」

「知ってどうする」

「知ることしか、今はできません。でも、あなたがここにいたことを、傷つけられたことを、知っている人間がいる。それだけでも、意味があると思っています」

 霧が、また揺れた。

「……きれいごとを言う」

「きれいごとかもしれません。でも本当のことです」

「なぜそれが本当だと言える」

「あの円形の場所の石に触れて、感じたからです。誰にも知られないまま、長い時間そこにいたものが、少しだけ息をした。それが、知られることで変わったのだと思いました」

 沈黙があった。

 霧の中の気配が、わずかに変わった。

「あの石を知っているのか」

「はい。何度か触れました」

「あそこにいるものと、俺は違う」

「違うことは分かっています。あちらは悲しんでいた。あなたは怒っている」

「怒る権利がある」

「あります」

 千歳は強く言った。

「あなたには、怒る権利があります。傷つけられたのだから。使い捨てにされたのだから。それは間違っていない」

 霧が大きく揺れた。

 今まで聞いたことのない動き方をした。

「……それを、認めるのか」

「はい」

「白狼も、ずっと抑えるだけだった。誰も、認めなかった」

 千歳は朔を見た。

 朔は黙っていたが、千歳に目で先を促した。

「朔様は、あなたを消そうとはしなかったはずです。ただ、抑えるしかなかった。なぜなら、あなたの怒りに理由があることを、知っていたから」

「……白狼が、そう言ったのか」

「はい」

 霧が、また揺れた。

 今度は、少し違う揺れ方をした。

 激しくなるのではなく、波を打つような。

「娘」

「はい」

「おまえは、怖くないのか」

「怖いです」

「怖いのに来たのか」

「はい。怖くても、向き合いたかったので」

「なぜ」

「あなたを、このままにしておきたくなかったから」

「このまま、とは」

「怒り続けることで、あなた自身も傷ついているから。怒ることは正しい。でも、怒り続けることで、あなたも苦しいのではないかと思って」

 沈黙があった。

 長い沈黙だった。

 霧が、ゆっくりと動いた。

「……苦しいか」

「そう見えます」

「おかしな娘だ」

「そうかもしれません」

「俺を哀れんでいるのか」

「哀れんでいるのではありません。あなたのことが、気になっているのです」

「気になる?」

「はい。長い時間、ここにいる。怒っている。でも、消えることもできないでいる。なぜ消えることができないのか、少し分かる気がします」

「言ってみろ」

「終わりにしてもらえないから」

 霧が、止まった。

「ちゃんと終わりにしてもらえなかったから、まだここにいる。それはあの円形の場所のものと同じです。ただ、あちらは悲しみで、あなたは怒りで、ここにいる」

「……分かった上で、向き合いに来たのか」

「はい」

「何ができる。娘に何ができる」

「終わりにする力は、まだわたしにはないかもしれません。でも、少しずつ向き合うことはできます。今日がその、最初です」

 霧が動いた。

 千歳に向かって、動いた。

 朔が前に出た。

「させない」

「邪魔をするな、白狼」

「千歳を傷つけることは、させない」

「傷つけようとしたわけでは」

「千歳に直接触れることは、まだ許さない」

 霧と朔が、向き合った。

 千歳は朔の後ろから、霧に向かって手を伸ばした。

 届かなかった。

 距離がある。

 でも千歳は、指先に意識を集めた。

 今日、ここへ来る前に、受け取ってきたものがある。

 雪丸が「かえってくる?」と聞いたときの目。志乃が「満ちているところのほうが多い」と言ったこと。紅葉が「行ってらっしゃい」と言ったこと。朔が手を一瞬だけ強く握ったこと。

 それを、指先に集めた。

 届けようとした。

 霧の向こうへ。


 何かが、動いた。

 千歳にははっきりと分かった。

 霧の奥にいるものが、何かを感じた。

 拒絶ではなかった。

 警戒だった。

 誰かに何かを渡されることへの、長い時間をかけて身についた警戒。

「……なんだ、これは」

「わたしが受け取ってきたものです。ここで積み重なってきたものを、少しだけ渡しています」

「なぜ俺に渡す」

「あなたにも、受け取ってほしいから」

「俺が受け取っていいものか」

「はい」

「なぜそう言える」

「あなたが傷つけられたことは本当だから。傷ついた者が、温かいものを受け取ることを、誰も否定できない」

 霧が、長い間、動かなかった。

 朔も動かなかった。

 千歳も動かなかった。

 ただ指先に意識を集めたまま、霧の奥へ向けていた。


 やがて、霧が薄くなり始めた。

 少しずつ、少しずつ。

 消えたわけではなかった。

 でも、薄くなった。

 霧の中から声がした。

「……娘」

「はい」

「また来るか」

 千歳は少し驚いた。

 来るか、と聞いている。

 拒絶ではなく、来るかと聞いている。

「はい。また来ます」

「白狼も来るか」

「来る」

 朔が言った。

「二人で来るか」

「ああ」

「……そうか」

 霧が、また薄くなった。

 今日はそれが限界だった。

 完全に消えたわけではない。根はまだある。でも、今日の霧は退いた。


 霧が消えてから、千歳は座り込みそうになった。

 朔がすぐに腕を支えた。

「立てるか」

「立てます。少し」

「少し、では立てない」

「……少しだけ手を貸してください」

「分かった」

 朔は千歳の腕を支えたまま、帰り道を歩いた。

 千歳は歩きながら、今日のことを整理しようとしていたが、体が疲れていて頭がうまく動かなかった。

 ただ、一つだけ分かっていた。

 終わったわけではない。

 でも、始まった。

「朔様」

「なんだ」

「また来るか、と聞かれました」

「聞いていた」

「来ますと答えました」

「聞いていた」

「良かったでしょうか」

 朔はわずかに間を置いた。

「……良かった」

「そうですか」

「祇王が、来るかと聞いたことの意味が分かるか」

「受け入れた、ということですか」

「まだそこまではいかないかもしれない。でも、拒絶しなかった。それは今日が初めてのことだ」

「百年で初めてですか」

「ああ」

 千歳は歩きながら、その言葉を受け取った。

 百年で初めて、拒絶しなかった。

「朔様がずっと抑えてきたから、今日があったのだと思います」

「千歳が向き合ったから、今日があった」

「どちらも、です」

 朔は何も言わなかった。

 でも腕を支える手が、少しだけ温かくなった気がした。


 屋敷に戻ると、雪丸が駆けてきた。

「ちとせ! かえってきた!」

「帰ってきました」

「ぜったいって言ったから、しんじてた」

「信じてくれてありがとう」

 雪丸は千歳に飛びついてきた。千歳はよろめいたが、朔が後ろから支えた。

「雪丸、今は飛びつくな」

「でも、うれしくて」

「千歳が疲れている」

「ごめん、ちとせ」

「大丈夫です。うれしい」

 志乃が廊下から顔を出した。

「どうだった?」

「今日は、始まりでした。終わりにはなっていないけれど」

「においが変わった。祇王のにおいが、少しだけやわらかい」

「そうですか」

「うん。前より、あたたかいものが混じってる」

 紅葉が、二人の前に立った。

「お帰りなさい」

「ただいま戻りました」

「お疲れ様でした。朔様も」

「……ああ」

「まず休んでください。詳しい話は後で」


 千歳は部屋に寝かされた。

 今日は熱は出なかった。でも体の奥に、深い疲れがあった。

 使ったものがある。渡したものがある。それだけ消耗している。

 紅葉が温かい湯を持ってきた。

「飲んでください」

「ありがとうございます」

「今日のことを、少し聞かせてもらえますか」

「はい」

 千歳は、祇王が来るかと聞いたことを話した。向き合えたこと、渡せたこと、霧が退いたこと。

 紅葉は最後まで聞いてから、穏やかな声で言った。

「千歳様がいなければ、今日はなかったと思います」

「朔様がいなければ、もっとそうです」

「そうですね。お二人だから、今日があった」

 千歳は湯を飲んだ。

「紅葉さん、まだ終わっていないんです」

「はい。分かっています」

「またあそこへ行かなければならない。何度も」

「千歳様が行くと決めているなら、わたくしたちは待っています」

「待っていてくれますか」

「当然です。これが千歳様の家ですから」

 千歳は、その言葉を受け取った。

 家。

 千歳の家。

「……ありがとうございます」

「お礼はよろしい。休んでください」


 夕方、朔が部屋に来た。

「体は」

「大丈夫です。熱はないです」

「そうか」

 朔は千歳の前に座った。

「今日のことを、少し話していいか」

「はい」

「祇王が千歳に問いかけた。おまえが怖くないかと」

「はい」

「千歳は怖いと答えた」

「本当のことですから」

「怖いのに来たと言った」

「それも本当のことです」

 朔は千歳を見た。

「……俺は、千歳が今日来ることを、止めようと思った」

「止めなかったですよね」

「止めなかった。おまえが来ると決めていると、分かったから」

「はい」

「止めなかったが……怖かった」

 千歳は少し驚いた。

「朔様が?」

「千歳が飲まれそうになったとき、昨夜より、怖かった。前に出るとき、手が震えそうだった」

「震えていませんでした」

「見えないようにしていた」

 千歳はしばらく黙った。

「朔様」

「なんだ」

「それを教えてくれてありがとうございます」

「なぜ礼を言う」

「朔様が怖かったと教えてくれることが、嬉しいから」

「怖かったと言われて、なぜ嬉しい」

「わたしのことを、そこまで思ってくださっているということだから」

 朔は黙った。

「……大げさではない。当然のことだ」

「それが嬉しいのです」

 また沈黙があった。

「千歳」

「はい」

「今日、祇王に言ったことがある」

「はい」

「千歳がいなければ、この神域の意味がないと言った」

「聞いていました」

「あれは……本当のことだ」

「はい」

「状況の言葉ではない。前に状況の言葉と言ったが、今日は状況関係なく、本当のことだ」

 千歳は朔を見た。

「……はい」

「千歳がいなければ、この神域は戻らない。千歳の力が必要だということもある。でもそれだけではない」

「はい」

「千歳がいなければ、俺が、困る」

 千歳は少し笑った。

「困る、という言い方をするのですね」

「……他の言い方が、出てこなかった」

「十分です」

「十分か」

「朔様の言い方で、十分わかります」

 朔はわずかに千歳を見て、また前を向いた。

「……それから」

「はい」

「今日、手を握った」

「はい。覚えています」

「短かったが」

「覚えています」

「……次は、もう少し長くてもいいか」

 千歳は、その言葉を聞いた。

 ゆっくりと、受け取った。

「……はい」

「そうか」

 朔は何も言わなかった。

 でも今夜の沈黙は、千歳には温かかった。


 夜、行灯の前で、千歳は今日のことを冷静に思い返していた。

 今日、祇王と向き合った。

 終わりにはなっていない。でも、始まった。

 祇王が「また来るか」と聞いた。

 それは、扉が少し開いたということだった。

 百年間閉じていた扉が、今日、ほんの少しだけ開いた。

 それは千歳が来たから、ではないと思った。

 朔が百年間ここに立ってきたから。抑え続けてきたから。消そうとしなかったから。

 その百年の上に、今日があった。

 千歳はただ、その百年の上に立って、向き合っただけだった。

「ちとせ」

 雪丸が、千歳の足元から言った。

「なに」

「きょう、ちとせがかえってきて、ぼくうれしかった」

「ありがとう」

「またいく?」

「また行きます」

「こわい?」

「怖いです」

「でもいく?」

「でも行きます」

 雪丸はしっぽをぱたりと振った。

「ぼく、まってる。いつでも」

「ありがとう、雪丸」

「さくも、まってるとおもう。心のなかで」

「朔様は見廻りに行くでしょう」

「それでも、心のなかで、まってるとおもう」

 千歳は笑った。

「そうですね。そうかもしれません」


 廊下で足音がした。

 止まった。

「千歳」

「はい」

「今日は、よくやった」

「朔様もです」

「……俺は、いつもと変わらない」

「変わっていました。手が震えそうだったとおっしゃっていたから」

「それは言わなくていい」

「教えてくださったのは朔様です」

「……言わなければよかった」

「いいえ。嬉しかったので」

 少しの間があった。

「千歳」

「はい」

「……今日は、よく眠れ」

「はい」

「明日は、今日よりましな日になる」

「どうして分かるのですか」

「今日、祇王が退いた。しばらくは静かになる。その間に、千歳が力をつける」

「はい」

「俺も、考える。次に向かうための」

「一緒に考えてください」

「……ああ」

 足音が、ゆっくりと動き始めた。

 でもすぐには遠ざからなかった。

「千歳」

「はい」

「今日、梅を一緒に見た」

「はい」

「……良かった」

 今度こそ、足音が遠ざかっていった。

 千歳は行灯の火を見た。

 今日、梅を一緒に見た。

 その後、祇王と向き合った。

 怖かった。疲れた。でも、できた。

 そして朔が「良かった」と言った。

 梅を見たことが、良かった。

 今日という一日が、良かった。

 千歳は行灯を落とした。

 暗くなった部屋に、雪丸の温もりがあった。

 外では、梅の花が夜の中にあった。

 満開の梅が、見えないけれど確かにある。

 明日も、あそこに咲いているだろう。

 千歳は目を閉じた。

 今日、また一歩、進んだ。

 終わりはまだ先だ。

 でも朔がいる。雪丸がいる。志乃がいる。紅葉がいる。

 そして千歳がいる。

 それだけで、明日もここへ来られると思った。

 祇王のもとへ。

 この神域の、長い傷のもとへ。

 また向き合いに。

 鎮めの花として。


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