第十八章 鎮めの花
朝が来た。千歳が目を覚ますと、部屋に朝の光が満ちていた。
雪丸は足元で眠っている。朔はもういなかった。でも昨夜の空気が、まだ部屋に残っていた。
千歳はしばらく天井を見ていた。
昨夜のことを、冷静に確かめていた。
朔が言った言葉を、一つずつ思い返した。
千歳だから、いてほしい。
千歳の隣に。千歳がいる限り。
夢ではなかった。
確かに、あった。
千歳は目を閉じて、また開いた。
今日も、ここにいる。
それが今の千歳には、昨日より少し、明るく感じられた。
中庭に出ると、梅の花が増えていた。
昨日の二輪が三輪になっていた。
まだ満開には遠いが、枝の先のあちこちに白い芽が膨らんでいて、もうすぐ一斉に開きそうだった。
千歳は梅の木の前に立って、花を見上げた。
昨夜、梅が全部咲いたらまた一緒に見てくださいと、朔に言った。朔は「ああ」と言った。
それを楽しみにしながら、千歳は屋敷の中へ戻った。
朝食の席で、朔はまた早くに出ていた。
紅葉に聞くと、今朝は神域の北の見廻りを先に済ませると言っていたという。
昨夜のことがあった翌朝に、いつもどおり見廻りに出る。それが朔という人だった。
千歳はそれを少し笑ってから、自分も今日することを考えた。
やることがあった。
志乃に頼んで、円形の場所へ行くことだった。
昨夜、朔に祇王と向き合うことについて話した。朔は頭から駄目とは言わないと言った。考えると言った。
でも千歳には、今日すべきことが別にあった。
祇王ではなく、あの円形の場所。
薄れた神のかけらが残っている場所。千歳が前に触れたとき、少し息をした場所。
あそこに、もう一度行きたかった。
朝食を終えてから、千歳は志乃を探した。
志乃は中庭で紙の兎を折っていた。
「志乃、お願いがあるのですが」
「なに?」
「円形の場所へ、また連れていってもらえますか」
志乃は顔を上げた。
「今日?」
「はい。朔様が見廻りから戻る前に行って、戻ってきたいのですが」
「どうして今日?」
「昨夜のことがあって、考えていたのです。祇王と向き合う前に、あの場所をもう少し、ちゃんとしておきたくて」
志乃は少し考えた。
「あそこの、かけら」
「はい。前に触れたとき、少し楽になった気がしました。もう少し、できることがあるかもしれないと思って」
「紅葉に言う?」
「言います。行き先を伝えてから」
志乃は立ち上がった。
「分かった。志乃も一緒に行く」
紅葉には、行き先と戻る時間を伝えた。
紅葉は少し心配した顔をしたが、昨日と違って今日は「志乃と一緒ならば」と言ってくれた。
「朔様が戻られる前に、ちゃんと帰ってきてください」
「はい」
「何かあったら、すぐ戻ること」
「分かりました」
「雪丸を連れていきますか」
「今日は、志乃と二人で行きます」
紅葉は千歳を見てから、頷いた。
「行ってらっしゃい」
円形の場所へは、志乃の案内で迷わず着いた。
前に来たときより、雪が少し溶けていた。それだけ時間が経ったということだ。
中心の石は、変わらずそこにあった。
前に触れた部分の苔が、少し明るいままだった。
千歳は石の前に立った。
「志乃、少し離れていてもらえますか。何かあったら声をかけます」
「分かった。でもずっと見てる」
「はい、お願いします」
志乃が木の根元に座った。
千歳は石に向き合った。
深く息を吸った。
それから、ゆっくりと手を伸ばした。
触れた瞬間から、伝わってきた。
前と同じ感触だった。けれど、前よりもずっと静かだった。
流れ込んでくるものが、前回ほど激しくなかった。
その場の空気が、ほんのわずかに揺れた。
吹いてもいない風が、円形の内側だけを音もなく撫でていく。
志乃が目を見開いた。
「……ちがう。今までと、ちがう」
はずんだ声ではなく、息を呑むような声だった。
朔様は何も言わなかった。
ただ、地に触れていた手をゆっくり離し、初めて確かめるような目で千歳を見た。
その沈黙だけで、今起きたことが、朔様にとっても予想より大きいものだったのだと分かった。
あの土地の記憶。人々が来ていた頃の、温かい時間。それがだんだん薄れていく寂しさ。誰も来なくなった後の、長い静けさ。
千歳は、それを受け取った。
押し返さなかった。怖くなかった。
ただ、受け取った。
あなたはここにいた。
千歳は声に出さず、でも確かにそう思いながら触れていた。
あなたがここにいたことを、わたしは知っています。
人々が来ていたこと、祈りがあったこと、それが失われていったこと。全部、土地に残っている。石に残っている。
わたしはここに来ました。
知りに来ました。
それだけでも、意味があると思っています。
石の温度が、少し変わった気がした。
冷たかったものが、ほんのわずかにやわらいで、触れた指先へ穏やかに応えてくるようだった。
しばらくそうしていると、石から伝わってくるものが変わった。
今まではただ流れ込んでくるだけだったものが、今日は違う動き方をした。
千歳の手から、何かが石へ流れていく感触があった。
今まで感じたことのない感触だった。
受け取るだけでなく、渡している。
渡しているものが何なのか、千歳には言葉にできなかった。でも温かいものだった。ここで過ごした時間の温かさ。雪丸の毛の感触。紅葉の気遣い。志乃の笑い声。澄江の料理。朔の手の重さ。
そういうものが、指先を通して、石の中へ流れていく。
石が、息をした。
千歳にははっきりと、そう感じた。
今まで薄く、弱く、ただそこにあるだけだったものが、今日は少しだけ、深く息をした。
起きていた。
何かが、少しだけ起きていた。
どのくらいそうしていたのか分からない。
千歳は手を離した。
指先が、温かかった。冷えているはずなのに、温かかった。
「千歳」
志乃が来た。
「顔色は?」
「大丈夫です。今日は前回みたいにはなっていません」
「においも、大丈夫そう」
「何か、変わった気がします。あの石」
志乃は石を見た。
それから、目を丸くした。
「千歳、見て」
千歳も石を見た。
苔だった。
前に触れた部分より広く、石の表面の苔が、明るい緑に変わっていた。枯れかけていたものが、色を取り戻していた。
「前より広い」
「はい」
「においも変わった。さっきまでと、ちがう」
「どう違うの」
「……あたたかい。かたくて重かったのが、少しやわらかくなった」
千歳は石をもう一度見た。
苔の緑が、冬の光の中で鮮やかだった。
「志乃、ここにあるものに、今日は何か渡せた気がします」
「渡せた?」
「受け取るだけじゃなくて。ここにいるものに、温かいものを渡せた気がして」
志乃は千歳を見てから、石を見た。
「うん。志乃にも分かる。ここのもの、今日は違う」
「良い方向に?」
「うん。少し、前に進めた感じ」
千歳はその言葉を、冷静に受け取った。
前に進めた。
終わりにしてあげることはまだできていないかもしれない。でも、一歩だけ進めた。
「志乃」
「なに」
「ありがとうございます。連れてきてくれて」
「お礼はいつでも言っていい」
志乃はそれだけ言って、石の前に立った。
それから、小さな声で何かを言った。
千歳には聞こえなかったが、志乃が石に向かって話しかけているのは分かった。
精霊として、長くここにいる志乃が、石の中のものに言葉をかけていた。
千歳はその傍で、静かに立っていた。
屋敷に戻ると、朔がいた。
見廻りから戻ったばかりらしく、渡り廊下に立っていた。
千歳と目が合うと、朔は歩いてきた。
「どこへ行っていた」
「円形の場所へ。志乃と一緒に」
「紅葉から聞いた。一人ではないから止めなかったが」
「ご心配をおかけしました」
「心配ではなく」
「心配でしょう」
朔はわずかに黙った。
「……どうだった」
「前より、ずっと良かったです。今日は飲まれる感じもなくて、ただ受け取って、それから渡すことができました」
「渡す?」
「ここで積み重なってきたものを、石に渡せた気がして。うまく言えないのですが」
朔は千歳の顔を見た。
「疲れているか」
「少し。でも熱が出そうな感じはないです」
「中に入れ」
「はい」
朔は千歳と並んで、屋敷の中へ向かった。
歩きながら、朔が言った。
「渡す、ということは、千歳が初めてやったことだな」
「はい。自分でも驚きました」
「それは、力が安定してきているということだ」
「そうですか」
「受け取るだけではなく、渡せるようになるのは、次の段階だ」
千歳は朔を見た。
「朔様は、そういうことをご存じなのですか」
「鎮めの力については、古い記録で少し読んだことがある。千歳に話せていなかったが」
「教えてください」
「今日は休め。明日、話す」
「約束ですか」
「約束だ」
千歳は少し笑った。
昼餉の席で、朔は珍しく自分から話した。
今日の見廻りで、北の端の状態が少し落ち着いていたという話だった。
「いつもと違うくらい、穏やかだった」
「良かったです」
「千歳が今日、円形の場所で何かしたからかもしれない」
「それはどういうことですか」
「あの場所と、北の端は繋がっている。深い場所でつながっている。千歳があの石に渡したものが、北の端まで伝わった可能性がある」
千歳は少し驚いた。
「そんなに遠くまで」
「土地は繋がっているから。点ではなく、網のようなものだ」
「では、円形の場所を少しずつ良くしていけば、神域全体に影響が出る?」
「時間はかかるが、そうなる可能性がある」
志乃がうなずいた。
「志乃もそう思ってた。ちとせが来てから、においが少しずつ変わってきてる。全体的に」
「そうですか」
「ちとせの力が、土地に染み込んでる感じ。朔さまの力とは、種類が違う」
「朔様の力は、抑えること。わたしの力は、鎮めること」
「うん。別のものだから、合わさると強い」
「二つの力が揃えば、祇王とも向き合えるかもしれない、ということですね」
誰も、すぐには紅葉の言葉を継がなかった。
広間に落ちた静けさは重くはなかったけれど、軽くもなかった。
それは希望の形をしているのに、同時に、今まで避けようのなかった現実の輪郭をはっきり浮かび上がらせる沈黙だった。
千歳は自分の膝の上で、そっと指先を重ねた。
朔様の力だけでは届かなかったものへ、自分の力が届くのかもしれない。
そのことが嬉しいのか、恐ろしいのか、自分でもまだ分からなかった。
ただひとつだけ、胸の奥にはっきりしていることがあった。
もう自分は、この話をただ聞いているだけの者ではいられない。
朔は千歳を見た。
「今朝、考えた」
「はい」
「昨夜、千歳が言ったこと。一緒に準備をしたいと」
「はい」
「……受け入れる」
千歳は息を呑んだ。
「本当ですか?」
「昨夜のことがあって、改めて考えた。千歳を遠ざけることと、千歳を守ることは、同じではないと」
「……はい」
「遠ざければ安全かもしれない。だが千歳がしたいことを、俺の判断だけで奪うことはできない」
「朔様」
「だから、一緒に準備する。ただし、条件がある」
「何でしょう」
「力が十分に安定するまで、祇王に直接近づくことはしない。俺が安全だと判断するまでは、補助に徹すること」
「分かりました」
「俺の判断を、今度は聞くか」
「聞きます」
「昨夜は聞くと言って、善処すると言い直した」
「今日は、本当に聞きます」
朔は千歳を見た。
「……信じる」
それだけだったが、千歳には十分だった。
雪丸がしっぽをいっぱいに振った。
「さくとちとせ、いっしょにたたかう!」
「雪丸も来るか」
「いく!」
「来ない」
「いく!」
「来ない」
「絶対いく!」
千歳は笑った。
志乃も笑った。
紅葉が「雪丸の分もお願いします、朔様」と言った。
朔はため息をついたが、怒ってはいなかった。
午後、朔と千歳は書院で向かい合った。
朔が、鎮めの力について、古い記録から読んだことを話してくれた。
鎮めの力は、穢れを消すのではなく、静かにすることだと書かれていた。
怒りや悲しみは消えない。でも、その激しさを和らげることができる。傷ついたものが、怒り続けることを少し休めるように。
「千歳が石で感じたことと、一致しているか」
「はい。消す感じではなくて、落ち着かせる感じです」
「祇王に使えるなら、同じことができるはずだ」
「でも祇王の怒りは、石のものよりずっと大きくて深い」
「だから時間がかかる。一度でどうにかなるものではない」
「何度も向き合う必要がある」
「ああ。そしてその間、俺が祇王が千歳に直接触れないように、抑え続ける」
千歳は朔を見た。
「それは、朔様が盾になるということですか」
「そういうことになる」
「危なくないですか」
「俺には昨日のように飲まれることはない。祇王の怒りは、傷ついた経験のある相手に向かう。俺はそういう経験が少ない」
「そうなのですか」
「孤独は知っている。でも、見捨てられた経験は、俺には少ない。だから祇王の言葉は、俺にはそこまで刺さらない」
千歳は少し考えた。
「だから昨夜、わたしが飲まれかけたとき、朔様は平然と入ってこられたのですね」
「平然ではなかった」
「そうなのですか」
「……千歳が飲まれているのを見て、平然とはしていられない」
朔はそれだけ言って、視線を書物に落とした。
千歳は少し笑った。
「それは、嬉しいことです」
「……話を続けるぞ」
「はい」
話は長くなった。
朔が記録から読んだことと、千歳が実際に感じてきたことを、一つずつ照らし合わせていった。
途中で紅葉が茶を持ってきて、また出ていった。
志乃が廊下から顔を出して、「じゃまするといけないから、ちかくにいる」と言って消えた。
雪丸は最初から足元にいた。
二人が話し合いを続ける間、雪丸は騒がず黙っていた。珍しかった。
「雪丸、今日は静かですね」
「だいじなはなしだから」
「分かるの?」
「においでわかる。ふたりのにおいが、まじって、おなじほうこうむいてる」
千歳は朔を見た。
朔は雪丸を見てから、また千歳を見た。
「同じ方向を向いている、か」
「はい」
「……そうだな」
短く言った。
でもその言い方は、今まで千歳が聞いた朔の声の中で、一番穏やかだった。
夕方、千歳は一人で縁側に出た。
梅の木を見た。
今日はまた一輪増えて、四輪になっていた。
白い花が、夕日の中に浮かんでいた。
千歳は今日のことを、ゆっくり思い返していた。
円形の場所で、渡すことができた。
朔が、一緒に準備することを受け入れてくれた。
二人で話し合いをした。同じ方向を向いた。
この神域に来て、千歳は少しずつ変わってきた。
消えようと思っていた人間が、ここにいたいと思うようになった。役目だけ果たして静かにいようとしていた人間が、自分から動くようになった。
雪丸が最初に懐いてきた夜から。紅葉が「受け取っていい」と言ってくれた日から。志乃がそばにいてくれた時間から。朔が手を握っていてくれた夜から。
全部が積み重なって、今の千歳になっている。
鎮めの力は、消すのではなく、静かにすること。
それは千歳自身にも、当てはまる気がした。
傷があっても、消えなくていい。
ただ、少しずつ静かになっていく。
傷がありながら、でもここにいる。
それで十分だと思えるようになった。
朔が縁側に来た。
千歳の隣に立って、梅を見た。
「四輪になった」
「はい。また増えていました」
「あと数日で、満開になる」
「楽しみです」
二人で梅を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それが今の千歳には、ごく自然なことだった。
黙っていても、寂しくない。
この人の沈黙は、閉じていない。
「朔様」
「なんだ」
「今日、円形の場所で思ったことがあって」
「なんだ」
「鎮める、ということは、消すことではないと分かりました。傷ついたものを消そうとするのではなくて、ただそこにいて、向き合って、受け取ることが、鎮めることなのかもしれないと」
「……そうかもしれない」
「祇王も、そうだと思います。怒りを消そうとするのではなくて、その怒りに向き合うことが必要なのではないかと」
「向き合う、というのは」
「ちゃんと、聞くこと。あなたが傷ついたことを、知っていることを、伝えること」
朔は少しの間、黙った。
「それは……千歳にしかできないことかもしれない」
「なぜですか」
「俺には、同じ経験がないから。傷つけられた痛みを、本当の意味では知らないから。千歳は知っている」
千歳は朔の言葉を聞いた。
「だから、千歳の力が必要なのかもしれない。力があるから、ではなくて」
「千歳だから、ということですか」
「……ああ」
朔は梅を見たまま言った。
「千歳だから、できることだ」
千歳はその言葉を、今夜一番大切なものとして受け取った。
力があるからではない。千歳だから。
昨夜、朔は千歳だからいてほしいと言った。
今日は、千歳だからできることだと言った。
同じことだった。
千歳という人間を、力の器として見ているのではなく、千歳という人間を見ている。
「……嬉しいです」
「何が」
「千歳だから、と言ってもらえることが」
朔はわずかに千歳を見た。
「昨日も同じことを言った気がする」
「また言いました。これからも言うと思います」
「……困ったやつだ」
「困らせていますか」
「困っている。だが」
「だが?」
朔は梅を見たまま、少し間を置いた。
「……悪くない」
千歳は笑った。
悪くない。
それが今の朔の、精いっぱいの言い方だと分かった。
悪くない、は、好きだということだ。
夜、千歳は行灯の前で糸を並べていた。
雪の刺繍の準備だった。
白い糸と、薄い青の糸と、それから少しだけ金の糸を足そうと思っていた。
雪の上に光が落ちたとき、金色に見えることがある。
この神域の雪は、特にそうだった。
廊下で足音がした。
止まった。
「千歳」
「はい」
「今夜も起きているか」
「糸の準備をしていました」
「雪の刺繍か」
「はい。今日から始めようと思って」
少しの間があった。
「……入っていいか」
「どうぞ」
朔が入ってきた。
千歳の前に座った。
並べた糸を見た。
「金が入っているな」
「はい。雪の上に光が落ちたとき、金色に見えることがあるので」
「この神域の雪は、確かにそうなる」
「朔様が最初に気づいたのですか」
「いや。ずっと前から、そういうものだった。ただ、気に留めるようになったのは最近だ」
「最近とはいつ頃ですか」
朔は少し間を置いた。
「……千歳が来てからだ」
「わたしが来てから、雪の光に気づいたのですか」
「千歳が庭の雪を見る顔をするから、つられて見るようになった」
千歳は少し笑った。
「つられて」
「……うるさい」
「でも嬉しいです」
「また言う」
「いつも本当のことですから」
朔は黙った。
でも今夜の黙り方は、もう閉じていなかった。
受け取っている沈黙だった。
「朔様」
「なんだ」
「今日、一緒に準備すると言ってくださって、ありがとうございました」
「礼はいいと言っている」
「はい。でも言わずにはいられなくて」
「……そういう性格か」
「そういう性格です」
「分かった」
朔は少し考えてから、言った。
「千歳」
「はい」
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「今日、円形の場所で、何を渡した」
「何を?」
「渡したものが何か、分かるか」
千歳は少し考えた。
「ここで積み重なってきたものだと思います。雪丸の温もりとか、紅葉さんの気遣いとか、志乃と刺繍をした時間とか、澄江さんの料理とか」
「それから?」
「……朔様のことも」
「俺のことを?」
「はい。廊下で足音が止まるたびに感じた安心とか、手を握っていてくれた夜のこととか。そういうものが、指先から流れていった気がしました」
朔は、しばらく黙った。
「……そうか」
「おかしいですか」
「おかしくない」
「でも、こんなことを言うのは」
「おかしくない」
朔は繰り返した。
今度は、少し力を込めて。
「千歳がここで感じてきたことが、鎮めの力になる。それは……理にかなっている」
「そうですか」
「ああ。千歳がここで受け取ってきたものが、今度は渡せるようになった。それが鎮めの力の、本当の使い方かもしれない」
千歳はその言葉を、冷静に受け取った。
受け取ってきたものが、渡せるようになる。
それは千歳の力のことだけではない気がした。
千歳自身のことでもある。
誰かから受け取ってきたものを、今度は渡していく。
そういうことが、できるようになってきている。
「朔様」
「なんだ」
「朔様から受け取ってきたものも、たくさんあります」
「……俺から」
「はい。廊下の足音も、縁側での言葉も、手の温もりも、昨夜の言葉も。全部、受け取っています」
朔は千歳を見た。
「……それが、渡せるか」
「渡していきます。この神域に、ここにいるものに、これからも」
朔は黙った。
長い沈黙だった。
でもその沈黙の中に、何かが満ちていた。
「……頼む」
やがて朔が言った。
「はい」
「千歳に、頼む」
「任せてください」
それだけだった。
でも千歳には、その短いやり取りが、今夜の全てだった。
糸の準備を終えてから、千歳は布団に入った。
行灯は、まだついていた。
朔が傍にいた。
「今夜は、ここにいてくださるのですか」
「……文句があるか」
「ありません。嬉しいです」
「……また言う」
「本当のことですから」
朔は何も言わなかった。
千歳は目を閉じた。
行灯の火が、瞼の裏に橙として残っていた。
受け取ってきたものを、渡していく。
それが千歳の力の使い方だと、今日分かった。
でもそれは力の話だけではなかった。
朔から受け取った言葉を、温もりを、今度は千歳が返していく。
この神域の土地に、傷ついたものに、そして朔に。
千歳はここにいる。
消えようと思っていた千歳が、ここで鎮めの花になっていく。
それが今の千歳に、できることだった。
外では、梅の花が夜の中にあった。
見えないけれど、確かにある。
明日も、また一輪増えているだろう。
千歳はゆっくりと眠りに落ちていった。
朔の気配が、傍にあった。




