最終章 春を待つ屋敷
雪が、溶け始めた。
ある朝、千歳が中庭へ出ると、梅の木の根元の雪が薄くなっていた。まだ白いが、前の日より確かに少ない。土の端が、ほんの少しだけ覗いていた。
春が来る。
千歳はその土を見て、そう思った。
梅はまだ咲いていた。満開を少し過ぎた花が、それでも枝に残っている。散るのはもう少し先だろう。
千歳はしばらく梅の木の前に立ってから、屋敷へ戻った。
祇王と向き合う日は、その後も続いた。
一度ではなかった。
千歳と朔は、十日に一度ほどの間隔で北の端へ向かった。
毎回、霧は来た。毎回、祇王の声があった。
でも回を重ねるごとに、霧が少しずつ変わってきた。
最初の日よりも薄く、攻撃的な気配が和らいでいく。祇王の声は相変わらず鋭いところがあったが、千歳の言葉を聞く時間が、少しずつ長くなっていった。
千歳はそのたびに、受け取ってきたものを渡した。
雪丸の温もり、志乃の笑い声、紅葉の気遣い、澄江の料理、長老の話、里の子どもたち、梅の花、星の夜。そして朔との時間を。
全部を、指先に集めて、霧の奥へ向けた。
渡せているかどうか、千歳には確信がなかった。でも、渡そうとするたびに、霧が少しだけ変わる気がした。
今日も北の端へ向かうのかと思っていたが、朔が「今日は行かない」と言った。
千歳は少し驚いた。
「なぜですか?」
「今日は、別のことをする」
「別のこと?」
「千歳に見せたいものがある」
朔が千歳を連れていったのは、屋敷から少し離れた場所だった。
北ではなく、東の方向だった。
木々の合間を抜けると、小さな丘に出た。
見晴らしが良かった。
神域全体が、ここから見渡せた。
屋敷の屋根が見え、中庭の梅の木が見え、その向こうに志乃がよく行く場所の木々が見え、さらに北の端まで見えた。
雪は全体的に薄くなっていて、土の色が所々に覗いていた。
でも千歳が息を呑んだのは、景色だけではなかった。
土地の気配が、違った。
以前感じていたものとは、違う。重さはまだある。でも、鋭い痛みのようなものが、薄くなっていた。
「朔様、ここから感じるものが」
「変わっているだろう」
「はい。前より……楽です」
「千歳が来てから、少しずつ変わってきた。今日、ここから見せたかったのは、そのためだ」
千歳は神域を見渡した。
「本当に変わっているのですね」
「俺には分かる。土地の状態が、百年で一番、落ち着いている」
「祇王のことは、まだ終わっていないのに」
「終わっていなくても、変わる。千歳がいるから」
千歳は景色を見たまま、少し黙った。
「朔様が百年間守ってきたから、土台があったのだと思います」
「千歳がいなければ、俺だけではここまでにはならなかった」
「どちらも、です」
「……そうだな」
朔は珍しく、素直に同意した。
千歳は少し驚いて、朔を見た。
朔は神域を見ていた。
その横顔が、今まで見た中で一番、やわらかかった。
丘から降りて、二人は神域を歩いた。
志乃が言っていた案内の話を、今日実行することにした。
志乃はもちろん喜んで先を歩いた。雪丸も今日は連れてきた。
「ここ、わかる?」
志乃が立ち止まったのは、小さな窪みのある場所だった。
「何ですか」
「むかし、川があったところ。土地が乾いて、川がなくなった。でも今日は見て」
千歳は窪みを見た。
底に、わずかに水が光っていた。
「水が……戻っている?」
「うん。少しだけ。でも、戻ってる」
志乃が嬉しそうに言った。
「この土地に、水が戻ってきている」
「ちとせが来てから、少しずつ。においも変わった。かわいた土のにおいじゃなくて、しめった土のにおいがするようになった」
朔が窪みを見た。
「俺には気づけなかった変化だ」
「朔さまは、土地を抑えることに集中してきたから、細かい変化に気づきにくい。志乃は、においで感じるから分かる」
「そうか」
「千歳も、感じる?」
千歳は窪みの傍に屈んで、端の土に指先で触れた。
しっとりしていた。
そして、伝わってくるものが、前と違った。
重さはあるが、固くない。少しやわらかい。眠り続けていたものが、目を覚まし始めているような。
「感じます。前より、やわらかい」
「うん。これからもっと変わる。春になったら、ここに草が生えるかもしれない」
「本当に?」
「志乃には、においで分かる。土が、準備してる」
歩きながら、朔が言った。
「千歳、あの書物に書いてあったことを覚えているか」
「ずいぶん読みましたが、どのことですか」
「ある冬の出来事で、人が来なくなったという記述だ。文字が滲んで読めなかった部分」
「覚えています。何があったのか、気になっていました」
「話す」
「今日、聞かせてもらえるのですか」
「ああ。千歳が知りたがっていたから」
千歳は足を止めずに、朔の言葉を待った。
「あの冬、この神域で大きな争いがあった。土地を巡る争いで、多くのものが傷ついた。祇王もその時に傷を負った。土地の神も、その冬から薄れ始めた」
「書物に書けなかったほどのことがあったのですね」
「書いた者が、書くことを避けたのだと思う。後世に残すには、あまりに重いことだったから」
「それが、この土地の根にある」
「ああ。だから百年経っても、簡単には変わらなかった。でも」
朔はわずかに間を置いた。
「千歳が来てから、変わり始めた」
「朔様が守ってきたからです」
「俺が守ったのは、これ以上悪くならないようにするためだ。変わらせることは、できなかった。変わらせたのは、千歳だ」
「朔様と一緒に、です」
朔はため息をついた。
「千歳は、いつも俺に返す」
「本当のことですから」
「……そうだな」
また、素直な同意だった。
千歳は少し笑った。
朔が変わってきている。
以前は「俺は何もしていない」と言うことが多かったが、最近は「そうだな」と言えるようになってきた。
円形の場所まで来た。
千歳が何度も訪れた場所だった。
石の表面の苔が、最初に来たときよりずっと明るくなっていた。
千歳は石の前に立った。
今日は触れなかった。ただ、見た。
「志乃、ここはどう?」
「においが、ずいぶん変わった。来るたびに変わってる」
「良い方向に?」
「うん。前は、悲しいにおいが強かった。今は、安らかなにおいになってきてる」
「安らかな?」
「眠ってるみたいな。安心して、眠ってるみたいな」
千歳は石を見た。
眠っている。
怒りでも悲しみでもなく、安らかに眠っている。
それは、良いことだと思った。
「朔様」
「なんだ」
「ここはもう少しで、終わりにできるかもしれません」
「そうか」
「祇王のほうは、まだかかります。でもここは、近い気がします」
「千歳の感覚を、俺は信じる」
「ありがとうございます」
「それから」
「はい」
「千歳が初めてここに来たとき、志乃が連れてきて、俺に来るなと言われた場所だ」
「覚えています」
「あの時、千歳が熱を出した」
「はい」
「あの日から、俺は千歳のことを、違う目で見るようになった」
千歳は少し驚いた。
「あの日から、ですか」
「ああ。それまでは、神域に必要な力を持つ花嫁、という見方をしていた。でもあの日、千歳が倒れかけているのを見て、それだけではないと思った」
「それだけではない、とは」
「千歳が心配だと思った。力の器としてではなく、千歳という人間が心配だと」
千歳は朔を見た。
「……あの日から」
「ああ。遅かったかもしれないが」
「遅くないです」
「そうか」
「ここで倒れかけて、朔様に支えてもらって。あの日の感触が、まだあります」
「俺も、ある」
朔は石を見た。
「千歳が触れた石が変わったのを見て、この花嫁は特別だと思った。だがそれは力のことではなく、千歳が石の中のものと向き合おうとしていたことへの、驚きだった」
「向き合おうとしていたことに、驚いたのですか」
「俺には、百年間できなかったことを、千歳は来てすぐにしようとしていた」
「でも倒れましたよ」
「それでもしようとしていた。そういう人間だと知った」
千歳はその言葉を、冷静に受け取った。
そういう人間。
それが朔の目に見えていた。
帰り道、雪丸が千歳の足元をついて歩きながら言った。
「きょう、さくとちとせ、たくさんはなした」
「そうですね」
「さくが、たくさんはなしてた。めずらしい」
「朔様は最近、よく話してくださいます」
「ちとせがくるまで、さく、あんまりはなさなかった。みんなと、ひつようなことだけ」
「そうだったのですか」
「うん。でも、ちとせとは、ひつようじゃないことも、はなす」
「必要じゃないことも」
「梅のこととか、ほしのこととか、むかしのこととか。ひつようじゃないけど、はなしてる」
千歳は少し考えた。
必要じゃないことを、話す。
それは確かに、変化だった。
「雪丸、それを教えてくれてありがとう」
「ぼく、ちとせにしってほしくて」
「どうして?」
「さくが、ちとせのためにかわってるって、ちとせにしってほしいから」
千歳は雪丸を見た。
「知っています」
「ほんとに?」
「はい。毎日、少しずつ分かっています」
雪丸はしっぽをいっぱいに振った。
「よかった。ぼく、うれしい」
夕餉の席は、今日も賑やかだった。
志乃が川に水が戻ってきたことを興奮気味に話した。雪丸が今日の散歩の話をした。紅葉が春になったら屋敷の障子を張り替えたいと言った。澄江が春の食材が楽しみだと言った。
朔は黙っていたが、今夜は箸がよく動いていた。
千歳はそれを横目で見ながら、温かい気持ちになった。
食卓に人がいて、話があって、料理がある。
それだけのことが、今の千歳には何より大切だった。
「千歳様」
紅葉が言った。
「はい」
「春になったら、里の方々をまた招きたいと思っています。例の子どもさんも来られるかもしれません」
「あの子、元気になりましたか」
「先日、使いの者から連絡がありました。食が戻って、顔色が良くなってきたそうです」
「本当ですか」
「はい。千歳様のおかげだと、ご両親が感謝されていました」
千歳は少し目が潤んだ。
「良かった……」
「千歳様が触れてくださったからですよ」
「志乃が言っていたとおりでした」
「志乃の感覚は、当たりますから」
志乃が胸を張った。
「志乃は、においでわかる」
「はいはい」
紅葉が苦笑した。
朔が、穏やかな声で言った。
「春に招くなら、準備が要る」
「はい。朔様には詳細をご相談しながら」
「千歳も一緒に考えるか」
千歳は少し驚いた。
「はい、ぜひ」
「前回は千歳が場を整えてくれた。今度も、そうしてもらえると助かる」
「もちろんです」
朔は椀を手に取った。
それだけだったが、千歳には十分だった。
一緒に準備する。一緒に考える。
それが今の二人だった。
夜、千歳は部屋で刺繍をしていた。
雪の刺繍が、だいぶ進んでいた。
白い糸と薄い青の糸で雪を表して、金の糸で光を入れた。なかなかうまくいかないところもあるが、この神域の景色に少しずつ近づいている気がした。
廊下で足音がした。
止まった。
「千歳」
「はい」
「入っていいか」
「どうぞ」
朔が入ってきた。
千歳の前に座った。
刺繍を見た。
「進んでいるな」
「はい。でもまだかかります」
「金の糸が入った」
「雪の光のために」
「……いい」
「ありがとうございます」
朔は少し刺繍を見てから、千歳を見た。
「今日、神域を歩いて、どうだった」
「土地の変化を、目で見られて良かったです。感じることはできていたのですが、こうして朔様に見せてもらうと、本当に変わっているのだと分かりました」
「実感が持てたか」
「はい」
「それは良かった。千歳がしてきたことは、確かに土地に残っている」
「朔様がしてきたことも」
「……そうだな」
また素直な同意だった。
千歳は刺繍の針を置いた。
「朔様」
「なんだ」
「今日、あの円形の場所で、朔様が言ってくださいましたよね。千歳が来てから違う目で見るようになったと」
「ああ」
「わたしも、朔様を違う目で見るようになった日があります」
「いつだ」
「昨夜のことがあって、熱を出したとき。朔様が部屋に来てくださって、何も言わずに傍にいてくださって」
「あの夜か」
「はい。あの夜、朔様がいてくださることで、体の中の不安が小さくなりました。それから、この人は冷たくはない、と思いました」
「冷たいと思っていたのか」
「最初は、少し」
「そうか」
「でも違いました」
「……俺は、表に出すのが得意ではない」
「知っています。行動で分かるから、大丈夫です」
朔は千歳を見た。
「千歳は、それでいいのか」
「はい。朔様の言葉も嬉しいですし、行動も嬉しいですし、どちらも朔様だから、全部嬉しいです」
朔は少しの間、黙った。
「……困ったやつだ」
「また困らせましたか」
「いつも困らせる」
「すみません」
「謝るな」
「では、どうすれば」
「……そのままでいい」
千歳は少し笑った。
そのままでいい。
それが今の朔の言い方で、精一杯の言い方で、でも千歳には十分すぎた。
「朔様」
「なんだ」
「春になったら、一緒に星を見ませんか。志乃が言っていた、あの南の端の場所で」
「朔様が昔よく行っていた場所です」
「……紅葉が言ったのか」
「志乃が教えてくれました」
「あの精霊は余計なことを」
「でも、行ってみたいと思って」
朔は少し黙った。
「……行くか」
「本当ですか」
「行く。春になったら」
「楽しみにしています」
「千歳が楽しみにするなら、行く意味がある」
千歳は、その言葉を受け取った。
ゆっくりと、確かめながら。
千歳が楽しみにするなら、行く意味がある。
それは。
「朔様、それは」
「何だ」
「わたしがいることで、意味があると言ってくださっているのですか」
「……そういうことだ」
「それは、昨日の告白より、もしかしたら嬉しいかもしれません」
「なぜ」
「大きな言葉ではなくて、日常の中に、ふっと入ってきたから」
朔は黙った。
「朔様のそういうところが、好きです」
またぽろりと出た。
朔の耳が、赤くなった。
「……急に言うな」
「すみません。でも本当のことです」
「……知っている」
「知っていてくれているのですか」
「……うるさい」
今夜の「うるさい」は、今まで一番赤い耳と一緒だった。
千歳は笑った。
少し経ってから、千歳は刺繍の針を置いた。
「今夜は、ここにいてくださいますか」
「……聞くまでもない」
「聞かなくてもいいのですか」
「聞かなくていい」
千歳は布団に入った。
行灯の火が、静かに揺れていた。
雪丸が足元に来た。
「ちとせ、きょうたのしかった?」
「とても」
「さくも、たのしかったとおもう」
「そうですか」
「においが、やわらかかった。一日じゅう」
「それは嬉しいです」
「ぼくも、うれしかった。みんないっしょにあるいて」
「また行きましょう。春になったら、もっと遠くまで行けるかもしれない」
「ほんと?」
「本当です」
雪丸はしっぽを振って、目を閉じた。
千歳は行灯の火を見た。
揺れていた。
消えない。
この神域に来てから、千歳は何度もこの火を見てきた。
揺れても消えないこの火を、これからも見ていく。
朔が口を開いた。
「千歳」
「はい」
「今日、神域を歩いていて、思ったことがある」
「何ですか」
「春が来ると思った。本当に来ると思った」
「はい。来ますね」
「百年間、春が来ないと思ったことはなかった。季節は必ず巡るから。でも」
「でも?」
「今年の春は、違う気がする」
「どう違うのですか」
朔は少し間を置いた。
「千歳と、春を迎える」
千歳は目を閉じた。
千歳と、春を迎える。
それが朔にとって、初めてのことだと分かった。
百年間、一人で春を迎えてきた人が、今年は千歳と迎える。
「朔様」
「なんだ」
「わたしも、楽しみにしています。朔様と、春を迎えることが」
「そうか」
「はい」
「……俺も、楽しみにしている」
穏やかな言い方だった。
でも千歳には、その言葉の重さが分かった。
楽しみにしている、と言える相手ができた。
それが朔にとって、どういうことか。
千歳は目を閉じたまま、その言葉を胸の中に置いた。
外では、雪が溶けていた。
少しずつ、少しずつ。
土が、露わになっていく。
この神域の土地が、長い冬の下から顔を出し始めていた。
祇王の根は、まだある。
でも、確かに薄くなっている。
円形の場所のかけらは、安らかに眠り始めている。
土地に水が戻り始めている。
里の子どもが、食が戻ってきている。
梅が咲いて、散りかけている。
全部が、動いている。
千歳はそれを感じながら、目を閉じていた。
消えようと思っていた千歳が、ここに根を張った。この土地を、ここにいるものを、朔を、大切に思うようになった。
鎮めの花は、消すのではなく、静かにすることだと分かった。
傷を持ちながら、でもここにいる。
根を張って、花を咲かせる。
それが今の千歳だった。
朔が、穏やかな声で話しかけた。
「千歳、眠れるか」
「はい、眠れます」
「そうか」
「朔様は?」
「……俺は、もう少しここにいる」
「はい」
「眠れ」
「はい。おやすみなさい、朔様」
少しの間があった。
「……おやすみ、千歳」
千歳は、その言葉を聞いた。
おやすみ、と言ってもらった。
それだけのことだが、今の千歳には、それが今夜一番温かいことだった。
おやすみ、と言ってくれる人がいる。
ここにいる人がいる。
待っていてくれる人がいる。
目を覚ましたとき、いる人がいる。
千歳は眠りに落ちていった。
朔の気配が、傍にあった。
雪丸の温もりが、足元にあった。
外では、雪が溶けていた。
土が、顔を出していた。
春が来る。
この神域に、長い冬の後の春が来る。
千歳と一緒に、朔がそれを迎える。
そしてまた、梅が咲く。
今年より少し、早く。
この土地が、少し楽になったから。
(了)




