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あやかし嫁入り帖――捨てられ姫は、辺境の白狼神に溺愛される  作者: 明石竜


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20/20

最終章 春を待つ屋敷

 雪が、溶け始めた。

 ある朝、千歳が中庭へ出ると、梅の木の根元の雪が薄くなっていた。まだ白いが、前の日より確かに少ない。土の端が、ほんの少しだけ覗いていた。

 春が来る。

 千歳はその土を見て、そう思った。

 梅はまだ咲いていた。満開を少し過ぎた花が、それでも枝に残っている。散るのはもう少し先だろう。

 千歳はしばらく梅の木の前に立ってから、屋敷へ戻った。


 祇王と向き合う日は、その後も続いた。

 一度ではなかった。

 千歳と朔は、十日に一度ほどの間隔で北の端へ向かった。

 毎回、霧は来た。毎回、祇王の声があった。

 でも回を重ねるごとに、霧が少しずつ変わってきた。

 最初の日よりも薄く、攻撃的な気配が和らいでいく。祇王の声は相変わらず鋭いところがあったが、千歳の言葉を聞く時間が、少しずつ長くなっていった。

 千歳はそのたびに、受け取ってきたものを渡した。

 雪丸の温もり、志乃の笑い声、紅葉の気遣い、澄江の料理、長老の話、里の子どもたち、梅の花、星の夜。そして朔との時間を。

 全部を、指先に集めて、霧の奥へ向けた。

 渡せているかどうか、千歳には確信がなかった。でも、渡そうとするたびに、霧が少しだけ変わる気がした。


 今日も北の端へ向かうのかと思っていたが、朔が「今日は行かない」と言った。

 千歳は少し驚いた。

「なぜですか?」

「今日は、別のことをする」

「別のこと?」

「千歳に見せたいものがある」


 朔が千歳を連れていったのは、屋敷から少し離れた場所だった。

 北ではなく、東の方向だった。

 木々の合間を抜けると、小さな丘に出た。

 見晴らしが良かった。

 神域全体が、ここから見渡せた。

 屋敷の屋根が見え、中庭の梅の木が見え、その向こうに志乃がよく行く場所の木々が見え、さらに北の端まで見えた。

 雪は全体的に薄くなっていて、土の色が所々に覗いていた。

 でも千歳が息を呑んだのは、景色だけではなかった。

 土地の気配が、違った。

 以前感じていたものとは、違う。重さはまだある。でも、鋭い痛みのようなものが、薄くなっていた。

「朔様、ここから感じるものが」

「変わっているだろう」

「はい。前より……楽です」

「千歳が来てから、少しずつ変わってきた。今日、ここから見せたかったのは、そのためだ」

 千歳は神域を見渡した。

「本当に変わっているのですね」

「俺には分かる。土地の状態が、百年で一番、落ち着いている」

「祇王のことは、まだ終わっていないのに」

「終わっていなくても、変わる。千歳がいるから」

 千歳は景色を見たまま、少し黙った。

「朔様が百年間守ってきたから、土台があったのだと思います」

「千歳がいなければ、俺だけではここまでにはならなかった」

「どちらも、です」

「……そうだな」

 朔は珍しく、素直に同意した。

 千歳は少し驚いて、朔を見た。

 朔は神域を見ていた。

 その横顔が、今まで見た中で一番、やわらかかった。


 丘から降りて、二人は神域を歩いた。

 志乃が言っていた案内の話を、今日実行することにした。

 志乃はもちろん喜んで先を歩いた。雪丸も今日は連れてきた。

「ここ、わかる?」

 志乃が立ち止まったのは、小さな窪みのある場所だった。

「何ですか」

「むかし、川があったところ。土地が乾いて、川がなくなった。でも今日は見て」

 千歳は窪みを見た。

 底に、わずかに水が光っていた。

「水が……戻っている?」

「うん。少しだけ。でも、戻ってる」

 志乃が嬉しそうに言った。

「この土地に、水が戻ってきている」

「ちとせが来てから、少しずつ。においも変わった。かわいた土のにおいじゃなくて、しめった土のにおいがするようになった」

 朔が窪みを見た。

「俺には気づけなかった変化だ」

「朔さまは、土地を抑えることに集中してきたから、細かい変化に気づきにくい。志乃は、においで感じるから分かる」

「そうか」

「千歳も、感じる?」

 千歳は窪みの傍に屈んで、端の土に指先で触れた。

 しっとりしていた。

 そして、伝わってくるものが、前と違った。

 重さはあるが、固くない。少しやわらかい。眠り続けていたものが、目を覚まし始めているような。

「感じます。前より、やわらかい」

「うん。これからもっと変わる。春になったら、ここに草が生えるかもしれない」

「本当に?」

「志乃には、においで分かる。土が、準備してる」


 歩きながら、朔が言った。

「千歳、あの書物に書いてあったことを覚えているか」

「ずいぶん読みましたが、どのことですか」

「ある冬の出来事で、人が来なくなったという記述だ。文字が滲んで読めなかった部分」

「覚えています。何があったのか、気になっていました」

「話す」

「今日、聞かせてもらえるのですか」

「ああ。千歳が知りたがっていたから」

 千歳は足を止めずに、朔の言葉を待った。

「あの冬、この神域で大きな争いがあった。土地を巡る争いで、多くのものが傷ついた。祇王もその時に傷を負った。土地の神も、その冬から薄れ始めた」

「書物に書けなかったほどのことがあったのですね」

「書いた者が、書くことを避けたのだと思う。後世に残すには、あまりに重いことだったから」

「それが、この土地の根にある」

「ああ。だから百年経っても、簡単には変わらなかった。でも」

 朔はわずかに間を置いた。

「千歳が来てから、変わり始めた」

「朔様が守ってきたからです」

「俺が守ったのは、これ以上悪くならないようにするためだ。変わらせることは、できなかった。変わらせたのは、千歳だ」

「朔様と一緒に、です」

 朔はため息をついた。

「千歳は、いつも俺に返す」

「本当のことですから」

「……そうだな」

 また、素直な同意だった。

 千歳は少し笑った。

 朔が変わってきている。

 以前は「俺は何もしていない」と言うことが多かったが、最近は「そうだな」と言えるようになってきた。


 円形の場所まで来た。

 千歳が何度も訪れた場所だった。

 石の表面の苔が、最初に来たときよりずっと明るくなっていた。

 千歳は石の前に立った。

 今日は触れなかった。ただ、見た。

「志乃、ここはどう?」

「においが、ずいぶん変わった。来るたびに変わってる」

「良い方向に?」

「うん。前は、悲しいにおいが強かった。今は、安らかなにおいになってきてる」

「安らかな?」

「眠ってるみたいな。安心して、眠ってるみたいな」

 千歳は石を見た。

 眠っている。

 怒りでも悲しみでもなく、安らかに眠っている。

 それは、良いことだと思った。

「朔様」

「なんだ」

「ここはもう少しで、終わりにできるかもしれません」

「そうか」

「祇王のほうは、まだかかります。でもここは、近い気がします」

「千歳の感覚を、俺は信じる」

「ありがとうございます」

「それから」

「はい」

「千歳が初めてここに来たとき、志乃が連れてきて、俺に来るなと言われた場所だ」

「覚えています」

「あの時、千歳が熱を出した」

「はい」

「あの日から、俺は千歳のことを、違う目で見るようになった」

 千歳は少し驚いた。

「あの日から、ですか」

「ああ。それまでは、神域に必要な力を持つ花嫁、という見方をしていた。でもあの日、千歳が倒れかけているのを見て、それだけではないと思った」

「それだけではない、とは」

「千歳が心配だと思った。力の器としてではなく、千歳という人間が心配だと」

 千歳は朔を見た。

「……あの日から」

「ああ。遅かったかもしれないが」

「遅くないです」

「そうか」

「ここで倒れかけて、朔様に支えてもらって。あの日の感触が、まだあります」

「俺も、ある」

 朔は石を見た。

「千歳が触れた石が変わったのを見て、この花嫁は特別だと思った。だがそれは力のことではなく、千歳が石の中のものと向き合おうとしていたことへの、驚きだった」

「向き合おうとしていたことに、驚いたのですか」

「俺には、百年間できなかったことを、千歳は来てすぐにしようとしていた」

「でも倒れましたよ」

「それでもしようとしていた。そういう人間だと知った」

 千歳はその言葉を、冷静に受け取った。

 そういう人間。

 それが朔の目に見えていた。


 帰り道、雪丸が千歳の足元をついて歩きながら言った。

「きょう、さくとちとせ、たくさんはなした」

「そうですね」

「さくが、たくさんはなしてた。めずらしい」

「朔様は最近、よく話してくださいます」

「ちとせがくるまで、さく、あんまりはなさなかった。みんなと、ひつようなことだけ」

「そうだったのですか」

「うん。でも、ちとせとは、ひつようじゃないことも、はなす」

「必要じゃないことも」

「梅のこととか、ほしのこととか、むかしのこととか。ひつようじゃないけど、はなしてる」

 千歳は少し考えた。

 必要じゃないことを、話す。

 それは確かに、変化だった。

「雪丸、それを教えてくれてありがとう」

「ぼく、ちとせにしってほしくて」

「どうして?」

「さくが、ちとせのためにかわってるって、ちとせにしってほしいから」

 千歳は雪丸を見た。

「知っています」

「ほんとに?」

「はい。毎日、少しずつ分かっています」

 雪丸はしっぽをいっぱいに振った。

「よかった。ぼく、うれしい」


 夕餉の席は、今日も賑やかだった。

 志乃が川に水が戻ってきたことを興奮気味に話した。雪丸が今日の散歩の話をした。紅葉が春になったら屋敷の障子を張り替えたいと言った。澄江が春の食材が楽しみだと言った。

 朔は黙っていたが、今夜は箸がよく動いていた。

 千歳はそれを横目で見ながら、温かい気持ちになった。

 食卓に人がいて、話があって、料理がある。

 それだけのことが、今の千歳には何より大切だった。

「千歳様」

 紅葉が言った。

「はい」

「春になったら、里の方々をまた招きたいと思っています。例の子どもさんも来られるかもしれません」

「あの子、元気になりましたか」

「先日、使いの者から連絡がありました。食が戻って、顔色が良くなってきたそうです」

「本当ですか」

「はい。千歳様のおかげだと、ご両親が感謝されていました」

 千歳は少し目が潤んだ。

「良かった……」

「千歳様が触れてくださったからですよ」

「志乃が言っていたとおりでした」

「志乃の感覚は、当たりますから」

 志乃が胸を張った。

「志乃は、においでわかる」

「はいはい」

 紅葉が苦笑した。

 朔が、穏やかな声で言った。

「春に招くなら、準備が要る」

「はい。朔様には詳細をご相談しながら」

「千歳も一緒に考えるか」

 千歳は少し驚いた。

「はい、ぜひ」

「前回は千歳が場を整えてくれた。今度も、そうしてもらえると助かる」

「もちろんです」

 朔は椀を手に取った。

 それだけだったが、千歳には十分だった。

 一緒に準備する。一緒に考える。

 それが今の二人だった。


 夜、千歳は部屋で刺繍をしていた。

 雪の刺繍が、だいぶ進んでいた。

 白い糸と薄い青の糸で雪を表して、金の糸で光を入れた。なかなかうまくいかないところもあるが、この神域の景色に少しずつ近づいている気がした。

 廊下で足音がした。

 止まった。

「千歳」

「はい」

「入っていいか」

「どうぞ」

 朔が入ってきた。

 千歳の前に座った。

 刺繍を見た。

「進んでいるな」

「はい。でもまだかかります」

「金の糸が入った」

「雪の光のために」

「……いい」

「ありがとうございます」

 朔は少し刺繍を見てから、千歳を見た。

「今日、神域を歩いて、どうだった」

「土地の変化を、目で見られて良かったです。感じることはできていたのですが、こうして朔様に見せてもらうと、本当に変わっているのだと分かりました」

「実感が持てたか」

「はい」

「それは良かった。千歳がしてきたことは、確かに土地に残っている」

「朔様がしてきたことも」

「……そうだな」

 また素直な同意だった。

 千歳は刺繍の針を置いた。

「朔様」

「なんだ」

「今日、あの円形の場所で、朔様が言ってくださいましたよね。千歳が来てから違う目で見るようになったと」

「ああ」

「わたしも、朔様を違う目で見るようになった日があります」

「いつだ」

「昨夜のことがあって、熱を出したとき。朔様が部屋に来てくださって、何も言わずに傍にいてくださって」

「あの夜か」

「はい。あの夜、朔様がいてくださることで、体の中の不安が小さくなりました。それから、この人は冷たくはない、と思いました」

「冷たいと思っていたのか」

「最初は、少し」

「そうか」

「でも違いました」

「……俺は、表に出すのが得意ではない」

「知っています。行動で分かるから、大丈夫です」

 朔は千歳を見た。

「千歳は、それでいいのか」

「はい。朔様の言葉も嬉しいですし、行動も嬉しいですし、どちらも朔様だから、全部嬉しいです」

 朔は少しの間、黙った。

「……困ったやつだ」

「また困らせましたか」

「いつも困らせる」

「すみません」

「謝るな」

「では、どうすれば」

「……そのままでいい」

 千歳は少し笑った。

 そのままでいい。

 それが今の朔の言い方で、精一杯の言い方で、でも千歳には十分すぎた。

「朔様」

「なんだ」

「春になったら、一緒に星を見ませんか。志乃が言っていた、あの南の端の場所で」

「朔様が昔よく行っていた場所です」

「……紅葉が言ったのか」

「志乃が教えてくれました」

「あの精霊は余計なことを」

「でも、行ってみたいと思って」

 朔は少し黙った。

「……行くか」

「本当ですか」

「行く。春になったら」

「楽しみにしています」

「千歳が楽しみにするなら、行く意味がある」

 千歳は、その言葉を受け取った。

 ゆっくりと、確かめながら。

 千歳が楽しみにするなら、行く意味がある。

 それは。

「朔様、それは」

「何だ」

「わたしがいることで、意味があると言ってくださっているのですか」

「……そういうことだ」

「それは、昨日の告白より、もしかしたら嬉しいかもしれません」

「なぜ」

「大きな言葉ではなくて、日常の中に、ふっと入ってきたから」

 朔は黙った。

「朔様のそういうところが、好きです」

 またぽろりと出た。

 朔の耳が、赤くなった。

「……急に言うな」

「すみません。でも本当のことです」

「……知っている」

「知っていてくれているのですか」

「……うるさい」

 今夜の「うるさい」は、今まで一番赤い耳と一緒だった。

 千歳は笑った。


 少し経ってから、千歳は刺繍の針を置いた。

「今夜は、ここにいてくださいますか」

「……聞くまでもない」

「聞かなくてもいいのですか」

「聞かなくていい」

 千歳は布団に入った。

 行灯の火が、静かに揺れていた。

 雪丸が足元に来た。

「ちとせ、きょうたのしかった?」

「とても」

「さくも、たのしかったとおもう」

「そうですか」

「においが、やわらかかった。一日じゅう」

「それは嬉しいです」

「ぼくも、うれしかった。みんないっしょにあるいて」

「また行きましょう。春になったら、もっと遠くまで行けるかもしれない」

「ほんと?」

「本当です」

 雪丸はしっぽを振って、目を閉じた。

 千歳は行灯の火を見た。

 揺れていた。

 消えない。

 この神域に来てから、千歳は何度もこの火を見てきた。

 揺れても消えないこの火を、これからも見ていく。


 朔が口を開いた。

「千歳」

「はい」

「今日、神域を歩いていて、思ったことがある」

「何ですか」

「春が来ると思った。本当に来ると思った」

「はい。来ますね」

「百年間、春が来ないと思ったことはなかった。季節は必ず巡るから。でも」

「でも?」

「今年の春は、違う気がする」

「どう違うのですか」

 朔は少し間を置いた。

「千歳と、春を迎える」

 千歳は目を閉じた。

 千歳と、春を迎える。

 それが朔にとって、初めてのことだと分かった。

 百年間、一人で春を迎えてきた人が、今年は千歳と迎える。

「朔様」

「なんだ」

「わたしも、楽しみにしています。朔様と、春を迎えることが」

「そうか」

「はい」

「……俺も、楽しみにしている」

 穏やかな言い方だった。

 でも千歳には、その言葉の重さが分かった。

 楽しみにしている、と言える相手ができた。

 それが朔にとって、どういうことか。

 千歳は目を閉じたまま、その言葉を胸の中に置いた。


 外では、雪が溶けていた。

 少しずつ、少しずつ。

 土が、露わになっていく。

 この神域の土地が、長い冬の下から顔を出し始めていた。

 祇王の根は、まだある。

 でも、確かに薄くなっている。

 円形の場所のかけらは、安らかに眠り始めている。

 土地に水が戻り始めている。

 里の子どもが、食が戻ってきている。

 梅が咲いて、散りかけている。

 全部が、動いている。

 千歳はそれを感じながら、目を閉じていた。

 消えようと思っていた千歳が、ここに根を張った。この土地を、ここにいるものを、朔を、大切に思うようになった。

 鎮めの花は、消すのではなく、静かにすることだと分かった。

 傷を持ちながら、でもここにいる。

 根を張って、花を咲かせる。

 それが今の千歳だった。


 朔が、穏やかな声で話しかけた。

「千歳、眠れるか」

「はい、眠れます」

「そうか」

「朔様は?」

「……俺は、もう少しここにいる」

「はい」

「眠れ」

「はい。おやすみなさい、朔様」

 少しの間があった。

「……おやすみ、千歳」

 千歳は、その言葉を聞いた。

 おやすみ、と言ってもらった。

 それだけのことだが、今の千歳には、それが今夜一番温かいことだった。

 おやすみ、と言ってくれる人がいる。

 ここにいる人がいる。

 待っていてくれる人がいる。

 目を覚ましたとき、いる人がいる。

 千歳は眠りに落ちていった。

 朔の気配が、傍にあった。

 雪丸の温もりが、足元にあった。

 外では、雪が溶けていた。

 土が、顔を出していた。

 春が来る。

 この神域に、長い冬の後の春が来る。

 千歳と一緒に、朔がそれを迎える。

 そしてまた、梅が咲く。

 今年より少し、早く。

 この土地が、少し楽になったから。

(了)


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