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蟲帝の伝説

名前をもらってから、日々が加速した。

 ガゼンの蟲音教育は容赦がなかった。朝起きたら蟲音。飯を食いながら蟲音。偵察から戻ったら蟲音。日が暮れるまで、ひたすら「言葉」を叩き込まれる。

 ガゼンの教え方には一切の甘さがない。

 一度聞かせた音を正確に再現できなければ、短く鋭い蟲音で訂正される。何度間違えてもやり直し。できるまで終わらへん。幼虫の体から出せる音には限界があるんやけど、ガゼンはそんな言い訳を許さん。限界の中で、一番近い音を出せるまでやらされる。

 「甘い」

 これがガゼンの口癖――いや、蟲音癖やった。ワイが妥協した音を出すと、必ずこの一音が返ってくる。低くて短い、叱責の音。

 正直、めちゃくちゃしんどかった。

 でも、不思議と嫌やなかった。

 ガゼンが厳しいのは、ワイに期待しとるからや。そんなことは幼虫のワイでも分かった。期待してへんかったら、そもそも教えへん。放っておく。ワイの群れの幼虫たちみたいに、黙って見過ごす。

 ガゼンはワイを見過ごさんかった。

 だから、ワイも食らいつく。

 ルリハはルリハで、ガゼンの蟲音を光のパターンに翻訳する作業を黙々と続けとった。あいつの翅は精密な光の信号機みたいなもんで、蟲音の一つ一つに対応する点滅パターンを割り当てていっとる。

 三匹の間に、急速に「言語」が形成されていく。

 名前をもらって五日目には、簡単な会話が成立するようになっとった。

    * * *

 その夜、ガゼンが語った。

 窪地の中で三匹が体を寄せ合い、ルリハの翅の光が淡く闇を照らす中、ガゼンはゆっくりと蟲音を紡ぎ始めた。

 普段の教育とは違う。もっとゆったりとした、抑揚の深い音。語り部の調子。

 ワイの蟲音の語彙はまだ少ないから、ガゼンの語りの全部は分からん。でも、断片的に拾える「言葉」を繋ぎ合わせると、こういう話やった。

 ――昔。とても昔。蟲族は弱くなかった。

 最初の一音で、ワイの体が固まった。

 蟲族が弱くない? G級。大陸最弱。一般人にも踏み潰される存在。それが弱くなかった時代があるって?

 ガゼンの蟲音が続く。

 ――蟲族は考えとった。言葉を持っとった。巣を作り、群れをまとめ、他の種族と並ぶ力があった。

 ワイは自分の耳を疑った。いや、蟲に耳はないけど。

 蟲族が、考えとった。言葉を持っとった。今のワイらみたいに。

 ――蟲族を率いる者がおった。蟲帝と呼ばれた。

 蟲帝。

 ちゅうてい。

 ガゼンがその音を発した時、空気が変わった気がした。ガゼンの蟲音にいつもの重みとは別の、もっと深い感情が乗っとった。畏敬。憧憬。そして、悲しみ。

 ――蟲帝は強かった。蟲族の王。すべての蟲を束ね、他の種族と対等に渡り合った。

 ワイの頭の中に、途方もない映像が浮かんだ。

 考える蟲族が群れをなし、一匹の王に率いられて、人間や魔族や竜族と肩を並べている光景。今のワイからは想像もつかへん世界。

 ――でも、負けた。

 ガゼンの蟲音が、一瞬途切れた。

 沈黙。

 ルリハの翅が微かに明滅しとる。あいつもガゼンの語りを聞いとるんや。

 ガゼンが続けた。声が、一段重くなっとった。

 ――大きな戦いで負けた。蟲族は罰を受けた。考える力を奪われた。

 ……考える力を、奪われた?

 ワイは意味を理解するのに時間がかかった。考える力を奪われる。つまり、今の蟲族が「考えへん」のは、元からそうやったんやなくて、誰かに奪われた結果やということか。

 群れの幼虫たちが、鳥のパターンを覚えへんのも。蜥蜴の死角を学ばんのも。食われた仲間を一秒で忘れるのも。

 全部、元からそうやったんやない。

 奪われたんや。

 背筋が冷たくなった。怒りとも悲しみともつかん感情が、腹の底からこみ上げてくる。

 ――儂の中に、その時代の欠片がある。

 ガゼンは自分の甲殻を鋏腕で叩いた。乾いた音。

 ――代々の蟲音に刻まれた記憶の断片。全部は分からん。でも、蟲族がかつて今のように弱くはなかったということ。蟲帝がおったということ。そして、すべての答えがある場所があるということ。

 ガゼンの蟲音が、最後に一つの音を刻んだ。

 ちゅうえん。

 蟲淵。

 ――蟲淵に行けば、すべてが分かる。儂はそう信じておる。

 ガゼンの語りが終わった。

 窪地が静寂に包まれた。ルリハの翅の光だけが、ぼんやりと三匹を照らしとる。

 ワイはしばらく、何も言えんかった。

 蟲帝。蟲淵。奪われた知性。

 今のワイには、その話のどこまでが本当でどこからが伝説なのか判断がつかへん。ガゼンの記憶かて、代々伝わるうちに歪んどるかもしれん。

 でも、一つだけ確かなことがある。

 ワイが「考えられる」のは、偶然やない。

 ルリハが「考えられる」のも、ガゼンが「考えられる」のも、偶然やない。

 蟲族は元々、考える種族やった。ワイらはその名残。消しきれなかった火種。

 なら。

 ワイらは、取り戻せるんちゃうか。

 奪われたもんを。

 その考えが浮かんだ瞬間、体の奥でどくん、と何かが脈打った。

    * * *

 翌朝。

 ワイの体に、変化が起きとった。

 最初に気づいたのはルリハやった。朝、ワイが窪地の隅で寝ぼけとる時に、ルリハが翅を赤紫に光らせた。警戒色。でもワイに対してやなくて、ワイの「頭」に対して。

 ワイは自分の頭の突起に意識を集中した。

 ……でかくなっとる。

 米粒大やった突起が、明らかに一回り大きくなっとる。形も変わった。丸かった先端が、僅かに尖り始めとる。

 角。

 角が、育っとる。

 触れてみると、硬い。昨日までの突起とは明らかに質が違う。体表の柔らかい皮膚とは異なる、硬質な何かが形成され始めとる。

 ガゼンもそれに気づいとった。

 ワイの頭を覗き込んで、鋏腕でそっと角の芽に触れる。あの命名の時と同じ、信じられんくらい繊細な力加減で。

 ガゼンが蟲音を発した。

 「変わる」「育つ」

 そして、もう一つ。

 ワイがまだ教わっとらん音。でも、昨夜の語りの中で聞いた音。

 「強い」「変わる」……「進化」

 進化。

 ガゼンがワイを見る目が、いつもと違った。

 あの半分潰れた複眼の奥に、昨夜の語りの時と同じ光が宿っとる。畏敬と期待が入り混じったような。

 ワイは自分の体を見下ろした。

 乳白色の柔らかい体。ちっぽけな幼虫。

 でも、頭の突起だけが変わり始めとる。硬く、尖り始めとる。

 そして、体表の静電気。

 ここ数日、明らかに強くなっとる。以前はたまにぴりっと走る程度やったのが、今は常にびりびりと微弱な電気が体を覆っとる。ルリハの光糸に触れると、糸が微かに帯電して光が強くなるくらいの量。

 変わり始めとる。

 ワイの体が、何かに向かって変わり始めとる。

 ――蟲帝の話を聞いたから?

 それとも、ルリハやガゼンと出会って、魔素の摂取量が変わったから?

 あるいは、その両方?

 分からん。でも、体の奥底で何かが動いとる。蓄積されとる。閾値に向かって、少しずつ。

 ガゼンが、低い蟲音でワイに告げた。

 短く。はっきりと。

 「見せてみろ」

 何を、とは言わんかった。

 でもワイには分かった。

 お前の中で何が起きとるのか。お前が何に変わろうとしとるのか。それを、見せてみろ。

 ワイは頷いた――蟲に首はないけど、体全体を前に傾けて、「分かった」の意を示した。

 見せたる。

 ワイが何者なのか。

 何に変われるのか。

 まだ分からんけど、分からんなりに、前に進む。

 頭の角の芽が、朝日を受けて微かに光った気がした。

次回「第8話:森の王」

――グロウの体に起きた変化は加速する。そして、朽葉の森の支配者が目を覚ます。

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