鉄の蠍
蠍は動かへんかった。
窪地の中に降りてきて、そのまま地面にどっしりと腰を据えた。八本の太い脚が大地に食い込み、尾を低く下げて、戦闘の意志がないことを示しとる――ように見えた。
いや、「示しとる」も何も、こんなでかい蠍の行動パターンなんかワイは知らん。鳥と蜥蜴と蜘蛛は観察したけど、D級クラスのモンスターを観察する機会なんかあるわけがない。今まで出会ったら即死やったんやから。
でも、殺されてへん。
あの巨体が本気で踏み込んだら、ワイなんか一歩で潰れる。鋏で挟まれたら体が千切れる。毒針を刺されたらそれまでや。
それをせん。
ワイを見下ろして、じっとしとる。
錆びた鉄みたいな赤茶けた甲殻。ひび割れだらけの体表。右の鋏腕の大きな古傷。左の複眼が半分潰れとる。
古い。この蠍は、ものすごく古い。
どれくらい生きとるのか見当もつかへんけど、体中に刻まれた傷跡の数と深さが、途方もない時間を語っとる。
瑠璃色の蟲の翅が、穏やかな瑠璃色のまま光り続けとる。安心の色。
あいつは、この蠍を知っとるんか?
蠍がまた蟲音を出した。
低くて重い、地響きのような音。でも今度は、さっきより長い。抑揚がある。まるで――文章を読んどるみたいに、一定のリズムで音が連なっとる。
ワイの蟲音とは次元が違う。ワイのきぃきぃ音が片言の赤ちゃん言葉やとしたら、こいつの蟲音は老人の語りや。深くて複雑で、一音一音に重みがある。
分からん。意味が分からん。
でも、一箇所だけ。
蠍の蟲音の中に、ワイが知っとるパターンがあった。
長く、ゆっくりとした音。
「安全」
ワイとあいつが共有した「言葉」の一つ。蟲音の原始的な共通認識。長くゆるい音は安全を意味する。
この蠍は、その基本パターンを土台にした上で、もっと複雑な音を重ねとる。
つまり、ワイらの「言葉」と同じ根っこから出発して、遥かに先まで行っとる蟲音を使っとるんや。
――こいつは、ワイらより遥かに長い時間、蟲音を練り上げてきた存在。
そう悟った瞬間、恐怖が薄れた。代わりに、背筋がぞくっとするような興奮が湧いた。
こいつから学べることは、とんでもない量あるんちゃうか。
* * *
蠍は、しばらくワイらを観察しとった。
ワイが作った燐光苔の警報を見た。瑠璃色の蟲が張った光糸の罠を見た。地面に光糸で描かれた簡易地図を見た。
そして、ワイを見た。
残った方の目。深い、暗い色の複眼。そこに映るワイは、手のひらに乗るくらいのちっぽけな幼虫。乳白色の柔らかい体。頭に米粒みたいな突起が一つ。
どう見ても、最弱のG級の蟲。
蠍がワイに向けて、短い蟲音を出した。
短く、低く、一音。
「問い」の音。
なんでそう感じたかは分からん。でも、あの音は明らかに何かを尋ねとった。ワイに向けて、何かを。
ワイは答えた。
きぃ、と。
ワイに出せる精一杯の蟲音で。意味なんか込められへん。ただ「ワイはここにおる」ということだけを。
蠍が、ほんの僅かに体を揺すった。
八本の脚が地面を踏み、低い振動が伝わってくる。蟲音やない。もっと原始的な、体全体で出す振動。
鉄脚震。
後にガゼンからそう教わった技やけど、この時はただ「地面が震えた」としか思わんかった。
でも、その振動に乗って、情報が流れ込んできた。
地面の下の構造。土の硬さ。水脈の位置。窪地の周辺に潜む小さな生き物の気配。
蠍は地面を読んどる。脚の感覚で、この窪地の全体像を把握したんや。
そして、一つ頷くように頭を下げた。
ワイの燐光苔の警報も、あいつの光糸の罠も、全部見た上で。この窪地が安全であることを確認した上で。
蠍は体を低くして、尾を完全に地面に下ろした。
戦闘態勢の完全な解除。
……信頼、されたんやろうか。
D級の蠍が、G級の幼虫を。
いや、そうやない。
あの蠍は、ワイの「強さ」やなくて、ワイの「頭」を見たんや。
燐光苔の使い方。光糸との連携。蟲音での意思疎通。この窪地を安全に保つための工夫の数々。
力やなくて、知恵を評価した。
それがG級の幼虫であっても。
* * *
蠍は、その日から窪地に居座った。
最初はワイも瑠璃色の蟲も緊張しとったけど、蠍はワイらに危害を加える気配が一切ない。それどころか、窪地の外から近づいてくる小さな捕食者を、その巨体で追い払ってくれた。
蜘蛛の巣の密集地帯を突破して侵入してきた中型の蜥蜴が、蠍の姿を見た瞬間に尻尾を巻いて逃げていったのは痛快やった。
D級が番を張っとる場所に、好き好んで近づくアホはおらん。
ワイらの窪地は、一気に大陸で一番安全な場所になった。
そして、蠍はワイに蟲音を教え始めた。
「教える」という行為をこの蠍がどう認識しとったのかは分からん。でも、あの蠍は明らかに意図的にワイに蟲音を聞かせ、ワイが真似するのを待ち、正しく真似できたら頭を下げる(多分「そうだ」の意味)、間違えたら短い音で訂正する、ということを繰り返した。
それは、教育やった。
一番最初に教わったのは、自分を指す音。
蠍は、自分の体に鋏腕を当てて、短く鋭い独特の蟲音を出した。
がぜん。
……がぜん?
ワイは真似した。きぃ、という幼虫の声では正確に再現できへんけど、音のリズムと抑揚をできるだけ近づけて。
蠍が頭を下げた。
「そうだ」
がぜん。
それが、名前やった。
この蠍には、名前がある。自分で自分を指す、固有の音。群れの幼虫は誰もそんなもん持ってへん。ワイだって持ってへん。
でも、この蠍は持っとる。
「がぜん」という名前を。
ワイは動揺した。名前。個体を区別するための音。「お前」や「ワイ」やなくて、世界にたった一匹しかおらん存在を示す音。
それがあるということは、こいつは長い間、名前が必要な生き方をしてきたということや。名前を呼ぶ相手がおった。あるいは、名前を呼ばれる相手がおった。
……おったん「やろう」。今はもう、おらんのかもしれんけど。
ワイは蠍を――ガゼンを見上げた。
錆びた甲殻。無数の古傷。半分潰れた目。
この体に刻まれた時間の中に、どれだけの出会いと別れがあったんやろう。
* * *
ガゼンは翌日から、もっと多くの蟲音を教えてくれた。
食う。眠る。戦う。逃げる。待つ。見る。聞く。強い。弱い。
ワイが瑠璃色の蟲と四日かけて作った十個の「言葉」を、ガゼンは一日で倍にした。しかもガゼンの蟲音は、一つの音に複数の意味を重ねる技法があって、組み合わせの幅が爆発的に広がった。
瑠璃色の蟲も、ガゼンの蟲音を聞いて翅を光らせとった。あいつはあいつで、ガゼンの蟲音のパターンを光の点滅に翻訳しようとしとるらしい。
三匹の間で、言葉が育っていく。
そして、ガゼンがワイに蟲音を教え始めて三日目の夕方。
ガゼンは、ワイの前に来て、じっとワイを見下ろした。
長い沈黙。
それから、ゆっくりと蟲音を発した。
長い音。複雑な音。今まで教わったどの「言葉」とも違う、聞いたことのない音の連なり。
でも、その中に知っとる音が混じっとった。
「強い」「変わる」「育つ」
育つ。
ガゼンはワイを見ながら、「育つ」の音を繰り返した。
そして、ワイの頭の突起――あの米粒みたいなちっぽけな角の芽に、鋏腕の先をそっと触れた。
錆びた鉄の鋏。ワイの体を一瞬で両断できるそれが、信じられないほど繊細な力加減で、角の芽に触れとる。
がぜんの蟲音が変わった。
短く。はっきりと。
ぐろう。
……え?
ぐろう。
もう一回。今度はワイの体を鋏で示しながら。
ぐろう。ぐろう。
ワイを指して、その音を繰り返す。
名前や。
ワイの名前。
ガゼンが、ワイに名前をくれた。
「がぜん」が自分の名前であるように、「ぐろう」がワイの名前になった。
体が震えた。静電気とは違う震え。体の奥の方から、熱い何かがこみ上げてくる。
名前がある。
ワイは「ワイ」やなくて、「グロウ」や。
世界にたった一匹の。
ガゼンの目が、ワイを真っ直ぐ見とった。半分潰れた複眼の、残った方の目。深くて、暗くて、途方もなく長い時間を映した目。
その目に、光が宿っとった。
期待、やろうか。
希望、やろうか。
ワイには分からんかった。でも、あの目が「お前に賭ける」と言うとることだけは、全身で感じた。
ガゼンは続けて、瑠璃色の蟲の方を向いた。
翅を見て、その穏やかな瑠璃色の光を見つめて。
一言、蟲音を発した。
るりは。
瑠璃色の蟲の翅が、ぱぁっと明るく輝いた。
今まで見た中で一番強い、一番綺麗な瑠璃色。
名前をもらった喜びが、光になってあふれ出とる。
グロウとルリハ。
ワイらはこの日、名前を持つ存在になった。
* * *
夜。
窪地の中で、三匹が体を寄せ合っとった。
ガゼンの巨体が壁になって、夜風を遮る。ルリハの翅が柔らかな瑠璃色の光で闇を照らす。ワイはガゼンの甲殻とルリハの毛の間に挟まって、今まで感じたことのない温かさの中にいた。
孤独が、消えとった。
完全に消えたわけやない。ワイの中の「なぜ」は相変わらず渦巻いとる。この世界は恐ろしいし、ワイは最弱やし、明日何が起こるか分からん。
でも、今この瞬間、隣に誰かがおる。
名前を呼んでくれる誰かが。
体表を静電気が走った。ぴりっと。
ルリハがびくっとする代わりに、翅の光を一瞬だけ明るくした。
ガゼンは微動だにせん。あの鉄の甲殻には、ワイの静電気なんか何も感じんのやろう。
でも、ガゼンはワイの方に少しだけ体を寄せた。
……おっさん。あんた、なんでワイらにこんなによくしてくれるんや。
聞きたかったけど、まだワイの蟲音ではそんな複雑なことは伝えられへん。
いつか聞こう。
もっと「言葉」が増えたら。もっとガゼンの蟲音が分かるようになったら。
ワイはこの蠍のことをもっと知りたい。あの傷だらけの体に刻まれた物語を、全部聞きたい。
目を閉じる。
明日も生きる。
もう、一匹やない。
次回「第7話:蟲帝の伝説」
――ガゼンが語る、蟲族のもう一つの歴史。そしてグロウの体に、確かな変化が訪れ始める。




