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蟲音

瑠璃色の蟲と暮らし始めて、三日が経った。


 「暮らす」いうても大したもんやない。窪地の隅で寝泊まりして、菌類を食って、ワイが周囲の安全を確認して、時々蟲音と光でよう分からんやりとりをする。それだけ。


 でも、その「それだけ」が、ワイにとっては革命的やった。


 朝起きた時に、隣に誰かがおる。


 それだけで、こんなにも世界の見え方が変わるとは思わんかった。



 瑠璃色の蟲は、ワイが思っとったよりずっと賢かった。


 最初の日、ワイは菌類を運んできて自分が先に食って見せた。「これは食えるで」という意味のつもりやった。あいつはそれを見て食った。


 二日目、あいつは自分からは動けへんけど、八本脚のうち無事な六本を使って糸を紡ぎ始めた。蜘蛛の糸。ただの糸やない。微かに光を帯びた、瑠璃色の細い糸。


 その糸を、窪地の入り口に張った。


 ワイが燐光苔で作った簡易警報の横に、もう一重の罠を追加したんや。


 しかもこの糸、触れた途端にべたっと張りついて離れへん。小さな蟲がうっかり触れたのを見たけど、必死にもがいても取れんかった。


 ……こいつ、やるやんけ。


 ワイの警報装置は「気づく」ためのもんやけど、あいつの糸は「止める」ためのもん。二つ合わせたら、気づいて、止めて、逃げる時間を稼げる。


 言葉を交わしたわけやない。ワイが警報を作ったのを見て、あいつが自分の能力で補完した。それだけ。


 でも、これは「連携」や。


 考える者同士が、お互いの行動を見て、自分の行動を合わせる。群れの幼虫たちには絶対にできへんこと。


 ワイの中で、何かが確信に変わった瞬間やった。


 

 三日目の朝、ワイは実験をしてみた。


 蟲音の実験や。


 ワイが出せる音は単純なきぃきぃ音だけ。でも、あいつの翅の光には明らかにパターンがある。短い点滅、長い点滅、色の変化。それぞれに意味があるはずや。


 なら、ワイの音にも意味を持たせればええんちゃうか。


 まず、「危険」


 これは群れの幼虫でも出す音やから、あいつにも通じるかもしれん。ワイは短く鋭い音を二回出した。きぃっ、きぃっ。


 瑠璃色の蟲の翅が、さっと赤紫に変わった。


 警戒色。通じとる。短く鋭い音=危険、は蟲の共通認識らしい。


 次。「安全」はどうや。


 ワイは低くゆっくりとした音を出した。ぎぃーーー、と。


 翅の色が赤紫から瑠璃色に戻った。


 ……おお。


 短く鋭い=危険。長くゆるい=安全。


 これだけで、もう二つの「言葉」ができた。


 ワイは興奮した。体表の静電気がばちばち弾けとる。


 もっと試そう。


 「餌」ワイは菌類の方を向いて、中くらいの長さの音を出した。きぃー、と。同時に体を菌類の方にうねらせて、方向を示す。


 瑠璃色の蟲がワイを見て、菌類を見て、またワイを見た。


 そして翅が光った。短く三回。


 ……三回の点滅。これは新しいパターン。「分かった」って意味やろうか。それとも「餌」って意味やろうか。


 分からん。でも、反応があった。ワイの音に対して、あいつが新しいパターンで返してきた。


 ワイはもう一度菌類を指し示しながら、同じ音を出した。きぃー。


 また三回の点滅。


 同じ状況で同じ反応。再現性がある。


 これは「意味」や。少なくともあいつの中では、この状況に対してこのパターンを返すという規則がある。


 ワイは頭の中に刻んだ。短三回=菌類の方を示した時の返答。意味はまだ不明やけど、パターンは記録した。


 こうやって一つずつ、ワイらの「言葉」を作っていく。


 気が遠くなるほど地道な作業や。でも、ワイは全然苦やなかった。


 だって、こんなにおもろいこと、生まれて初めてやったから。



 午後。


 ワイが窪地の外を偵察しとる間に、あいつは面白いことをしとった。


 光糸で、地面に模様を描いとる。


 菌類のそばに、小さな丸。ワイがいつもおる場所に、もっと小さな丸。窪地の入り口に、線。


 ……地図?


 いや、地図と呼ぶには単純すぎる。でも、明らかに窪地の中の配置を糸で示しとる。


 ワイは自分の目を疑った。


 こいつ、空間を把握して、それを外部に「出力」しとる。ワイが地面に体を押しつけて線を引いて記録しとったのと、やっとることは同じや。


 ただし、あいつの方が上手い。光糸は細くて正確やし、光っとるから暗い場所でも見える。ワイの泥の線なんかより遥かに高精度な記録手段や。


 あいつがワイを見た。金色の複眼が、ワイの反応を窺っとる。


 ワイは地面の光糸の模様をじっと見て、それから自分の位置にある小さな丸の上に体を乗せた。


 丸の上にワイ。


 つまり、「この丸はワイのことやな」と示したつもりや。


 あいつの翅が、ぱっと瑠璃色に輝いた。


 安心の色。


 通じた。ワイの意図が伝わった。丸=ワイ。この共通認識が成立した。


 次にワイは、あいつの位置にある大きめの丸の方を見て、きぃ、と音を出した。


 あいつは一瞬黙って、それから翅を光らせた。


 長く、ゆっくりと。瑠璃色の光が穏やかに明滅する。


 「安全」の合図。


 いや、違う。これは「安全」やなくて――


 「そう、それがわたし」と言うとるんや。


 確証なんかない。ワイの勝手な解釈かもしれん。でも、あの光のパターンと、あいつがワイを見る目の穏やかさが、そう言うとるように感じた。


 ワイは、蟲のくせに、笑えた気がした。



 四日目の朝。


 瑠璃色の蟲の傷が、少しだけ回復しとった。


 折れた脚の二本はまだ動かへんけど、翅の破れが僅かに塞がり始めとる。燐光の光も初日よりだいぶ強くなった。菌類をしっかり食えるようになったのが大きいんやろう。


 あいつが回復してきたことで、ワイらの「やりとり」はさらに複雑になっていった。


 ワイの蟲音は相変わらず単純やけど、音の長さ、回数、強弱を組み合わせることで少しずつ表現の幅が広がっとる。あいつの光も、点滅パターンと色の組み合わせで驚くほど多くの情報を伝えてくる。


 四日目の時点で、ワイらが共有できた「言葉」はこんな感じやった。


 危険。安全。餌。水。ワイ。お前。ここ。あっち。大きい。小さい。


 たった十個。


 でも、この十個があるだけで、世界が全然違う。


 「あっち」「大きい」「危険」。この三つを組み合わせたら、「あっちにでかい危険なもんがおる」と伝えられる。


 「ここ」「安全」。「ここは安全や」


 「ワイ」「あっち」「餌」。「ワイがあっちに飯取りに行く」


 たった十個の「言葉」から、無限の組み合わせが生まれる。


 言葉っちゅうのは、すごい。


 一匹では見えへんかったもんが、二匹になったら見えるようになる。ワイが偵察に出とる間、あいつは糸で窪地を守っとる。あいつが索敵糸で遠くの振動を感知して、ワイに光で伝える。ワイがそれを受けて行動を変える。


 一匹と一匹が、一匹以上の何かになる。


 群れとは違う。群れはただの塊や。考えへん個体がぎゅうぎゅう集まっとるだけ。


 でもワイらは違う。二匹が考えて、伝え合って、補い合っとる。


 これが「仲間」っちゅうもんなんやろうか。


 まだその言葉を知らんかったけど、多分、そうやったんやと思う。



 四日目の夕方。


 異変が起きた。


 ワイが窪地の外で菌類を集めとった時、地面が揺れた。


 どん。


 重い振動。鳥でも蜥蜴でも蜘蛛でもない。もっとでかくて、もっと重いもんが近づいとる。


 どん。どん。


 規則的な足音。八つ。四つの足で歩いとるにしては多い。六つか、八つ。


 でかい蟲や。


 ワイは菌類を放り出して窪地に戻った。体をうねらせて全力で移動する。蜘蛛の巣を掻い潜って、窪地に滑り込む。


 瑠璃色の蟲の翅が赤紫に染まっとった。あいつも振動に気づいとる。


 ワイは入り口の近くに陣取った。燐光苔の警報。光糸の罠。あいつが回復しきっとらん今、ここを守れるのはワイしかおらん。


 守れるいうても、幼虫の体で何ができるんや。


 考えろ。考えるんや。


 足音が近づいてくる。木々の間を、何かが掻き分けて進む音。枝が折れる音。落ち葉が潰される音。


 でかい。ワイの何十倍もでかい。


 蜘蛛の巣が、ばちばちと千切れる音がした。あの密集地帯を力任せに突破しとる。蜘蛛の巣が壁にならへんほどの質量。


 ――あかん。


 ワイの知恵が通じる相手やない。燐光苔の光なんか、あのサイズの相手には目眩ましにもならん。光糸の罠も、あの足音の主にはただの蜘蛛の巣と変わらん。


 逃げるか。


 逃げるなら今や。窪地の反対側に、もう一つ小さな隙間がある。幼虫のワイなら通れる。あいつは――翅が破れとって、脚が折れとって、通れへん。


 ワイだけなら、逃げられる。


 ……。


 体が動かへんかった。


 また、か。


 雷蜥蜴の時と同じ。頭は「逃げろ」と言うとるのに、体が拒否しとる。


 いや、違う。


 今度は、頭も「逃げろ」とは言うてへん。


 だって、逃げたら、あいつがおらんくなる。


 四日間かけて作った「言葉」が、全部消える。


 金色の目が、もう見られへんくなる。


 それは――あかん。絶対にあかん。


 ワイは窪地の入り口で体を丸めた。ちっぽけな体で、精一杯の壁になるつもりやった。何の意味もないことは分かっとる。幼虫一匹が立ちはだかったところで、あのサイズの相手には文字通り虫けら以下や。


 でも、ここで退いたら、ワイはワイでなくなる。


 足音が、すぐそこまで来た。


 木々を割って、巨大な影が窪地の縁に現れた。


 暗い。でかい。


 錆びた鉄のような赤茶けた甲殻。太い八本の脚。頭上を越えて前方に突き出す、巨大な尾と毒針。


 蠍や。


 ワイの体が完全に固まった。あまりにもでかい。ワイの三十倍以上ある。右の鋏腕に大きな古傷。左の複眼が半分潰れとる。


 歴戦の化け物。


 終わった、と思った。


 蠍の残った方の目が、ワイを捉えた。


 一瞬の沈黙。


 ワイは声を出した。


 短く、鋭く、二回。


 きぃっ、きぃっ。


 「危険」の蟲音。意味なんかない。こんなでかい相手に幼虫の蟲音が通じるわけがない。ただ、体が勝手に出した。最後の抵抗みたいなもんや。


 蠍が、動きを止めた。


 ワイを見下ろしとる。あの巨体が、幼虫一匹の蟲音に反応して、動きを止めた。


 そして。


 低い。重い。地響きのような蟲音が返ってきた。


 ワイが今まで聞いたどの蟲音とも比べ物にならん、腹の底に響くような音。


 でも、それは「攻撃」の音やなかった。


 怒りでも、威嚇でもない。


 もっと複雑で、もっと深い音。ワイの音に「応えた」音。


 瑠璃色の蟲の翅が変わった。赤紫から、ゆっくりと瑠璃色に戻っていく。


 ……安心の色?


 なんで? こんなでかい化け物を前にして、なんであいつは安心しとるんや?


 蠍が、ゆっくりと窪地の中に降りてきた。


 ワイは動けへんかった。でも、踏み潰されもせんかった。


 蠍は窪地の中を見回した。ワイを。瑠璃色の蟲を。光糸の罠を。燐光苔の警報を。


 そして、もう一度、あの低い蟲音を出した。


 今度は、さっきより長くて、抑揚があった。


 ワイには意味が分からん。分からんけど、一つだけ確信したことがあった。


 こいつも、考えとる


 三匹目。


 この森に、考える蟲が、三匹おった。



次回「第6話:鉄の蠍」

――巨大な蠍はワイの敵ではなかった。

そいつは名を持ち、記憶を持ち、そしてワイに「名前」をくれた。

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