瑠璃色の光
朝が来た。
いつもなら鳥のパターンを確認してから動くところやけど、今日のワイは違った。
昨夜見た光。聞こえた音。あれが何やったのか、確かめずにはおれん。
ただし、馬鹿正直に森の奥へ突っ込むほどワイは間抜けやない。
まず、情報を集める。
樹皮の隙間から周囲を見渡す。昨夜、光が見えたのは北西の方角。この森の中でも特に木が密集しとる暗い領域で、地面は常に湿っとって、倒木や苔が積み重なった複雑な地形。
ワイはこれまであの方向には行ったことがない。理由は単純で、暗い場所は捕食者が潜みやすいから避けとった。
でも、逆に言えば暗い場所は鳥の脅威が減る。鳥は視覚で獲物を探すから、薄暗い場所では効率が悪い。蜥蜴も日光を好むから、深い暗がりにはあまりおらん。
問題は蜘蛛や。暗くて湿った場所は蜘蛛の天国。巣が張り巡らされとったら、幼虫の体なんか一発で絡め取られる。
行くか、行かへんか。
……行く。
あの音は、ワイと同じ「考える蟲」が出したもんやと思う。根拠はない。ただの勘や。でも、この勘を無視したら、ワイは多分ずっと後悔する。
鳥が朝の巡回を終えて南に飛び去ったのを確認してから、ワイは樹皮の隙間を出発した。
* * *
北西への移動は、想像以上にしんどかった。
幼虫の体で長距離を移動するのは初めてや。体を縮めて伸ばして、うねるように進む。普段のワイの行動範囲なんて、せいぜい木を三本分くらいの距離。それを大きく超えて、見知らぬ領域に踏み込んでいく。
途中、何度か立ち止まった。
知らん匂いがする。知らん音がする。見たことのない蟲が地面を横切っていく。ワイより少し大きい、黒っぽい甲虫。目が合った気がしたけど、向こうはワイに興味がないらしく、そのまま通り過ぎていった。
G級同士やったら、基本的にお互い無視や。食い合うほどの攻撃性はないし、食い合うメリットもない。
木々が密になっていく。地面が暗くなる。頭上の葉が重なり合って、朝の光がほとんど届かへん。代わりに、あちこちで燐光苔がぼんやりと光っとる。
蜘蛛の巣。
予想通りや。行く手に、細い糸が幾重にも張られとる。目を凝らさんと見えへんくらい細い糸が、木と木の間を縫うように走っとる。
ワイは慎重に進んだ。糸が光を反射する角度を見極めて、隙間を縫うように体を捻る。幼虫の小さな体が、ここでは有利に働く。
一本、二本、三本。糸を避けて、潜って、回り込んで。
時間はかかったけど、蜘蛛の巣の密集地帯を抜けた。
その先に、開けた場所があった。
* * *
倒木が何本も折り重なった、小さな窪地みたいな空間やった。
周囲は密集した木々に囲まれとって、空からの光はほとんど入らへん。代わりに、倒木の表面を覆う燐光苔が淡い緑の光を放っていて、薄暗い中にぼんやりとした明るさがある。
そして、その窪地の隅に。
瑠璃色の光があった。
昨夜見た光と、同じ色。
ワイは息を呑んだ。蟲やから息なんかないけど、体の中の何かがきゅっと締まる感覚があった。
光の正体は、一匹の蟲やった。
蛾のような翅を持つ蟲。胴体は柔らかそうな毛に覆われていて、色は淡い瑠璃色。翅の表面に斑紋があって、その斑紋が弱々しく明滅しとる。脚は――蜘蛛みたいに八本ある。蛾と蜘蛛が合わさったような、不思議な姿。
でかい。ワイの三倍はある。
ただし、その体は明らかに弱っとった。
翅の片方が破れとる。体の毛がところどころ剥がれて、瑠璃色の下の薄い皮膚が見えとる。八本の脚のうち二本が不自然な方向に曲がっとって、まともに動けへん状態。
そいつは窪地の隅で、体を小さく丸めてじっとしとった。
弱っとる蟲。
普通なら、近づく理由はない。弱った蟲に近づいても得はないし、弱った蟲の近くには捕食者が来る可能性が高い。合理的に考えたら、ここは素早く立ち去るべきや。
ワイの頭はそう言うとる。
でも、体は動かへんかった。
あの蟲の目が、こっちを見とる。
大きな複眼。淡い金色。
その目に、見覚えがあった。
いや、見覚えっちゅうのは正確やない。あの目に映っとるもんに、覚えがある。
「見ている」目や。
ただ光を反射しとるだけやない。周囲を観察して、分析して、判断しとる目。ワイが毎日、鳥の止まり木を観察する時に使っとるのと同じ種類の目。
――こいつ。
考えとる。
ワイと同じように、こいつは「考えて」おる。
確信があったわけやない。でも、あの目を見た瞬間、体の中でばちん、と何かが弾けた。体表の静電気がいつもより強く走って、ワイの体が微かに帯電した。
瑠璃色の蟲が、びくっと反応した。
ワイの帯電に気づいたんやろう。翅の斑紋の明滅パターンが変わった。さっきまで弱々しく不規則に光っとったのが、一定のリズムで点滅し始めた。
短く、長く、短く。
まるで何かを伝えようとしとるみたいに。
ワイには意味が分からん。蟲音でも光でもない、初めて見るコミュニケーションの形。
でも、一つだけ分かることがあった。
こいつは、ワイに向かって「何か」を発信しとる。
ただの生体反応やない。意図がある。伝えようとしとる。
ワイはゆっくりと近づいた。
* * *
近づいて、分かったことがある。
こいつは追われとった。
窪地の入り口の方――ワイが来た方向とは反対側に、何かが地面を引きずったような跡がある。そして、倒木の裏側には別の蟲の体液が飛び散った痕。
戦闘の跡や。
こいつは何かと戦って、傷を負って、ここまで逃げてきた。翅が破れとるのも、脚が折れとるのも、その時の傷やろう。
瑠璃色の蟲がまた光った。
今度は、光の色が変わった。瑠璃色から、鋭い赤紫に。
後になって知ったことやけど、あれは「警戒」の色やった。ワイに対してやない。ワイの後ろ――窪地の外に対しての警戒。
追っ手がまだ近くにおる、ということか。
ワイは振り返った。
窪地の周囲は蜘蛛の巣の密集地帯。ワイが通ってきたルートは蜘蛛の巣を避けた細い道筋。それ以外のルートから来ようとしたら、蜘蛛の巣に引っかかる。
つまり、この窪地は天然の砦みたいなもんや。蜘蛛の巣が壁になって、大きな捕食者は簡単には入れへん。
こいつは、それを分かった上でここに逃げ込んだんちゃうか。
……賢い。
やっぱり、考えとる。
ワイは瑠璃色の蟲の前に体を据えた。小さな幼虫が、自分よりずっと大きな蟲の前に陣取る。絵面としては滑稽やろう。
でも、ワイの頭はもう計算を始めとった。
こいつは弱っとる。動けへん。追っ手がおるかもしれん。
ワイにできることは何か。
戦闘力はない。体もちっさい。牙も爪も毒もない。
でも、頭がある。
この森の地形はワイの方が詳しい。蜘蛛の巣の配置も把握しとる。鳥のパターンも、蜥蜴の行動範囲も。
こいつの傷が癒えるまで、ワイが「目」と「頭」になれる。
なんでそこまでする気になったんか、正直ワイにもよう分からん。
ただ、あの目を見た時に思ったんや。
この森で初めて出会った、「同じ側」のやつ。
考える蟲。ワイと同じように、世界を「見ている」蟲。
こいつを失ったら、ワイはまた一匹に戻る。
それだけは、嫌やった。
* * *
それからワイは、窪地に居座った。
まず食料の確保。窪地の周辺には燐光苔が豊富にあるし、倒木の樹皮の裏には菌類もある。ワイ一匹なら十分すぎる量やけど、瑠璃色の蟲の分も必要や。
こいつが何を食うのかは分からんかったけど、試しに菌類を体で押して近くまで運んでみた。
瑠璃色の蟲は最初、警戒してワイの運んだ菌類に近づかへんかった。
でもしばらくして、ワイが先に菌類を齧って見せたら、おそるおそる口をつけた。
食った。
よし、菌類はいけるらしい。
次に、安全の確保。窪地への侵入ルートをワイなりに調べた。蜘蛛の巣が自然の防壁になっとるとはいえ、完璧やない。北側に一箇所、巣の薄いところがある。小型の捕食者ならそこから入れるかもしれん。
ワイは北側の薄い箇所の手前に、燐光苔を集めて置いた。何かが近づいて苔を踏めば、光と臭いで分かる。簡易的な警報装置みたいなもんや。
雷蜥蜴の時に使った手を応用しただけやけど、こうやって知恵を「使い回す」のは初めてやった。一度学んだことが、別の場面で役に立つ。その感覚が、また胸の中を熱くした。
瑠璃色の蟲は、ワイの行動をじっと見とった。
あの金色の複眼が、ワイの動きを追っとる。燐光苔を運ぶワイを。巣の薄い箇所を調べるワイを。菌類を集めるワイを。
観察されとる。
あいつも、ワイを「見ている」。
* * *
夕方。
瑠璃色の蟲が、音を出した。
ぎぃ、と。
昨夜、ワイが森の奥から聞いた音と同じ。低くて、抑揚のある、複雑な蟲の音。
ワイが振り向くと、あいつはワイの方を向いとった。翅の斑紋が穏やかな瑠璃色に光っとる。さっきの赤紫とは違う、温かみのある柔らかい光。
……なんやろう、この色。
分からん。でも、嫌な感じはせん。むしろ、安心する。
ワイも音を出してみた。
ワイの出せる音なんて、短いきぃきぃ言う音だけ。群れの幼虫が出す、原始的な蟲音。「危険」とか「餌」とか、一音の信号。
でも、それを聞いた瑠璃色の蟲が、また光った。
短く、二回。
返事、やろうか。
ワイはもう一度、きぃ、と鳴いた。
また光が二回。
……会話にはなってへん。全然なってへん。ワイの音とあいつの光では、情報の複雑さが違いすぎる。
でも。
でも、これは「やりとり」や。
ワイが出した信号に、あいつが反応しとる。あいつの光に、ワイが反応しとる。意味はまだ分からん。言葉にはなってへん。でも、この一往復の中に、確かに「通じ合おうとする意志」がある。
生まれて初めてやった。
ワイの「なぜ」に、誰かが応えてくれた。
内容はまだ分からん。でも、応えようとしてくれた。
それだけで、ワイの中の孤独が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
体表を静電気が走る。ぴりっと。
いつもなら隣の幼虫がびくっと跳ねて離れるところやけど、瑠璃色の蟲は跳ねへんかった。
むしろ、ワイの帯電に反応するように、翅の光が一瞬だけ強く瞬いた。
まるで、「大丈夫」と言うとるみたいに。
ワイは瑠璃色の蟲のそばに体を寄せた。
こいつの翅は破れとるし、脚は折れとるし、体はぼろぼろや。
でも、目は生きとる。
金色の、考える目。
ワイと同じ目。
――こいつは、ワイが守る。
なんの力もない、最弱の幼虫のくせに、そんなことを思った。
思ってしもうた以上、やるしかない。
夜の森に、瑠璃色の光と、微かな静電気の火花が並んで瞬いた。
次回「第5話:蟲音」
――ワイと瑠璃色の蟲は、少しずつ「言葉」を共有し始める。そして、森の奥から重い足音が響く。




