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幕間「蟲を見た少年」

 王都カレドニアに戻ってきたのは、灰谷の迷宮を出てから三日後のことだった。


 パーティの全員がボロボロだった。ベルトさんの鎧は凹みだらけ、マーラさんの弓は弦が切れかけ、オルドさんはまだ頭痛がすると言って馬車の中でずっと横になっていた。


 俺だけが、体の傷以外の何かを抱えて帰ってきた。


    * * *


 冒険者ギルドに報告を済ませた夜、ベルトさんが「打ち上げだ」と言って安酒場に繰り出した。


 溶岩百足は倒せなかった、というのが公式の報告。実際に倒したのはあの蟲たちだけど、そんなことをギルドに言っても信じてもらえないだろうし、ベルトさんも言う気はなかったらしい。


 「深層の主と遭遇して撤退した」。それが報告書に書かれた内容。嘘ではない。俺たちは確かに撤退した。あの空洞から。


 安酒場の隅のテーブルで、ぬるいエールを飲みながら、ベルトさんが言った。


 「しかし運が悪かったな。溶岩百足と鉢合わせるとは。あれはC級に片足突っ込んでる化け物だ。D級パーティでも厳しい」


 マーラさんが頷く。


 「あの蠍がいなかったら、もっと危なかったかもね。あいつが百足の注意を引いてくれてる間に態勢を立て直せたんだから」


 ベルトさんが渋い顔をした。


 「D級の蠍か。あの甲殻は良い素材になったんだがな。深層に転がったままじゃ回収もできん」


 素材。


 また、その言葉。


 俺のエールを握る手に、力がこもった。


    * * *


 あの蠍は素材なんかじゃない。


 俺はあの空洞で見た。全部見た。


 あの巨大な蠍が、赤い甲虫と瑠璃色の蟲を背中に庇って、溶岩百足の前に立ちはだかった姿を。


 衝撃波を食らってボロボロになっても、最初にやったのは後ろの二匹が無事かどうか確認することだった。自分の体から体液が漏れてるのに、目は二匹を探していた。


 それから百足に向かって突っ込んでいった。折れた脚で。割れた甲殻で。千切れかけた尻尾で。


 最後に振り返って、あの赤い甲虫を見て。


 笑った。


 蠍が笑うわけないって、みんなは言うだろう。モンスターに表情なんかないって。


 でも俺は見た。あの瞬間、あの蠍の顔は確かに緩んでいた。


 穏やかに。誇らしげに。


 それから前を向いて、最後の力を振り絞って地面を砕いた。百足の動きを止めるために。あの甲虫が百足の頭に到達する時間を作るために。


 鋏で百足の頭を殴りつけた。亀裂を入れた。自分の鋏が壊れるのも構わずに。


 投げ飛ばされて、壁に叩きつけられて。


 そこから、もう動かなかった。


 でも――百足を倒した後で、あの赤い甲虫が蠍の元に駆け寄った時。


 蠍の目は開いていた。甲虫を見ていた。


 口が動いていた。何かを言おうとしていた。蟲の音。俺には意味は分からない。でも、あの音は遺言だった。言葉を持たない獣の鳴き声じゃない。伝えたいことがある生き物の、最後の声だった。


 蠍の鋏が持ち上がって、甲虫の頭の角に触れた。


 優しく。壊れそうなものに触れるみたいに、優しく。


 それから、目が閉じた。


 甲虫が、泣いた。


 泣いたんだ。涙は出ない。蟲だから。でも、体を震わせて、声にならない音を出して、蠍の体にしがみついていた。瑠璃色の蟲もそうだった。二匹で蠍にしがみついて、声を上げていた。


 あれが悲しみじゃなかったら、何だって言うんだ。


    * * *


 「レン? 聞いてるか」


 ベルトさんの声で我に返った。


 「あ、はい。すみません」


 「お前、さっきから上の空だな。疲れてるなら先に帰れ」


 「いえ、大丈夫です。……ちょっと聞いてもいいですか」


 エールのジョッキを置いて、三人の顔を見回した。


 言うか言わないか、迷った。迷ったけど、言わなきゃいけない気がした。


 「あの蟲たち。赤い甲虫と、瑠璃色の蟲と、蠍。あいつら、ただのモンスターじゃないと思うんです」


 テーブルが静かになった。


 ベルトさんが眉を上げた。マーラさんがジョッキを置いた。オルドさんが頭痛を押さえながらこっちを見た。


 「あの蠍は、甲虫と瑠璃色の蟲を庇っていました。戦闘中も、最後の瞬間も。あれは本能じゃないです。守ろうとしていたんです。意志を持って」


 ベルトさんが腕を組んだ。


 「レン。気持ちは分かるが、モンスターを擬人化するのは――」


 「擬人化じゃないです」


 自分でも驚くくらい、はっきりと言い切っていた。


 「あの甲虫は、仲間に声をかけてから逃げました。蠍が死んだ後、甲虫は蠍の体にしがみついて泣きました。あれが演技だって言うなら、俺は人間の悲しみだって演技かもしれないと思います」


 静かだった。酒場のざわめきが遠くに聞こえる。


 マーラさんが口を開いた。


 「レン。あんたの観察眼は認めてるわ。でもね、モンスターに知性があるなんて話、ギルドに報告したら笑われるだけよ。下手したらイカれた新人って烙印を押されて、パーティに入れてもらえなくなる」


 オルドさんが静かに付け加えた。


 「学術院でもモンスターの知性研究は異端扱いだ。そういう論文を出した学者は大抵キャリアを潰してる」


 ベルトさんが溜息をついた。


 「あのな、レン。仮にお前の言う通りだとしよう。あの蟲に知性があるとして、だからどうする。モンスターはモンスターだ。放っておいたら人を襲う。冒険者の仕事はモンスターを狩ることだ。そこは変わらん」


 変わらない。


 本当にそうなのか。


 俺はジョッキのエールを見つめた。ぬるくなった琥珀色の液面に、自分の顔が歪んで映っている。


 「……すみません。変なこと言いました」


 「気にすんな。新人にはよくあることだ」


 ベルトさんがエールを飲み干して、話は終わりになった。


    * * *


 その夜、宿の安い部屋で寝台に横になりながら、俺はずっと天井を見ていた。


 眠れなかった。


 目を閉じると、あの光景が浮かぶ。


 赤い甲虫が蠍の体にしがみついている姿。瑠璃色の蟲が光を消して震えている姿。二匹の声にならない声が、空洞に反響していた残響。


 あいつらは悲しんでいた。


 仲間を失って、悲しんでいた。


 それを俺は、何もできずに見ていた。


 ベルトさんの言葉が頭をぐるぐる回る。「モンスターはモンスターだ」。それが冒険者の常識。ギルドの常識。この世界の常識。


 でも、俺の目は別のものを見た。


 あの赤い甲虫。中層で天井の裂け目に隠れていた時、目が合った。俺はあいつを仲間に報告しなかった。


 なぜかって?


 あいつの目が、「考えている」目だったからだ。


 獲物の目じゃなかった。恐怖の目でもなかった。俺のことを観察して、判断して、「こいつはどう出るか」を考えている目だった。


 そして俺のことを見て――攻撃してこなかった。


 あいつも俺を見て、判断したんだ。「こいつは今は敵じゃない」と。


 お互いに「判断」した。


 それは、知性だ。


 どう言い繕ったって、あれは知性だ。


    * * *


 翌朝、冒険者ギルドの掲示板の前を通りかかった時、一枚の紙が目に留まった。


 蟲害対策のチラシ。


 「東部農村地帯における蟲族モンスターの大量発生について。冒険者各位の協力を求む。報酬は――」


 蟲害。


 蟲族が害虫として駆除される。当たり前のこと。日常の風景。このチラシを見て眉をひそめる冒険者なんか、一人もいない。


 俺も、灰谷の迷宮に行く前なら気にも留めなかっただろう。


 でも今は違う。


 あの赤い甲虫の顔が浮かぶ。溶岩百足と戦っている時、俺の横に転がり込んできたあいつ。至近距離で目が合って、互いに百足に向き直った瞬間。


 言葉なんか通じてなかった。


 でも、通じていた。


 「まだやれるか」と聞いた時、あいつは角をバチッと光らせて答えた。言葉じゃない。でも、あれは「ああ」って言ってたんだ。


 あいつは今、どこにいるんだろう。


 あの蠍を失って、瑠璃色の蟲と二匹で、どこへ向かっているんだろう。


 俺には何もできない。E級なりたての冒険者には、世界の常識を覆す力なんかない。


 でも、忘れない。


 あの目を。あの連携を。あの悲しみを。


 俺が見たものは本物だ。


 いつか。


 いつかまたあいつに会えたら、その時は――何ができるか分からないけど、少なくとも剣は向けない。


 それだけは決めた。


 チラシから目を逸らして、ギルドの出口に向かった。朝の光が眩しい。


 左手のやけど跡が、少しだけ疼いた。


 子供の頃に蟲を庇って負った傷。あの時は何も分からなかった。ただ「やめろ」と思って手を出しただけだった。


 今は分かる。


 あの時の俺は正しかった。

次回「第三章:王都の影」

――蟲淵を目指す旅路で、グロウは人間の王都カレドニアに近づく。人間の言葉が少しずつ分かり始めたグロウが見た、蟲族の「現実」とは。

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