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「トニトルス」

 どれくらいの時間が経ったんやろう。


 気がついたら、空洞の中にはワイとルリハとガゼンの三匹――いや、二匹と一つの体だけやった。


 人間たちはいつの間にかおらんくなっとった。撤退したんやろう。魔術師が気を失っとったし、パーティ全体が消耗しとったから。


 レンがおったかどうかも、よう分からん。最後に見た時、あいつはこっちを真っ直ぐ見とった。あの緑の目が何を思っとったのか、考える余裕はワイにはなかった。


 空洞に残っとるのは、倒れた溶岩百足の黒い巨体と、壁際に横たわるガゼンと、その傍に寄り添うワイとルリハだけ。


 静かやった。


 あれだけ荒れ狂った空間が、嘘みたいに静か。溶岩池の表面はもう泡立ってへん。百足の体温が消えたから、地熱も少しずつ下がり始めとる。


 ルリハはワイの隣で翅を畳んだまま、微動だにせん。翅の光は完全に消えて、瑠璃色の体毛がただ暗闇の中に沈んどる。


 あいつも声を出し尽くした。ワイも。


 喉が――蟲に喉なんかないけど、蟲音を出す器官が焼けたみたいに痛くて、もう音が出えへん。


 ガゼンの体に触れた。


 冷たい。


 あの鉄みたいな甲殻が、ただの冷たい殻になっとる。生き物の温度やない。岩と同じ温度。迷宮の空気と同じ温度。


 ワイは二対の腕でガゼンの甲殻を抱えるようにして、額を押し当てた。


 硬い。冷たい。でも、ワイの体が覚えとる。この甲殻の感触を。夜に体を寄せ合った時の、あの安心感を。


 もう戻ってこーへん。


 分かっとる。分かっとるのに、体が離れへん。


    * * *


 記憶が走る。


 朽葉の森の窪地に初めてガゼンが現れた日のこと。あの巨体が地面を踏み鳴らして降りてきた時、ワイは死ぬと思った。


 でもガゼンはワイを踏まんかった。ワイの燐光苔の警報を見て、ルリハの光糸の罠を見て、蟲音で応えてくれた。


 「がぜん」


 初めて聞いた、名前という概念。


 それからガゼンは蟲音を教えてくれた。一つずつ、根気よく。ワイが間違えるたびに「甘い」と叱って、できるまでやり直させて。


 蟲帝の伝説を語ってくれた夜。ガゼンの蟲音がいつもと違って、ゆったりと深くなって、空気の温度が変わったみたいやった。


 名前をくれた日。ワイの角の芽に鋏腕を触れて、「ぐろう」と。


 ルリハの翅を見て、「瑠璃のようだ」と。


 走り方を教えてくれた日。何度転んでも「甘い」しか言わんくせに、最後に「及第点じゃ」と言ってくれた。


 弱点を突く戦い方。「正面から力で押すのは愚か者のやり方じゃ」


 覚悟の話。「退かんと決めた覚悟じゃ」


 蟲族の誇り。「弱いからこそ考えて、工夫して、何としてでも生き残る」


 全部。


 全部、ガゼンが教えてくれたことや。


 ワイが今ここに立っとるのは、ガゼンがおったからや。ルリハがワイの隣にいるのも、ガゼンが守ってくれたからや。


 ワイの名前も。ルリハの名前も。ワイらが「名前を持つ存在」でいられるのも。


 全部。


 全部、おっちゃんのおかげや。


    * * *


 ルリハが動いた。


 翅が微かに光った。瑠璃色やない。もっと淡い、消えかけの光。体力が底を突いとるのに、それでもルリハは翅を光らせた。


 ガゼンの体を照らすために。


 暗闇の中で、ガゼンの姿がぼんやりと浮かび上がる。


 錆びた鉄の甲殻。無数の傷跡。折れた脚。裂けた鋏腕。千切れかけた尾。


 ボロボロや。


 でも、そのボロボロの体が、ワイには世界で一番でかく見えた。


 こんなにでかい背中を、ワイはいつまで覚えていられるんやろう。


 あの甲殻の硬さ。体温。重い蟲音の振動。


 忘れたくない。


 絶対に忘れたくない。


 ルリハが蟲音を出した。かすれた、弱い音。でも、意味のある音。


 ワイらの「言葉」で。


 「ガゼン」「ありがとう」


 ありがとう。


 ガゼンがワイらに教えてくれた「言葉」の中に、「ありがとう」はなかった。ガゼンはそういう柔らかい言葉を使う蟲やなかった。


 でもルリハが、自分で作ったんやろう。ガゼンの蟲音の体系にない音を、自分で組み合わせて、「ありがとう」を作った。


 ワイもその音を真似した。かすれた声で。


 「ガゼン。ありがとう」


 返事はない。


 分かっとる。


 でも、言わなあかんかった。


    * * *


 しばらくして、ワイはガゼンの体から離れた。


 離れなあかんかった。


 いつまでもここにおるわけにはいかん。ガゼンが最後に言うたことを、ワイは覚えとる。


 「蟲淵に行け」


 「儂の分まで」


 ガゼンの遺言。


 ここで止まったら、ガゼンの死が無駄になる。


 それだけは絶対にあかん。


 ワイは溶岩百足の死骸に目を向けた。


 黒い岩みたいになった巨大な体。体温が消えて、ただの甲殻の塊になっとる。


 体の奥底で、あの衝動が疼いた。


 食え。


 あいつを食え。


 ガゼンを殺した――いや。ガゼンはこいつに殺されたんやない。ガゼンは自分の意志で戦って、自分の意志でワイらを守って、自分の意志で逝った。こいつはただ、そこにおった敵や。


 でも、こいつの力を取り込めば、ワイは変わる。


 もっと強くなる。


 もう二度と、目の前で誰かを喪わんくらい、強く。


 ワイは溶岩百足の死骸に近づいた。冷えた甲殻に角を突き立てる。硬い。でも百足の頭の亀裂はまだ開いとる。ワイとルリハがこじ開けた亀裂。


 そこから中に入った。


 食った。


    * * *


 溶岩百足の肉は熱かった。


 体温は消えたはずやのに、内部にはまだ膨大な魔素と熱エネルギーが残っとる。一口ごとに、体の中が燃えるように熱くなる。


 雷蜥蜴を食った時とは比較にならへん。


 あの時は体内の魔素が一か所に溜まっていく感覚やった。今回は、それが決壊する感覚。溢れるなんてもんやない。体の中で嵐が起きとるみたいに、魔素と熱が暴れ回っとる。


 痛い。


 体が内側から引き裂かれそうや。


 甲殻の表面にバチバチバチッと雷が走る。一筋やない。何十本もの雷が同時に甲殻を駆け巡って、空洞の空気を震わせる。


 ルリハが離れた場所で翅を赤紫に染めて見守っとる。近づけへん。ワイの体から溢れる雷が周囲の空気を帯電させとるから。


 変異進化が始まっとる。


 前回と同じ。でも規模が違う。


 赤褐色の甲殻がバキバキと音を立てて割れていく。テントウムシみたいな丸いドーム型の甲殻が砕けて、剥がれて、中から新しい体が現れる。


 でかくなっとる。


 ずっとでかくなっとる。


 六十センチ程度やったワイの体が膨張していく。一メートル。一メートル半。二メートル。まだ止まらん。二メートルを超えた辺りで、ようやく膨張が収まった。


 体型が変わった。


 丸いテントウムシ型やない。もっと重厚な、四脚の甲虫戦士の体型。太い脚が2本、地面にどっしりと食い込んどる。肩に小さな突起が生まれとる。副角の芽。


 腕が太くなった。二対の腕は前より長く、力強い。


 そして角。


 一本角が、途中で二つに分かれた。


 Yの字に枝分かれした大角。根元が太く、先端は鋭い。全長50センチ。ヴォルトビートルの角の倍以上ある。


 甲殻の色が変わっとった。赤褐色やない。銀灰色。鋼みたいな冷たい光沢。


 そしてその甲殻の上を、太い紫色の雷が常に走っとる。ヴォルトビートルの時は時折バチッと走るだけやった。今は常に、体のどこかを太い雷が這い回っとる。


 空気がびりびり震えとる。ワイの体の周囲だけ、空気の質が違う。


 背中にバキッと音がして、翅鞘が開いた。中に薄い翅がある。まだ飛べんやろうけど、翅がある。


 口元が変わった。発声器官が発達しとる。今までの幼虫由来のキィキィ音やなくて、もっと低くて太い音が出せそうな感覚がある。


 トニトルス。


 その名前はまだ知らん。でもワイは確かに変わった。


 二度目の変異進化。


 溶岩百足の熱エネルギーを雷に変換する力を手に入れた体。雷を纏った重殻の戦士。


 ワイは立ち上がった。


 2本の脚で大地を踏みしめる。ズシン、と重い音。地面に罅が入る。


 でかい。


 ヴォルトビートルの時は中型犬くらいやった。今は大型の軍馬くらいある。


 ルリハが近づいてきた。翅が瑠璃色に戻りかけとる。でもまだ弱い光。


 ワイを見上げとった。


 朽葉の森で出会った時、ルリハはワイの三倍でかかった。ワイを守る側やった。それが今、ルリハがワイを見上げとる。


 ルリハの光糸がワイの脚に触れた。細い、瑠璃色の糸。


 確かめとるんや、これがワイやって。この銀灰色のでかい体が、あの赤い甲殻のちっさな甲虫と同じグロウやって。


 ワイはルリハの方に頭を下げた。二又の大角がルリハのすぐ上を通過する。


 ルリハがびくっとして、それから翅の光が少しだけ強くなった。


 大丈夫、ワイや。


 蟲音を出してみた。


 ヴォルトビートルの時より、ずっと低くて太い音が出た。雷鳴みたいな重低音が混じった蟲音。


 「ワイや。グロウや」


 ルリハの翅が、ようやく瑠璃色に戻った。


    * * *


 ワイはガゼンの体の前に立った。


 ガゼンは三メートルやった。今のワイは二メートル半。まだガゼンの方がでかいけど、差は縮まった。


 でも、ワイにはガゼンの体がまだ途方もなくでかく見えた。


 あの背中。


 ワイとルリハを背後に庇って、溶岩百足の突進を正面から受け止め続けた鉄の背中。


 いつかワイも、あんな背中を持てるやろうか。


 誰かを守れる背中を。


 退かんと決めた覚悟を、背中で語れる存在に、ワイはなれるやろうか。


 ガゼンの甲殻に角を触れた。二又の大角の先を、そっと。


 ガゼンが名前をくれた時の鋏腕と同じ角度で。


 「……行ってくるわ、おっちゃん」


 蟲淵に行く。


 全部見つけてくる。


 蟲族が何者やったのか。何を奪われたのか。何を取り戻せるのか。


 全部。


 ワイは踵を返した。


 ルリハがワイの横に並ぶ。翅を広げて、瑠璃色の光で前方を照らす。


 二匹で歩き出す。空洞の出口に向かって。地上に向かって。


 振り返らんかった。振り返ったら、動けんくなる。


 おっちゃんが遺してくれた言葉を胸に。おっちゃんがくれた名前を背負って。


 ワイらは行く。

次回「西へ」

――トニトルスとなったグロウは、新しい力と向き合う。そしてその耳に、初めて人間の言葉の「意味」が流れ込んでくる。

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