「おっちゃん」
溶岩百足が狂った。
人間と蟲に同時に攻め立てられて、完全に暴走しとる。戦術も何もなく、ただ暴れ回る。巨体が空洞の中をのたうち、壁を砕き、地面を抉り、溶岩を撒き散らす。
赤い飛沫が飛ぶ。人間の魔術師が盾の魔術を張って凌ぐ。ガゼンが鋏腕で溶岩を弾く。ワイは甲殻の上を飛沫が転がって焦げるのを感じながら、角に電気を集め続けた。
混戦の中、ガゼンの鉄脚震が警告を発した。
低く、短く、二回。
「危険」の合図。ワイとガゼンの間で最初に共有した蟲音。
何が。
溶岩百足の体表の光が、変わった。
赤黒い輝きが一段と増して、体全体が脈動し始めた。溶岩の中にいる時みたいに、体温が急上昇しとる。
あかん。
直感でそう思った瞬間、溶岩百足が体を丸めた。巨大な体が円を描いてぐるりと巻きつき、中心に向かって圧縮される。
そして、弾けた。
衝撃波。
百足の全身から放射された高熱の衝撃波が、空洞全体を蹂躙した。
ワイの体が吹き飛んだ。壁に叩きつけられる。甲殻がばきりと軋んで、背中に鈍い衝撃。視界がぐるぐる回る。
地面に転がった。体中が熱い。甲殻の表面が焦げ臭い。
起き上がる。ふらつく脚を叱咤して立つ。
空洞の中が地獄みたいやった。
人間の魔術師が壁にもたれて気を失っとる。弓使いの女が膝をついて咳き込んどる。リーダーの剣士が剣を杖代わりにして立っとるけど、腕が震えとる。
レンが地面にうつ伏せになっとった。微かに動いとるから生きてはおる。
ルリハは。
――おった。
空洞の隅で翅を畳んで丸くなっとるルリハを見つけて、息が戻った。翅が赤紫に点滅しとるけど、体は無事そうや。衝撃波の直前に壁の窪みに飛び込んだらしい、賢いでホンマ。
ガゼンは。
ガゼンが、空洞の中央に立っとった。
八本の脚で。
甲殻のあちこちにひびが入って、脚の一本が不自然に曲がっとる。尾の毒針の先が折れとる。
衝撃波を正面から受けたんや。
あの巨体で。D級の甲殻で。
溶岩百足との距離が、一番近かったから。
ガゼンが体を引きずるようにして振り返った。半分潰れた複眼がワイを探す。見つけた。それからルリハを探す。見つけた。
二匹とも生きとることを確認して、ガゼンは――ほんの僅かやけど――体の力を抜いた。
安堵。
あの鉄の蠍が、安堵しとる。
自分が一番ボロボロなのに、最初に確認したのはワイらの無事やった。
「おっちゃん……」
「来るぞ」
ガゼンの蟲音が鋭い。
溶岩百足が体勢を立て直しとった。衝撃波を放って、こっちの戦力を削った。そして今、止めを刺しに来る。
百足の頭がガゼンに向いた。
一番近くに立っとるのがガゼンやから。
一番傷ついとるのもガゼンやから。
百足が突進してくる。大口を開けて。岩すら噛み砕く顎を広げて。
ワイは走った。
角に電気を溜めながら、全力で走った。間に合え、間に合ってくれ。
百足の顎がガゼンに迫る。
ガゼンは逃げんかった。
逃げる代わりに、ガゼンは振り返ってワイを見た。
あの目。
名前をくれた時の目。「お前に賭ける」と言った目。
ガゼンが、笑った。
蠍に笑顔なんかあるわけないのに、あの瞬間、確かにあの錆びた鉄の顔が緩んだ。
それから、ガゼンは前を向いた。
百足に向かって。
残った力の全部を、八本の脚に込めて。
ガゼンの生涯で最後となる鉄脚震が、空洞全体を震わせた。
それは索敵のための震動やなかった。渾身の一撃。地面が割れて、百足の脚元の岩盤が崩落する。百足の突進がほんの一瞬だけ鈍った。脚が崩れた地面にのめり込んで、頭が下がる。
その一瞬。
ガゼンが飛んだ。
あの巨体が地面を蹴って宙に舞った。折れた脚も、ひび割れた甲殻も無視して。
百足の頭の上に、鋏腕を振りかぶって落下する。
錆びた鉄の鋏が、百足の頭部の甲殻に食い込んだ。折れかけた鋏を、渾身の力で。
ガギッ!
百足の頭に、亀裂が走った。
でも、砕ききれんかった。
百足が頭を振って、ガゼンの体が投げ飛ばされる。空中で体が回転し壁に叩きつけられた。
ズドン、という重い音。
ガゼンが地面に崩れ落ちる。
* * *
動かへん。
ガゼンが動かへん。
甲殻が割れとる、あちこちから体液が滲み出とる。脚も四本折れとる…
でも。
目だけは開いとった。
半分潰れた複眼の、残った方の目が。
ワイを見とった。
ガゼンの元に駆け寄ろうとしたワイの行く手を、溶岩百足が塞いだ。頭の亀裂から体液を滴らせながら、怒りに満ちた無数の目がワイを睨みつける。
邪魔すんな!と、ワイの中で何かが弾けた。
怒り、恐怖、焦り。全部混ざったような名前のつけられへん感情が、体の中を駆け巡る。
角が帯電する。今までにない輝きで。
甲殻全体がバチバチと青白い光に包まれて、ワイの周囲の空気がビリビリと震え始めた。
ルリハが飛んでくる。ワイの横に並んで、翅を全開に広げる。瑠璃色の光が空洞を照らす。
ルリハの目にも、涙なんかないけど、あの金色の複眼が微かに震えとった。
二匹の視線が一瞬だけ交差して、すぐに百足に向き直る。
打ち合わせなんか要らん。
ルリハの光糸が百足の頭の亀裂に向かって飛んだ。亀裂の縁に糸が絡みつく。体表に触れてへん部分やから焼けへん。糸で亀裂をこじ開けるように引っ張る。
ルリハの小さな体が翅を全力で打って、全体重をかけて引く。
亀裂が広がった。ほんの数センチ。でもそこから、内部の柔らかい組織が覗いた。
そこや!ワイは跳ぶ。
百足の頭に向かって、あいつの顎も脚も無視して。
ガゼンの言葉が頭の中で鳴っとった。
「正面からぶつかるしかない時が来る。その時に、足が動くかどうか。それが覚悟じゃ」
足が動いとる。
ワイの足は止まってへん。
百足の脚が横からワイに向かって来とる。
避けられへんから甲殻で受けた。
ガキッ!と衝撃が全身を貫いて、体が横に吹き飛びかける。
せやけど堪えた。二対の腕で百足の脚にしがみついて、振り落とされんように耐えた。甲殻がみしみし軋む。
そのまま百足の脚を登る。しがみつきながら、百足の体を這い上がる。体表が焼けるほど熱い。甲殻の表面がじゅうじゅう焦げる音がする。
痛い。
雷命活を全開や!体内の電気を循環させ焼ける端から治すけど追いつかへん。治る速度より焼ける速度の方が速い。
でも止まる理由にはならん。
ようやっと百足の頭に辿り着いた。ルリハの糸がこじ開けた亀裂が目の前にある。
亀裂の中に角を突き立てた。柔らかい組織に、先端がずぶりと沈む。
そして――体の中に残った電気の全部を、角から注ぎ込んだ。
これはボルトストライクやない。溜めも無い、技でも無い。
ワイの全部や。
ワイが幼虫の頃から溜めてきた全部。あの日、体表を走った小さな静電気から始まって、雷蜥蜴を喰って手に入れた雷。ヴォルトビートルになって磨いてきた電気。全部。
全部を、こいつにくれてやる。
バヂヂヂヂッ。
百足の頭の内部で雷が炸裂し、その絶叫が空洞全体を揺るがす。
体が痙攣する。数十対の脚が一斉にばたつき、巨体が地面に倒れ込む。
ワイは百足の頭から転がり落ちた。地面に叩きつけられて、そのまま動けんくなった。
電気を使い果たしたからか体が重い。指一本動かへん。
でも、見えた。
溶岩百足が、動きを止めたのが。
体表の赤い光がゆっくりと消えていく。熱が失われていく。巨大な体がただの黒い甲殻の塊になっていく。
倒した、んか。
確認する余裕もなく、ワイの意識は暗転しかけた。
でも、暗転する直前に。
蟲音が聞こえた。
低くて。
かすれて。
今にも消えそうな。
でも確かに、ガゼンの蟲音やった。
* * *
どれくらい気を失っとったか分からん。
目を開けた時、空洞は静かやった。
溶岩百足は動かへん。体温が下がって、黒い岩みたいになっとる。
人間たちは空洞の反対側に退いとった。こっちを遠巻きに見とる。リーダーが他のメンバーに何か指示を出しとるけど、ワイらに近づく気配はない。
ルリハがワイの横にいた。
翅の光が弱々しい。体力を使い果たしとるんやろう。でもワイの甲殻にしがみついて、離れへん。
「ルリハ」
翅が一瞬だけ強く光った。瑠璃色。安心。ワイが目を覚ましたことへの。
「ガゼンは」
ルリハの翅が消えた。
光が、消えた。
* * *
ガゼンは壁際に横たわっとった。
ワイは体を引きずって近づいた。電気を使い果たした体が重い。二本の脚が言うことを聞かん。這うようにして、ガゼンの元に辿り着いた。
甲殻が割れとった。
あちこちから体液が滲んで、地面に暗い染みを作っとる。八本の脚のうち、まともに動くのは二本だけ。尾は千切れかけとる。右の鋏腕は古傷から完全に裂けて、もう閉じることもできへん。
でも、目は開いとった。
半分潰れた複眼の、残った方。
その目が、ワイを見つけた。
ガゼンの口元が動いた。蟲音を出そうとしとる。でも、音にならへん。体液が喉を塞いどるんやろう。何度も何度も口を動かして、ようやく掠れた音が漏れた。
「…倒し、たか」
「倒したで。ワイらで倒した」
「そう、か」
ガゼンの体が小さく震えた。笑っとるんか。泣いとるんか。分からん。
「よく、やった」
ワイは何か言おうとした、何か言わなあかんと思った。でも言葉が出てこん、喉の奥が詰まっとる。
ガゼンの蟲音が続いた。途切れ途切れに、一音ずつ絞り出すように。
「蟲淵に…行け」
知っとる。ガゼンがずっと目指しとった場所。
「すべての…答えが、ある」
知っとる、何回も聞いた。
「グロウ」
名前を呼ばれた。ガゼンがワイにくれた名前。
「ルリハ」
ルリハの名前も。ガゼンが翅の色を見て、「瑠璃のようだ」と言ってくれた名前。
ガゼンの鋏腕が持ち上がった。裂けた右腕やない。左腕。まだ動く方の。
ワイの頭に、触れた。
角に。
あの命名の時と同じ。信じられんくらい繊細な力加減で。
「儂の…分まで」
鋏が、角から離れた。
ゆっくりと、地面に落ちて…
ガゼンの目が、閉じた。
半分潰れた左目じゃない。ずっと開いとった右目が。最後まで、ワイらを見とった目が。
静かに…閉じた。
* * *
ワイは動けんかった。
ガゼンの体に寄り添ったまま、動けんかった。
蟲は泣かへん。そんな器官はワイには無いから、涙なんか出えへん。
でも、体の奥から何かが込み上げてきて、止められへんかった。
声が出た。
蟲音ですらない、何かに狼狽えた様なただの音。
ワイの横のルリハも声を出しとった。高くて細い、震える蟲音。
二匹分の声が、空洞に反響した。
ガゼンは答えへん。
もう二度と、あの低い蟲音は返ってこん。
「甘い」も。
「見せてみろ」も。
「おっちゃんと呼ぶな」も。
もう、何も。
人間たちが、遠くで見とった。リーダーも、弓使いも、魔術師も。
誰も口を開かんかった。レンだけが、こっちを真っ直ぐ見とった。
あの緑の目が大きく見開かれて、何かを堪えるように唇を噛んどった。
あいつにも分かったんやろう、目の前で起きたことの意味が。
あのでかい鉄の蠍が、小さな甲虫と瑠璃色の蟲を守りながら戦って、最後に名前を呼んで、笑って逝ったことの意味が。
モンスターには感情がない?
考えてない?
嘘や。
ここにあるで。ここに全部、ある。
ワイはガゼンの甲殻に額を押し当てた。
あの鉄みたいに硬くて、温かかった甲殻が、冷たくなり始めとった。
三匹で体を寄せ合った夜。ワイの背中を風から守ってくれた壁。ルリハの光を受けて鈍く光っとった鉄の体。
もう二度と温かくならへん。
「……おっちゃん」
「約束する。蟲淵に行く。全部、見つけてくる」
「ワイが。ワイらが、おっちゃんの分まで」
ワイの角から、ぱちり、と一粒だけ小さな雷が弾けた。
蟲は泣けへん。
でも雷は泣ける。
次回「第20話:トニトルス」
――ガゼンを喪ったグロウとルリハ。その喪失の中で、グロウは溶岩百足を喰い、二度目の変異進化を遂げる。




