土の中のワイ
朽葉の森。
エルディア大陸の東端に広がるこの森は、人間にとっては「わざわざ足を踏み入れる価値もない」場所らしい。魔素は薄く、貴重な薬草も鉱石もなく、棲んでいるのはG級からF級の弱いモンスターばかり。冒険者ギルドの地図には名前すら載っていない。
――もっとも、そんなことをワイが知るのはずっと後の話や。
今のワイは、手のひらに収まるくらいのちっさな幼虫でしかない。
朝が来ると、土の中から這い出す。湿った腐葉土の匂いが鼻――いや、蟲に鼻はないんやけど、とにかく感覚器官に染み込んでくる。甘い匂いと、腐った匂いが入り混じった、森の底の空気。
這い出してまずやることは、周囲の確認や。
体をうねらせて葉っぱの裏側に回り込み、じっと動かずに待つ。数えるという概念はまだなかったけど、体感で「これくらい待てば安全」という感覚はあった。空から鳥の影が差さないこと。地面に大きな振動がないこと。近くに蜥蜴の匂いがしないこと。
全部確認してから、ようやく飯を食いに行く。
飯いうても、腐葉土や。
朽ちた葉っぱ、倒木の欠片、たまに運がよければ木の実の残骸。それをちまちまと齧る。旨いとか不味いとかいう感覚は正直よう分からん。ただ、食えば体の中に何かが満ちていく感じがする。後にそれが「魔素」やと知るんやけど、この頃はただの「腹が膨れる感覚」やった。
周りには同じような幼虫がぎょうさんおる。
ワイと同じ種類の、甲虫型の幼虫たち。乳白色の体に小さな脚、頭にちょっとだけ硬い突起がある。みんな同じ見た目で、同じように腐葉土を食って、同じように鳥から逃げる。
でも、最近のワイは少し違う。
何が違うかって言われると、うまく説明できへん。ただ、他の幼虫たちが「食う・逃げる・眠る」だけで一日を終えるのに対して、ワイの頭の中にはそれ以外の何かがぐるぐる回っとる。
たとえば、今朝のこと。
いつものように腐葉土を齧っとったら、頭上の枝に鳥が止まった。灰色の羽に黄色い嘴の、この森ではよく見る小鳥や。蟲を主食にしとるやつ。
周りの幼虫たちは一斉に土に潜った。ワイも潜った。本能が「潜れ」と叫んどる。
でも、潜りながら考えとった。
――あの鳥、いっつもあの枝に止まるな。
昨日もそうやった。一昨日もそうやった。明るい時間帯に、いつも同じ枝。そこから地面を見下ろして、動いた蟲を狙う。
なら、あの枝の真下にさえおらんかったら、食われる確率はだいぶ下がるんちゃうか。
……こういうことを考えてしまう。
他の幼虫は考えへん。あいつらは鳥が来たら潜る。鳥が行ったら出る。それだけや。毎日同じ場所で同じように怯えて、同じように腐葉土を食う。
ワイだけが、パターンを見てしまう。
鳥の止まり木。蜥蜴の日向ぼっこの場所。蜘蛛の巣が張られやすい木の間隔。風が強い日には捕食者が少ないこと。雨の後は腐葉土の質が変わること。
全部、ただの景色やったはずのもんに、意味が見える。
嬉しいような、気持ち悪いような、不思議な感覚やった。
* * *
昼過ぎ、事件が起きた。
腐葉土を食っとった幼虫の群れに、上からトカゲが降ってきた。
小型の蜥蜴や。体長は幼虫のワイらの三倍くらい。G級の中では上位の捕食者で、蟲にとっては天敵中の天敵。
一匹の幼虫が咥えられた。短い悲鳴すら上がらへん。蜥蜴の顎がぱくっと閉じて、それで終わり。
周りの幼虫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げる。ワイも逃げた。体を必死にくねらせて、一番近い落ち葉の下に滑り込む。
心臓がばくばく言うとる。いや、蟲に心臓はない。でも体内の何かがどくどく脈打って、全身がびりびり震える。
――怖い。
食われたら終わりや。あの幼虫みたいに、一瞬で。何も残らん。
落ち葉の隙間から蜥蜴を見る。もう一匹捕まえとる。悠々と咀嚼して、飲み込んで、のそのそと日向の方に歩いていった。
しばらく動けんかった。
周りの幼虫たちが、もう何事もなかったかのように腐葉土を食い始めとる。食われた仲間のことなんか一秒も覚えてへん。さっきまで隣におった奴が消えたことに、何の感慨もない。
ワイだけが、まだ震えとる。
ワイだけが、覚えとる。
……なんでや。
なんでワイだけ、こんなにも「怖い」んや。他の幼虫は怖くないんか。食われた奴のことを忘れられるんか。明日は自分かもしれへんのに、平気で同じ場所に戻れるんか。
答えはない。
聞ける相手もおらん。
ワイの中の「なぜ」に応えてくれる存在は、この森のどこにもおらんかった。
* * *
日が暮れる。
朽葉の森の夜は暗い。月の光は木々の葉に遮られて、地面にはほとんど届かへん。代わりに、あちこちで微かな光が瞬く。蛍蛾や燐光苔の放つ淡い光。青や緑の冷たい灯りが、闇の中でぽつぽつと浮かんどる。
ワイは土の中に潜って、体を丸めた。
周りの幼虫たちも潜っとる。ぎゅうぎゅうに密集して、体温を――いや、蟲に体温はほとんどないけど、とにかく固まっとる。本能がそうさせるんやろう。固まっとった方が、捕食者に見つかりにくい。
でも、ワイは群れの端っこにおった。
なんとなく、真ん中に入る気になれへん。
理由は自分でもよう分からん。ただ、みんなと同じように固まって同じように眠るのが、少しだけ居心地悪い。ワイの中に渦巻いとる「なぜ」を、誰も共有してくれへん。同じ場所にいるのに、ワイだけが違う場所にいるような感覚。
孤独、っていう言葉を知ったのはもっとずっと後のことやけど、多分あの時ワイが感じとったのは、そういうもんやった。
体の表面を、微かな何かが走った。
ぴりっ、と。
静電気みたいなもん。土の中の湿気に反応したんか、ワイの体の表面がほんの一瞬だけ帯電して、隣の幼虫がびくっと跳ねた。
……なんや、今の。
触ったところが、痺れたみたいに感覚がなくなっとる。すぐに元に戻ったけど、確かに今、ワイの体から何か出た。
気のせいやろか。
考えても分からんので、とりあえず目を閉じた。
明日も生き延びなあかん。鳥に食われず、蜥蜴に食われず、蜘蛛の巣に引っかからず、この小さな体で、この広くて恐ろしい森を生きていかなあかん。
……でも。
その「なんとなく」の不安の中に、ほんの少しだけ別の感情が混じっとった。
もっと知りたい。
あの鳥のこと。蜥蜴のこと。この森のこと。ワイの体を走ったあの「ぴりっ」のこと。
全部知りたい。
知って、考えて、使いこなせたら。
この最弱の体でも、明日を生きる方法が見つかるかもしれへん。
土の中で、ワイは小さく体を動かした。
頭の突起――角と呼ぶにはあまりにもちっぽけなそれが、ほんの僅かに硬くなった気がした。
次回「第2話:鳥の法則」
――ワイは森のルールを読み解き始める。




