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「それは、一匹の蟲から始まった」

――以下は、王立カレドニア学術院のエリーゼ=ファーレンハイト教授が編纂した伝記『蟲帝記』の序章より抜粋する。

 初代蟲帝グロウ。

 その名を知らぬ者は、もはやこの大陸にはいない。

 黄金の尖角を戴く蟲の王。雷を身に纏い、容易く地形を変えたと伝えられる神話種。

 喰滅蟲の大群を雷で焼き払い、人族の大軍を蹂躙し、古竜を一撃で地に伏させた――大陸史上最強の蟲帝。

 だが、その始まりを知る者は少ない。

 朽葉の森の片隅で生まれた、手のひらに収まるほどの幼虫。

 G級――大陸最弱の蟲。

 それが、すべての始まりだった。



 暗い。

 湿った土の匂いがする。何かが体の上を這っていく感触。冷たくて、重い。

 それがワイの最初の記憶や。

 ――いや、「記憶」って呼べるもんやなかったかもしれん。もっとぼんやりした、ただの感覚の塊みたいなもんや。暗いとか、冷たいとか、腹が減ったとか。それだけ。

 ワイは幼虫やった。

 朽葉の森の土の中で生まれた、手のひらに乗るくらいのちっぽけな幼虫。頭にちょっとだけ硬い突起がある以外は、そこらの蟲と何も変わらん。

 最初の頃は本能だけで動いとった。腹が減ったら近くの腐葉土を喰う。何かでかいもんの気配がしたら土に潜る。それだけの毎日や。周りにも同じような蟲がぎょうさんおったけど、そいつらと何かを「話した」記憶はない。ただ同じ場所におっただけ。群れとも呼べんような、ただの塊や。

 変わり始めたんは、いつ頃やったやろう。

 ある日、いつものように腐葉土を喰うとった時のことや。すぐ隣におった蟲が――同じ種類の、ワイと同じくらいの大きさの幼虫が、上から降ってきた鳥にさらわれた。

 一瞬やった。

 ばさっ、と羽音がして、影が落ちて、隣のやつが消えた。

 ワイは咄嗟に土に潜った。本能や。体が勝手に動いた。心臓がばくばく鳴っとるのが分かった。――いや、蟲に心臓はないんやけどな。とにかく、体の中の何かがどくどく脈打って、全身が震えとった。

 しばらく土の中でじっとしとった。

 そして、ふと思った。

 ――なんで、あいつやったんや?

 その「問い」が浮かんだ瞬間、世界が変わった。

 大袈裟に聞こえるかもしれん。でもホンマにそうやった。それまでワイの頭の中にあったんは「食う」「逃げる」「眠る」だけや。そこに「なぜ」が入り込んできた。

 なんであいつが食われて、ワイは生き残った? たまたま隣におったから? ワイの方がちょっとだけ反応が速かったから?

 答えは出ぇへん。出ぇへんけど、問いだけが頭の中にこびりついて離れへんかった。

 それからや。

 世界が急にうるさくなった。

 風の音、虫の羽音、遠くで何かが木を引っ掻く音。全部が全部、意味を持ち始めた。あの音は鳥や。この振動はもっとでかい獣が歩いとる。あそこの匂いは――何やろ、甘い。果物か?

 見えるもんも変わった。朽葉の森はただ暗いだけの場所やと思うとったけど、よう見たら木漏れ日が落ちる場所とそうでない場所がある。湿った地面と乾いた地面がある。蟲が集まる場所と、何もおらん場所がある。

 全部に理由がある。

 そう気づいた時、ワイの中で何かが決定的に変わった。

 同時に、孤独になった。

 周りの蟲たちは何も変わらん。腐葉土を喰って、逃げて、眠る。それだけや。ワイが何を考えとっても、そいつらには関係ない。ワイがどれだけ「なぜ」を重ねても、返事をくれるやつはおらん。

 ワイだけが違う。

 ワイだけが、この森を「見て」しまっとる。

 怖かった。自分が何なのか分からんのが。周りと同じはずなのに同じやないのが。一匹だけ取り残されとるみたいで。

 でも――それ以上に、湧き上がってくるもんがあった。

 もっと知りたい。

 もっと見たい。

 もっと、強くなりたい。

 この森には、ワイを喰おうとするもんがぎょうさんおる。鳥、蜥蜴、蜘蛛、もっとでかい獣。ワイはG級や。大陸で一番弱い蟲。成長前の人族でも踏み潰せるような、そんな存在。

 でも、知性が芽生えてしもうた以上、ただ喰われるのを待つ気にはなれへん。

 腐葉土を喰いながら考えた。

 鳥はいつも同じ方角から来る。なら、その方角を避ければええ。蜥蜴は日当たりのいい岩場に集まっとる。なら、日陰を移動すればええ。

 知恵や。ワイに牙はない、爪もない、翅もない。あるのはこの知性だけ。

 せやったら、この頭を使うしかないやろ。

 頭の突起――角と呼ぶにはあまりにもちっぽけなそれを、朝露で濡れた葉っぱに映して見た。

 ちっさい。ホンマにちっさい蟲がそこにおった。

 けど、目だけは妙にぎらぎらしとった。少なくとも、ワイにはそう見えた。

 ――ええやん。

 ワイは最弱の蟲や。

 でも、この森で一番賢い蟲にはなれるかもしれん。

 朽葉の森の片隅で、まだ小さかったワイは歩き出した。

 体の表面を微かな静電気が走る。それが何を意味するのか、この時のワイはまだ知らんかった。

 これが、ワイの物語の始まりや。

 ――後の世で「蟲帝記」と呼ばれることになる、長い長い戦いの、ほんの最初の一歩。

おそらく五章構成になると思いますが、何万文字程度にしようかはまだ考え中です。

お付き合い頂けると嬉しいです。

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