「素材と呼ばれて」
中層に降りた瞬間、空気が変わった。
浅層とは魔素の濃さが段違い。体の中が熱くなるくらいの密度で、呼吸するだけで魔素が体内に流れ込んでくる。角がびりびりと疼く。
通路の様相も違う。浅層は灰色の岩盤が主やったけど、中層は壁に赤みが差しとる。地熱が近いんやろう。足元の岩がほんのり温かい。
ルリハが索敵糸を広範囲に張り巡らせた。中層はモンスターの質が上がる分、索敵の精度がより重要になる。
ガゼンが鉄脚震を使い、周囲を探る。
「……この先にE級の反応が複数。通路を塞いでおる。迂回するぞ」
E級。ワイより一段格上。正面からぶつかるのは避けたい。
ガゼンの指示で脇道に入り、大回りして先に進む。浅層と違って通路が複雑に入り組んどるから、ワイの頭の中の地図作りも追いつかん。ルリハの光糸の道標がなかったら、すぐに迷子になるところや。
中層に入って二日目の午後のことやった。
* * *
異変に気づいたのはルリハやった。
翅が一気に赤紫に染まった。索敵糸の振動を読み取る光の信号が、今までにない速さで飛んでくる。
「何か」「大きい」「二本脚」「四つ」「近い」
二本脚。
四つ。
二本脚で歩く存在が、四体。
ワイの体が一瞬で緊張した。二本脚。ガゼンが言うとった。この迷宮には人間も来る、と。
ガゼンの蟲音が飛んだ。低く、鋭く。
「隠れろ」
三匹が即座に動いた。通路の脇にある窪みにワイが滑り込み、ルリハが翅の光を消す。ガゼンは体が大きすぎて完全には隠れんけど、通路の分岐の奥に体を押し込んで、暗闇に溶けた。
足音が近づいてくる。
かつん、かつん、と硬い音。石の床を踏む、規則的な足音。
ワイは窪みの隙間から覗いた。
光が見えた。
ルリハの燐光やない。もっと明るくて、もっと鋭い光。揺らめく炎の光。松明。
その光に照らされて、ワイは生まれて初めて「人間」を見た。
* * *
四人おった。
全員が二本脚で立っとる。ワイと同じ二足歩行やけど、体の構造がまるで違う。甲殻がない。代わりに体の上から金属の板を被せとる。鎧、というやつやろう。手に長い棒みたいなもんを持っとる。剣。弓。杖。ガゼンから聞いた「武器」や。
先頭を歩いとるのは、大きな剣を担いだ男。体格がええ。鎧もごつい。顔には傷がある。
その後ろに、弓を持った女。目が鋭い。周囲を警戒しながら歩いとる。
三番目に、杖を持った男。ローブを被っとって、体が細い。
最後尾に、もう一人。剣を腰に差した若い男。他の三人より装備が軽くて、動きがやや緊張しとる。駆け出しっぽい雰囲気。
四人が通路を歩いてくる。松明の光がワイの隠れとる窪みに近づく。
息を殺した。体の帯電を可能な限り抑え込む。ここでぱちっと火花でも散ったら、気づかれる。
人間たちがワイの窪みの前を通過していく。
聞こえた。人間の声。
「――このあたりE級のモンスターが出るはずだが、今日は静かだな」
先頭の大きな男。低い声。言葉の意味は分からん。ワイはまだ共通語を理解できひん。ただの音の塊にしか聞こえへん。
「ギルドの情報だと中層に珍しい蟲系モンスターの目撃情報があったんだろ。素材としちゃ上物だ」
弓の女の声。高くて速い。何を言うとるのか分からんけど、口調が事務的な響き。
「蟲系は甲殻が錬金素材になるんでしたっけ」
最後尾の若い男。声が少し上ずっとる。
「ああ。特にD級以上の甲殻は硬度があるからな。いい値がつく。見つけたら即仕留めろ、逃がすなよ」
先頭の男の声。
四人が通り過ぎていった。松明の光が遠ざかる。
ワイは窪みの中で動けんかった。
言葉は分からへんかった。一言も。
でも、「分かったこと」はある。
あいつらの目。
通路の壁を見る目。地面の足跡を見る目。暗がりの奥を探る目。
あれは、狩人の目や。
獲物を探す目。ワイが鳥のパターンを観察した時の目と、根っこは同じ。ただし、ワイは情報を集めるために観察しとった。あいつらは殺すために観察しとる。
そして、あいつらが探しとるのは――蟲。
ワイら、や。
* * *
人間が去った後、三匹が合流した。
ガゼンの蟲音が重い。
「聞こえたか」
聞こえた。意味は分からんかったけど。
「儂には少しだけ分かる。人間の言葉を、長い年月の中でいくつか覚えた」
ガゼンの複眼が暗い。
「あいつらは蟲を探しておる。素材として。甲殻を剥いで売るために」
素材。
甲殻を、剥ぐ。
ワイは自分の体を見下ろした。赤褐色の甲殻。進化して手に入れた、ワイの体の一部。
あいつらはこれを「素材」と見とるんか。
ワイが考えて、悩んで、戦って手に入れたこの体を、ただの材料としか見てへんのか。
腹の奥が、冷たくなった。
怒りとも悲しみとも違う。もっと根本的な、存在を否定された感覚。
ワイらは、あいつらにとって「生き物」ですらないんや。
木の実を採るのと同じ。石を拾うのと同じ。そこにおるから獲る。使えるから殺す。それだけ。
ルリハの翅が暗い色に沈んどった。赤紫でも瑠璃色でもない、光を絞った鈍い色。あいつもワイと同じことを感じとるんやろう。
ガゼンが蟲音を続けた。
「これが蟲族の現実じゃ。人間だけやない。この大陸の知的種族にとって、蟲族はただのモンスター。害虫。素材。踏み潰して当然の存在」
知っとった。ガゼンから蟲帝の伝説を聞いた時に、蟲族がどういう扱いを受けとるかは聞いとった。
でも、知識で知っとるのと、実際に目の前で見るのは違う。
あの狩人の目。あの事務的な口調。ワイらの命に一片の重みも感じてへん態度。
それが、現実やった。
* * *
人間を避けて移動を続けた。
でも、中層は浅層より通路が限られとる。人間の冒険者パーティと行動範囲が被る。完全に避け続けるのは難しい。
二度目の遭遇は、突然やった。
曲がり角を曲がった先に、あいつらがおった。
目が合った。
先頭の大きな男の目が、ワイを捉えた。
一瞬の沈黙。
男の表情が変わった。驚きやない。獲物を見つけた時の、あの目。
「蟲だ!何級かは分からんが、甲虫型――初めて見る個体だ!」
声が通路に反響する。意味は分からんけど、興奮しとるのは分かる。
弓の女が即座に弓を構えた。矢を番えて、ワイに照準を合わせる。
速い。反応が速い。モンスターを狩り慣れた動き。
矢が放たれた。
ワイは横に跳んだ。矢が甲殻を掠めて壁に突き刺さる。がん、という衝撃音。
痛い。掠めただけやのに、甲殻の表面に線状の傷がついとる。
あれが直撃しとったら。
考える暇はなかった。
「走れ!」
ワイが蟲音を叫んだ。ルリハが翅を畳んで急降下、ワイの横に並ぶ。ガゼンが身を翻して通路を塞ぐように立った。
ガゼンが蟲音を発した。
「行け。儂が止める」
「おっちゃん!」
「行け!こいつらは儂なら対処できる。お前たちは逃げろ」
ガゼンの巨体が通路いっぱいに立ちはだかる。尾の毒針を高く掲げて、威嚇の構え。
人間たちが足を止めた。D級の蠍の威圧に、さすがに一瞬怯んどる。
その隙に。
「ルリハ、こっちや!」
ワイはルリハを連れて、脇の通路に飛び込んだ。全力で走る。二本の脚が地面を蹴って、暗い通路を駆け抜ける。
背後でガゼンの鋏が壁を叩く音がした。人間の怒声。金属がぶつかる音。
戦っとる。ガゼンが、ワイらを逃がすために。
走りながら、ワイは歯を食いしばっとった。
逃げとる。
ワイは今、逃げとる。
あの幼虫の頃と同じ。鳥から逃げて、蜥蜴から逃げて、今度は人間から逃げとる。
進化したのに。角が生えたのに。雷が撃てるようになったのに。
まだ逃げとる。
悔しい。
体表の雷がばちばちと弾ける。感情に反応して帯電が激しくなっとる。
* * *
しばらく走って、人間の気配が完全に消えてから、ワイらは立ち止まった。
ルリハが壁にもたれて、荒い呼吸をしとる。翅の光が弱い。全力で飛んだせいで体力を消耗しとる。
ワイも壁に甲殻を預けた。全身がドクンドクン言うとる。
矢が掠めた跡が、じくじくと痛い。雷命活で回復を始めるけど、体の奥の痛みは消えへん。
あの矢。
あの一本が直撃しとったら、ワイの甲殻を貫通しとったかもしれん。人間の武器は、モンスターを殺すために作られとる。ワイの甲殻なんか、あいつらにとっては紙みたいなもんかもしれん。
しばらくして、ガゼンが追いついてきた。
甲殻にいくつか新しい傷がついとるけど、動きに支障はなさそうや。人間を退けたんやなくて、威嚇で時間を稼いで離脱したんやろう。
「怪我は」
「ない。お前らは」
「ワイは掠り傷や。ルリハは疲れただけ」
ガゼンが頷いて、壁際に体を下ろした。
沈黙が重い。
ワイは口を開いた。
「……あいつら、ワイの甲殻を素材って言うたんやろ」
ガゼンが黙って頷いた。
「ワイらが考えとることも、仲間がおることも、名前があることも、あいつらは知らんのやな」
「知らん。知ろうともせん。それが人間じゃ」
ガゼンの蟲音に、怒りはなかった。諦めでもなかった。ただ、長い年月をかけて受け入れた事実を述べとるだけの、重い静けさ。
ワイは角を壁に押し当てた。硬い岩に角の先が食い込む。
「……強くならな、あかん」
ガゼンが顔を上げた。
「逃げるだけやと、何も変わらへん。蟲族はいつまでも素材で、害虫で、踏み潰される側のままや」
角に力を込める。岩に亀裂が入った。
「変えなあかん。ワイらがここにおることを、ワイらが考えとることを、分からせなあかん」
ガゼンの複眼が、ワイを見とった。
あの目。名前をくれた時と同じ目。期待と、それ以上の何かが宿った目。
「……その言葉、忘れるなよ」
短い蟲音。でも、ガゼンにしては珍しく、声が震えとった。
ルリハが体を起こして、ワイの隣に来た。翅が瑠璃色にゆっくりと灯る。
何も言わん。ただ、隣におる。
それだけで、ワイの中の冷たい塊が、少しだけ溶けた。
まだ逃げた悔しさは消えへん。人間の狩人の目が脳裏に焼きついとる。
でも、ワイはもう知っとる。
この悔しさは、強さに変わる。
絶対に…!
次回「幕間:剣士の違和感」
――人間の冒険者パーティの末席にいた若い剣士・レンは、あの赤い甲虫を見た時から、胸のざわつきが消えなかった。




